第4話

 ————ハルジオンの花が、咲き乱れている。

 まるで亡者を優しく包むかのように。


 この墓都市は今から四年前、イタリア中部の街フィレンツェをモデルに造られた。

 ルネサンス建築の音を奏でるように流麗な街並みは、まるで鎮魂歌を歌う天使みたいだと、完成当時の建築雑誌に絶賛の嵐が掲載されたほどだ。

 この街がつくられた経緯を鑑みるに、それは実にお似合いの表現だと栄真は思っている。


 もっとも、さっきまで栄真がいた『町外れ』にもなるとだいぶ手を加えられている。ショーパブやらキャバクラやらと、口にするのも憚られる下品な店が入った雑居ビルなんかが軒を連ねる、こ汚い街並みが形成されているのだ。

 この墓都市計画を立てた東京都初期のお偉いメンツが汚職事件に巻き込まれて軒並み退職、あるいは自殺に追い込まれていなければ、この街は今でも大変麗しいものになっていただろう。

 結果として、事件をよく知りもしない若造が完成させた墓都市は、アンバランスで見目麗しさのない街と成り果てた。


 ここまで関係者に不幸があると、【レザーフェイス】の呪いだなんだとマスメディアには散々騒がれるものだ。当時の苛烈な報道合戦については、幼かった栄真にも覚えがある。

 この一連の騒動について紐解くには、今より二十年昔の事件について語らなければならない。


 ————二十年と、少し前のこと。


 たったひとりの猟奇殺人鬼によって、東京都の総人口のおよそ二割が消えた。

 男は最初の被害者と目される男性から剥いだ顔の皮を被っていることから、【レザーフェイス】という通り名で呼ばれていた。

 チェーンソーやら斧やら肉切り包丁やらで、老若男女見境なく皆殺し。

 バラバラに解体したり皮や爪を剥いだり、徒らに目玉をえぐり出してプチっと潰したり、とにかく好き放題に暴れていた。

【レザーフェイス】という人物はそれほどに「破壊」という行為が好きなのだろうか。

 死体の第一発見者は気が狂ったとも報道されるほどに、現場は凄惨を極めたものだったらしい。

 ネットに流出した一部の画像は狂った奴らを大いに興奮させたが、各小学校中学校高校のPTAによる猛烈な抗議によって、強固なフィルタリングと規制が敷かれた。

 それでも見たい奴らが仕組みの穴を見つけてどこかの掲示板に貼り付けて楽しむのだから、日本も狂いに狂っていると世界的に猛烈な批判を受けても不思議じゃない。

 恐ろしいことに、奴はまだ捕まっていない。

 疑義の大小はあれど被疑者が多数出たのだが、肝心の決定的証拠が出なくてほとんどが早くに釈放された。

 時効というものが完全撤廃されて今も捜査は続行されているが、決め手に欠けるというよりは、もはやファンタジーなんじゃないかと噂されるほどに、証拠品から出る情報がしょぼい。

 捜査状況があまりにも遅々としていることで、事件は風化しようとしていた。

 だが被害者が多すぎて墓石の会社やご遺体を受け入れる寺院など、非常に多くの人びとが混乱していたことと、風化を防ぐ意味合いでもって、東京都が奥多摩の山を提供してこの墓都市計画が立案された。

 いわば慰霊碑の機能拡大版みたいなものだ。実際の計画立案から完成まで、ゆうに十年の時が流れたらしい。

 街の中心に総面積の六割にも足る墓地ができて、それを囲むように住居や店が並んでいる構造だ。外周部のこ汚い雑居ビル群は、完成当時には計画されていなかった。

 ここからが本題である。常人にはとても恐ろしく、理解の範疇を超える奇妙な歴史だ。

 その【レザーフェイス】をあろうことか神格化し、崇拝する連中が現れ始めた。

 やれ『神の裁き』だの『イエスの再来』だのと、被害者がいるにもかかわらず頭がトチ狂った解釈が、まだ安定して供給されていたインターネットの中で拡散された。

『みんなで【レザーフェイス】様を応援しよう!』なんて題して作られたブログは、腐るほどあったりしたのだから、どれだけ世間に浸透しているのかわかってしまう。

 仮想世界の中だけで済んだ話であればよかったのだが、残念ながらとどまることを知らない結果となった。

 墓都市と、そして日本中を巻き込んだ騒動はそういった【レザーフェイス】崇拝者たちの一部が集まり、徒党を組んだことから始まった。

 彼らが墓都市に現れては、自分たちの神である【レザーフェイス】が殺した被害者たちのご遺体を攫う蛮行を繰り返し始めたのだ。

 ご遺体を集めてなにをしているのか、攫われたご遺体はどこにやったのか。警察が総出で捜索しても未だに見つからない。ご遺体を攫われたご遺族の心中は、お察しするべきであろう。

 警察にも政府にも止められない彼ら【レザーフェイス】信者たちは、いつしか自らを『神が創りたもうたもの』の意味を込めて〈レザークラフト〉と名乗り始めた。

 神の名のもとに、汚れた地上の子らを浄化する……大方そんな感じの考え方だろう。

 そんなご遺体の行方不明とともに、〈レザークラフト〉たちが少女を連れている姿が目立つようになった。

 驚くべきことに、少女の身体は兵器に変形トランスフォームする。

 その武器を身に纏った〈レザークラフト〉たちと警察隊が戦闘になり、ついには自衛隊の投入が決定した。

 だが〈レザークラフト〉の中に、運よく兵役経験者がいたのかもしれない。自衛隊すら圧倒する戦闘術によって、墓都市は泥沼の戦場と化した。

 最新鋭の地対地ミサイルすら惜しまない自衛隊にすら止められない彼らの暴走に、当時の日本政府はようやく重い腰を上げた。墓都市へ特別に訓練した専門の『警備隊』を配置すること、そしてそのための法政策と施行が発表されたときは、すでに墓都市も半壊状態だった。

 政府と自衛隊のベテランたちが総監修した特別プログラムを受け、さらには実戦試験を受けたツワモノたちにのみ与えられる職業名、それが神父とシスター、ならびに『墓守ショコラティエ』だ。

 墓守ショコラティエの場合の給料は歩合制で、〈レザークラフト〉を一人倒して最寄りの政府機関に引き渡せば、政府が設定した危険度にもよるがだいたい二十万円はもらえる。しかも墓都市での生活はだいぶ優遇されていて、墓守のライセンスを持っていれば家賃が大幅に割引されるアパートやマンションも多い。

 だがその裏には、とんでもなく命の危険が伴う仕事が用意されているということを意味している。

 墓守も正教会も、戦闘時はツーマンセル制が強制。それは強すぎる〈レザークラフト〉と遭遇した場合の保険が理由のひとつとされている。

〈レザークラフト〉たちには、それぞれにコードネームとナンバーが与えられている。数字が若いほどに強いという仕組みで、二〇三二年現在で日本政府が把握して全国に指名手配されている“最強”のナンバーは、05。

 その05と戦って犠牲になった墓守は皆、自衛隊や米兵経験者などの屈強な者たちばかりであるのだから、まったく歯が立たないとはまさにこのことだろう。

 栄真もかつては墓守として戦い、数多の死線をくぐり抜けてきた実績もあるのだが、その期間中で一度たりとも05に出くわさなかったのは、不幸中の幸いだったかもしれない。一度だけ遭遇して逃げ延びた同業者に話を聞いたことがあったが、とてもじゃないが遭遇して生きていられる自信がないと予測できるほどに、05という敵の恐ろしさは破格のものだ。

 それとは別で、〈レザークラフト〉との戦い方が固定されている理由がある。

 彼ら墓守の相棒は機械人形サイボーグ————通称ドルチェ————の少女たち、と法律で定められている。

 機械人形ドルチェは元々〈レザークラフト〉が開発設計して現在でも使用している、一体で戦艦ほどもの価値と能力の、現代で最強最高の武器である。

 とはいっても、彼女たち単体だけではせいぜい後方支援程度しか活躍できない。その最大の特徴は、それぞれ固有の武器に変形トランスフォームする点であるといえよう。契約者の人間と共にしなければ、彼女たちの本領発揮はかなわない。

 彼女たちは心停止した新鮮な少女の脳を変形する機械の身体に積んだ、超高性能の機械兵器。忘れられがちだが、ヒトの脳というものはフル活用すれば、そこいらのコンピュータよりはるかに優れた性能を誇っている。

 その宇宙で最高のコンピュータが、使用者の身体と契約リンクし、神経の一本一本まで仔細な支配が可能な、おおよそヒト一人分もの巨大な質量と見合うだけの圧倒的なパワーを誇る武装。

 目には目を、歯には歯を、機械人形ドルチェには機械人形ドルチェを。

 その理不尽にも強い兵器に対抗するために、日本政府は全国から『公認機械技術者』と称して生え抜きの機械技術者を集め、ドルチェに対抗しうる、あるいは破壊できる兵器の開発を急がせた。

 結論から言えば、技術者たちは「機械人形ドルチェの改造」に行き着いた。

 ドルチェのシステムをハッキングしてウイルスを送り無力化、〈レザークラフト〉の手からほぼ無傷でもぎ取って、しかるのちにこちらの味方となるようにプログラムの組み直しなど改造を施す。

 最強の武器に対抗する武器をゼロから作るよりは、やや安易だがそちらの方が簡単だった。こちらの手に渡れば解析し放題だったものだから、日本国内の機械人形技術は発達し、やがて部品の段階から造るまでに至った。

 機械人形ドルチェはやがて戦闘用から、家事をさせる専用のものや歌を歌う娯楽性の高いものが開発され、日本の生活に深く浸透していった。

 しかし————機械人形ドルチェを、人形で遊んで楽しむ気持ちがあっても、いたわる心があっただろうか。否。

 たとえ詰め込まれた少女の脳が本物であろうと、いくら外見が見目麗しい少女であろうと、ドルチェはあくまで機械人形。武器であり、生活ツールであり、娯楽品なのだ。彼女たち機械人形ドルチェに人権などという、人間ものは適用されない。

 だが。


 栄真は、とあるひと気の薄い路地にたどり着いた。ここは墓荒らしが本来の目的である〈レザークラフト〉が出没する墓都市の最中央、共同墓地のすぐそばだ。

〈レザークラフト〉と穏やかに挨拶を交わしたい、なんてトチ狂った発想が浮かばなければ、一般人が来るような場所ではない。

 淋しくも哀しい、モネの『睡蓮』を思わせる通り。


 ————ここで……。


 しんと静まり返った煉瓦造りの路地で立ち尽くし、夕陽に照らされた自分のシルエットと向き合って、あの日の追憶に馳せる。

 ここで栄真のかつてのパートナーである機械人間の少女、木下コユリは死んだ。

 一年経ったいまでも栄真の目には、コユリの胸からどくどく流れる赤い液体エンジンの池が映っている。かわいた路面が雨に濡れた匂いと一緒に、液体エンジンのツンとした臭いが鼻腔にこびりついている。

 完全停止する寸前、コユリは一生懸命に微笑んでいた。最後の最後は口が動いているがなにを言っているのか、声になっていなかった。

 結局彼女の『最期の言葉』の意味はわからずじまいで、後日になって恵からコユリの核の欠片だけ渡された。栄真はいつもポケットに忍ばせている、その遺品を取り出した。

 この小さな水晶体が、コユリのすべて。コユリが確かにいたという、唯一の証。

 コユリはいつも、ハルジオンの花の香りを漂わせていた。この水晶体にも、ハルジオンの香りが染み込んでいるような気がする。

 機械のドルチェに墓を作る人間はいない。だって機械人形ドルチェは、『生き物』ではなく《道具》だから。

 コユリのアパートに残っていた荷物は、政府が全部処分した。恵に頼みこんで部屋に入れてもらったが、ワンルームの狭い室内には、彼女が生活していたという証は、なにひとつなかった。

 まるで————木下コユリなんて女の子は、最初から存在していなかったかのように。クリーニングを施された部屋には栄真が見慣れたものはなにもなく、ただ白い壁と古いフローリングが無言で佇んでいた。ハルジオンの香りもしない————。

 水晶体を手にしたまま、その場にしゃがみ込んだ。道中の花壇で咲いていたハルジオンだけの控えめな花束を、路地の隅っこに供えて、無言で手を合わせる。ここで死んだ彼女へ、懺悔と祈りを捧げた。

 あのとき……助けられなくてごめん。俺がもっと思慮深い大人であったなら……もっと強ければ……もっと、こころが強ければ。

 彼女がいなくなった今となってはどうしようもない後悔が次から次に溢れ出して、それらはやがて涙に変わる。野良猫すらいない路地に、栄真の痛々しい嗚咽が響いた。


「ごめん……ごめん、コユリ。全部……俺のせい、だ……」


 泣いてなにになる? 後悔して後悔して、立ち止まったところでなにが生まれる?

 もう一人の自分がそう諭しているのに、耳を塞いで聞き分けのない子供のように「もう歩けない」とベソをかいている。

 立ち上がる気持ちはまるで起きなくて、前を見ることはとても怖い。後ろを向いてばかりで、栄真のこころはいまも、一年前のあの日に取り残されたまま。恵がそばにいてあれこれ世話を焼いてくれなかったら、普通の生活すらままならないこの体たらく。

 自分でも情けないと思うし、もちろん変われるものなら変わりたいとも考える。だけどどう変えたらいいんだよ、と当然のような疑問に行き着いて投げやりになって、こうしてヒロイックに溺れてジメジメと涙をこぼす。なにも考えたくなくなると、パチスロなどの遊興に墓守時代に貯めこんだ莫大な金を、馬鹿みたいにつぎ込む。いまの栄真には、それしかできない。


 ————変わりたい。強く、強くなりたい。


 栄真の奥底に広がる、自分への怒りを表すように、どこか遠くから腹に響く雷の音が聴こえる。あの日と同じように、空に絵の具を溶いた水みたいな雨雲がじわじわ広がってきた。

 欠けている水晶体を、再び手のひらで転がしていたら————

「あっ……」

 カツンと、核が煉瓦の路面に落ちて転がっていった。栄真が慌てて追いかけようとした、そのとき。

 コロコロ転がる水晶体の進路上に、ワインレッドのリボンがアクセントになったチョコレートブラウンのショートブーツと、クリーム色のタイツに包まれた細い脚があった。

 ————やば、人がいたのか……。

 無様に泣いているところを見られたかもしれないという危惧が、栄真の頭をよぎって背筋が凍る。少々バツの悪い思いをしつつ。両目を乱雑に拭って、おそらく女性であると推測される通行人に、足元に転がっているソレは自分のものだと声をかけようとして、顔を上げた。

 説明の代わりに飛び出した栄真の声が、大きくないはずなのに路面に反響した。


「…………コユリ?」


 ふわりと、ハルジオンの花の香りが漂っていた。

 雨雲で覆われた暗い空にも映える長い栗色の髪が、ゆらりとたなびいている。髪と一緒に括ってある、ワインレッドのリボンが揺れた。

 長いまつげに縁取られたくりっとした、やたら大きな真紅の瞳が、勝気そうに光っている。しかし抜けるような新雪の肌に桜色の小ぶりな唇、整った鼻筋、すらりとむやみに細い体躯が、彼女の印象を儚げに見せているようだ。

 比喩の域を超えてまるで作り物めいた少女に、栄真の心に既視感を超えて懐かしさがこみ上げた。

 栄真には彼女が、死んだはずの木下コユリにしか見えない。いや、彼女はコユリだ。きっと、栄真の彼女に会いたい思いが作り上げた白昼夢だ。

 コユリが屈んで、自分の足元に落ちている水晶体を白魚のような美しい指で丁寧に拾った。


「コレ、あなたの?」


 少女は滑らかなオルゴールのような声で、栄真に問うた。そのなにかを咎めるような鋭さのある口調に、栄真はここで初めて違和感を覚える。

 コユリはどちらかといえばおっとりしている、いつも陽だまりのなかで昼寝中の老猫のような少女だった。

 一方で目の前にいる彼女は、姿こそコユリそのものだが、その瞳と空気にはどこか棘のある……人を警戒する手負いの野良猫みたいな、そんな凶暴性と淋しさを感じる。よくよく考えたら、彼女が身につけているようなひらひらした服装はコユリの趣味ではない。

 白昼夢や幻などではなく、実在する少女だと判明した戸惑いと、先ほど泣いているところを見られたかもしれないという羞恥があるものの、栄真は素直に答えた。

「あ、あぁ……ソレは俺が落としたものだ」

 手を伸ばして少女が差し出す落とし物を受け取ろうとした。

 しかし。

 ふいっと少女の手が逸れて、栄真の手が空を切る。


「『ありがとう』」

「?」


 一音ずつ区切り、はっきりと発音する彼女に、栄真はあからさまに怪訝な顔を向けた。すると少女は盛大なため息とともに、栄真にはまったく理解不能な文句を漏らす。

「あなた、人に落とし物を拾ってもらっておいて、まともにお礼すら言えないの?」

「……は?」


 なんだこの女は。普通、初対面でいきなりそんなこと言うか?

 そりゃあ長く生きていれば何回か思うことはあるかもしれないが、少なくとも栄真は口にできない。というか、この短い時間の中でそこまで思われるほどの言動はしていないはずだと、栄真の脳では記録し理解している。

 だが少女はさらに、ぐちぐちネチネチと嫁をいびる姑のごとく、理不尽な嫌味を言い始めた。

「いったいどういう教育を受けて育ったのかしら?レディに礼儀を欠くなんて、なってない男ね」

 ちょっとした行き違いのはずなのに、そこまで言われるとさすがに腹が立つ。栄真も負けじと言い返した。


「いきなりなんだよ⁉︎ べつにお礼言わないつもりとかないし!」

「アラ、それじゃあまず最初に言うべきだったんじゃないかしら? ワタシのことジロジロジロジロ見つめて、気持ち悪い」


 最後は吐き捨てるように、思いっきり侮蔑の目で栄真を見てくる少女。

 どうやら彼女は、栄真がコユリと重ねて見つめていた意味を曲解しているようだ。確かに彼女からしてみたら、栄真は長い時間見つめていたかもしれない。そして彼女にとっては、それがひどく不快だったのだろう。


「お前が知り合いに似てたから驚いただけだ。やましい気持ちなんてねーよ」


 栄真はこれで終わりにするつもりだったのに、ところが少女は食いついて離れようとしない。

「果たしてそうかしら? 男はオオカミっていうじゃない?」

「男がみんなそこらへんにいる女の子を見境なく襲うとか、絶対ないからな⁉︎ お前、自意識過剰ってやつじゃねーの!?」

 この子はもしや、昔のトラウマかなにかで発症した、男嫌いというたちの子なのだろうか。それにしても思い込みの激しい子だと、栄真はだんだん精神が疲労していくのを感じてうんざりする。そもそも恵以外でマトモに会話をするような人はほぼいないので、栄真のコミュニケーション能力はここ一年間で弱っていたのだ。

 だが彼女が栄真の大事なものを返却してくれる様子はなく、この疲れる会話は続きが始まった。

「警戒するに越したことはないわ。あなたみたいな不躾なヒトもいるんだし」

 と言って、彼女は自分の豊かな双丘を両手で押さえるように隠す。腕に押し付けられて、ブラウス越しにもわかるくらいに胸が形を変えるさまに、栄真の頬が自然と紅潮した。

「べ……べつにお前の胸見てたわけじゃねーよっっ!!」

「顔が赤くなってるじゃない! やっぱり見てたのね!?」

 見ないように顔を逸らしたのに、少女は遠慮なしにぐんぐん近寄ってくるので困る。あんまりにもきゃんきゃん言うものだから、栄真の視線はついついその大きな膨らみに吸い寄せられる。

 栄真の日常に女っ気はまるでないが、それは決して興味がないという理由ではない。その手の雑誌を自分で買って済ませるまではしないにしても、それなりに気になるお年頃である。

「そ、それはいまお前が強調するから……っ!」

 栄真のどもりを肯定と感じ取り、少女はさらに胸をきつく押さえてヒステリックに叫びだした。

「いやらしいっ! やっぱり男は不潔よっ!!」


 ここで「お前が煽っているんだろうが!」と反論したら、たぶん彼女は「どんな妄想をしたのよ変態っ!」とでも言い返してくるんだろうなぁ、なんて容易に想像がつく。わずかな時間の中で、この少女の性格が見て取れた気がしていた。

 だから栄真は極めて真面目かつ冷静に、自分の思う正論をもって返してやった。

「あのなぁ。そんなに男、男ってひとくくりにするのやめろよな! 確かに世の中にはスケベ丸出しのヤツとか、女の子にイタズラして傷つける変態ゲス野郎がいることは認める。だけどそれは女だって同じだろ?」

 がりがりとうるさそうに頭を掻く栄真に対して、少女は悲痛な声をあげた。

「なにが同じよ! 汚らわしいっ!」

 上下する少女の小さくか細い肩に、栄真の視線が集中する。

 彼女はその双肩に、いったいどれほどのものを背負って生きてきたのか。

 通りすがりの栄真にはわからないし、尋ねることすらしない。たぶん今日が終わったら、わざわざ彼女を捜して交流を持とうとも思わないだろう。でも。


「……お前の過去になにがあって、そうやって男を否定するのかは俺には知らん。でも、ひとつの結論にばかり囚われて生きるのは、間違っていないか?」


 ————いまの俺に、似ている気がする……。

 コユリとの思い出という過去に縛られて囚われている、立ち上がれない。このか弱い脚は、地面から離れようとしない。

 歩き出さなきゃって、後ろを振り返らないで進まなきゃって、わかっているはずなのに。あの日に置き去りの君を見ようと、月に振り向く。

 深い絶望と苦しいほどの淋しさを、目の前の彼女も知っているのだろうか。その深く吸い込まれそうな柘榴石ざくろいしの瞳に、なにが映っているのだろうか。

 少女は荒くなった息を叫びだしそうな想いとともにぐっと押し込めて、やがてむくれ面でポツリと呟いた。


「なんか……期待してたヒトと違う……」

「なんだって?」


 栄真が聞き返すと少女はさらにむくれて、栄真の手のひらに水晶体を押し付けて勢いそのままにきびすを返す。

「べつにっ。……その、それじゃあサヨウナラっ、エーシンくん」

 ずんずんと路地に消える、もはやなにに対して怒っているのかわからない少女の背を見送って、ひとりになった栄真はぽかんと阿呆のように呟いた。


「……俺、名前言ったっけ?」


 ————これが後に《最強》と謳われた栄真と機械人形ドルチェの、最悪の再会出会いだった。

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