ショコラ×ショコラ

雨霧パレット

第1話

 もうなにもいらない。

 もう誰も側にいなくていい。

 こんなにつらくて苦しい想いをするくらいなら、いっそ。

 ずっと孤独ひとりでいい。この命さえ……いますぐ天に還していい。だから。

 死なないで。

 死なないで。

 死なないで。俺の目の前ではもう、誰も死なないで。

 声が枯れるまで叫んで、泣いて、神にも似た“なにか”に必死で乞うた。だが————誰も、助けてくれはしない。

 ひとはいつだって、絶対の孤独なんだ。最後の最後に手を差し伸べてくれる人なんて、いやしないんだから。

 どんよりと落ち込んだ灰色の空模様のしたで、彼女にはあるはずがない涙が、うっすら見えた気がした。

 神でも仏でも、いっそ悪魔でも構わない。ささやかでいい、わずかでいい。一瞬でいい。

 彼女とのあの穏やかな優しい時間を、もう一秒だけください。

 それは噛み合わないパズルのピースのように、彼のなかに気持ちの矛盾を生じさせた。雨雲が絵の具を溶いた水のようにどんどん拡がり、やがてぽつりぽつりと雨を降らせる。

 ————俺のこころをそのまま表しているかのように、雨脚が加速度的に強まったのを、混乱の最中でもよく覚えていた。

 身体の熱が奪われていって、かいていた汗がいっしょくたに流れると同時に、指の感覚も無くなっていった。

 雨上がりが見えない濡れた煉瓦の路面に、本当に鮮血のように赤い液体エンジンがこぼれている。そのツンとする特徴的な臭いが、辺りに拡がっては雨に掻き消される。

 俺は彼女の、最初から冷たかった身体を抱きしめた。己の無力に絶望し、怒り、呪いさえした。

 コユリのちょっとざらついた声、甘いミルクのような肌の匂い、髪の毛の柔らかくて擽ったい感触————陽だまりのような笑顔さえ。

 もう思い出せないその、小さく細い手のぬくもりを一片も逃さないように。

 強く、強く。それこそ折れてしまいそうなほど強く、握りしめる。

 すると彼女は、息を吸うのも苦しそうに無理矢理に笑って、そっと俺の頬に手を添えた。

栄真えいしんくん。わたし、わたしね……栄真くんのこと、大好きでした』

 思いもよらないコユリの告白に、俺はなにも応えられず、ただただ泣いて縋るだけ。

 彼女が言っている言葉ひとつひとつのほんとうの意味も、なにもわかっていなかった。

 ただただ、これから襲い来るであろう己の孤独に恐怖して、喪失感を味わいたくなくて、赤ん坊みたいに泣き叫ぶ。

 いやだ、いかないでくれ。

 俺を置いて、消えないで。

 ひとりぼっちにしないで。もう、孤独ひとりは嫌なんだ。

 いまになって思えば、彼女への依存心が強すぎたのだろう。

 喚いて泣いて、地面を力任せに殴りつける。

 きっと我が儘を言う駄々っ子にしか見えなかっただろう、その惨めな姿を。コユリは薄れゆく意識のなかで、どう思っていたのだろうか。

 忘れたくないから。楽しかった思い出が、愛しかったあの日々が、波にさらわれて砂のように消えてしまうから。

 だからもう一度だけ……ほんの少しだけでいいから、側にいてくれ。独りの冷たさに手のひらが慣れるまで、握っていてくれ。

 俺のこころに君との記憶を、痛いくらいに刻んでくれ。

 ————それが、一年前の幼くて弱虫だった俺だ。

 たぶんそれは、二十歳のいまも……なにも変わることなく、あの日の降りしきる雨のなかで、一歩も踏み出せていない。

 君に伝えたい言葉もまだ、見つからないままだ。

 十字架だらけのこの街のなかで、俺たちはいったいなにを見ていくのだろうか。


 苦めのカラメル、キラキラアラザン、フランボワーズをたっぷりかけて。

 仕上げにほんのひと匙、苦めで甘じょっぱい涙を添えて。

 ショコラティエが、擦り切れそうなほどに切なくて仄暗い気持ちを込めて、その手で丁寧に織りなすショコラ。

 甘酸っぱい罪の味。

 いつか君を裏切る、俺のこころを綯い交ぜにしたその味。

 ————おひとついかが?

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