第2話

 西暦二〇三二年も早いもので、五月になった。

 東京都の端っこで、いくつもの山をまるまる削りとられて、いまや世界でも稀に見る立派な墓都市となった奥多摩。中心地はどこにでもあるやや汚い街並みが乱立しているが、その周囲は異様そのもの。

 墓、墓、墓、墓だらけ。まるで戦後の騒乱後みたいだ。

 しかしこれらのほとんどが戦死者の墓ではなく、の墓なのだ。

 それはさておき。

 今日はいかにも初夏らしく、わずかに暑さを感じる陽気だ。

 街路樹すら植える気のない薄汚い町中となった現在ではわからないが、きっと若葉も伸び伸びと生い茂って目を癒すであろう、そんな季節である。


「かーっ、昨日も神父とシスターが大暴れだってよ!」

 縦半分に折り畳んだ新聞を眺めるダフ屋の親父が、煙草屋の夫人と話し込んでいる。近頃じゃ政府の目も厳しくなり、商売は上がったりだという話から始まった話題だ。

「アイツら精神科医の端くれのくせに、これ以上町を破壊すんなってのよねぇ」

 煙草屋の夫人も不満そうに煙管を口に咥え、口の横から煙を吐き出した。その煙を思い切り吸って噎せてしまったダフ屋の親父が「おいババァ、吐く場所くらい考えろや!」と文句を言い出したのを皮切りに、取っ組み合いの喧嘩が始まる。

 そんな間抜けで寂れた様子とは裏腹に、パチスロは見事に大盛況だった。

 大手パチスロの大きめなビルディング内部は、古びていながらも手入れされたエアコンが効いていてとても涼しい。

 安物の襟が伸びたTシャツと毛玉だらけの鼠色をしたスウェットズボンだけでは寒いので、中では薄いパーカーを羽織ってちょうどいいだろう————などと考えながら、青年は最後の玉をつぎ込んだ。

 しかしズボンは、そろそろ季節に合わせて薄手のものにしてもいいかもしれない。履きつぶしたボロのスニーカーも、去年から靴箱に入れっぱなしの汚れたサンダルにしよう————いよいよ玉も金も尽きた。

 青年は今日だけでもかなり酷使したパチスロ機の台から、とうとう離れた。パチスロの店員も、呆れた顔をしながら「ありやとやしたー」とやる気のない挨拶をする。

 花竹栄真はなたけえいしんはいつもの通り、陽光眩しい朝九時の開店から一円スロットに羽振りよく、一万円分の銀玉を突っ込んだ。

 調子のいい台を陣取って、一万が二万、二万が三万……開店前に九万円くらい入れたはずのボロんちょの革財布は、日が傾き始めたおやつ時にはすっからかんになっていた。

 代わりに両手に提げた大きめのビニール袋には、安い菓子類がたくさん詰まっている。

 これだけ長い時間パチスロの中にいると、見るからにロクデナシの客たちが吐き出す副流煙で服も髪も臭くなる。しかし何度も繰り返せば、それも気にならなくなるから不思議なものだ。

「お、兄ちゃん今日は当たったかい?」なんて他人への興味が薄いと自覚する栄真も見覚えのある常連客に気さくな声をかけられて言葉を濁し、やや気まずい思いをしながらそそくさと店をあとにした。

 さて帰って風呂に入るか、と臭い空間から排ガスで汚い町の空間に身をおどらせると、そこに古びた黒の軽ワゴン車が忙しく急ブレーキをかけて栄真の目の前に止まった。

 運転席から髪の長い中性的な顔立ちの男が、ひどく慌てた様子で降りてきた。

「栄真っっっ!!!!!」

 その、見るからに神経も線が細そうな男はほとんど叫ぶように呼びつけて栄真が抱えているビニール袋を認め、どちらかといえば柔和な印象の顔面を蒼白にして頭を抱えた。

「お前またパチンコに……っ、いくら使った!?」

 自分の後見人……もっと言えば父親代わりである彼の問いに対して、栄真は特に悪びれもなく、サクッとたった一言で片付けた。

「さぁ?」

「少しは財布を気遣えっっっ!!!! 今月はまだ始まったばっかなんだぞ!?」

 男————椿恵つばきめぐむのややヒステリックとも取れる糾弾に、栄真は明らかにムッとして反抗した。

「メシを調達してなにが悪い」

「駄菓子はメシじゃないっっっ!!!! あと、その辺のババァがやってる店のが絶対安いからな!?」

 と叫んだところで日頃の運動不足とヤニ漬けが祟って、ぜいぜいと息切れを起こした。

 息を整えてから、恵は痛む胃を軽くさすってジャケットのポケットに手を伸ばし、煙草と安物のライターを取り出す。

「……ったく。いい加減、就職かせめて進学してくれ……オレの慢性胃潰瘍を治してくれよ……」

 恵が咥える煙草の煙の行方をぼんやり眺めながら、栄真はビニール袋からポテトチップスの大袋を取り出して封を切る。安っぽい油の匂いが立ち込めた。

 のり塩風味のポテトチップスを口いっぱいに含んで、もごもごピントがずれた返事をする。

「うーん……俺、お医者さんはちょっと、精神的にしんど……違うめんどい? うん、めんどいわ」

「テメェに治してもらう話じゃないっっっ!!! ……ってそうじゃなくてな」

 言い直した方がなお悪いことは突っ込まず、悪い冗談もここまでにすることを予告した。

 恵はこれから栄真に告げなければならない情報をひどく憂鬱に思い、同時に彼への憂慮を込めたため息とともに副流煙を吐きだした。

「……上のヤツがな、お前に戻ってきてほしいんだと」

「……っ!」

 ポテトチップスを貪る手を止め、息を詰まらせた栄真がいまどんな記憶をたどっているのか……恵には手に取るようにわかっている。

 だからこそ、進んで伝えようとは思わなかった。

 むしろこのまま自分の中で処理して終わらせようとさえ、覚悟していたのだ。

 それでも中間管理職にして栄真の後見人という立場である以上、上と彼の橋渡しをして取りまとめないといけないという義務がある。

「単なる人員不足と、あと……」

 キリが悪く、言葉尻を濁している恵の瞳には、明らかに顔色の悪くなった栄真が映っている。おそらく彼も、話の流れをはっきりと予知しているのだろう。

 ————言えるわけあるかよ、クソッタレ。

「まぁオレからは断ったよ。そりゃあお前が真面目にどっかで就職でもしてくれれば、オレはこれ以上なく安心だけど……」

 彼を安心させたい一心で、背中を思い切り叩きながらそう笑い飛ばしたものの。

 これ以上言ってしまったら、すっかり脆くなった彼のこころがどうなってしまうか、恵にもわからない。いや、知りたくない。

 だからごまかして、ごまかして、逃げられるところまで逃げる。そうそう先延ばしにできる問題ではないのだと、充分に理解しながらも。

「でもな、あの頃のお前は誰がなんと言おうと————」

 言いかけ、栄真の肩に触れようとして寸前で手を止めた。

 我ながら、この言葉はこの子にとっては苦しめるだけだと……猛省するしかない。うまいこと、切り替えねばと必死で頭を回転させる。

「もう、そんなに自分を責めるな。自分で自分を解放してやれ」

 笑顔ののちまた、自分で自分の頭の悪さを思い悩む結果となった。

 ————安っぽい言葉しか思いつかない、自分が情けねぇよ……っ!

 いま自分が、彼にとってどれだけ難しいことを要求しているのか、よくわかっているつもりだからだ。

 誰がどう言っても、栄真があの時縛り付けられた罪の鎖を断ち切って彼女コユリとの思い出を捨てるなんて、できるはずがない。

 ここ一年の栄真はなにか苦しいことがあると、ズボンのポケットに手を添える癖がある。

 恵が想像するに、彼が与えたコユリの「唯一の遺品」をそこに忍ばせてあるのだろう。

 栄真はいつものようにズボンのポケットに手を這わせ、なにか言いたげに視線を彷徨わせるが結局、黙り込んでしまった。

 恵ももう、これ以上はなにも言える気がしない。というより、もう余計なことを言わない方が優しさなのかもしれない。

 すっかり短くなった煙草の火を靴の裏に押し付けて消していると、栄真が唐突にふらふらと歩きだした。

「おい、どこに行くんだ?」

「……ちょっと」

 振り向くことは決してせず、背中越しに聴こえた彼の声は、脆くいまにも壊れそうなものを内包した年頃の少年そのものだ。

 こう言うときの栄真が行く場所は、恵もよく知っている。だから止めない。むしろ、それが彼の一時の救いとなるのなら————。

「…………気ィつけろよ」

 答えはなく。静かに歩きだした栄真の背中を見送ってから、恵はやれやれとオンボロ車の運転席に戻った。

 どこへ向かう気もないので特にシートベルトはせず、もう一本だけと決めて煙草を咥えて火を点す。

————あれからもう、一年か……。

 ぼんやりと紫煙の行方を追って、自然と追想に入った。

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