祈川尽の献身

愛庵九郎

祈川尽の献身

00


「どうかわたしを殺してくださぃませんか?」


天啓。


彼女が私に前に現れたときの感情を、一言で表すならそれだ。


あぁ、私は彼女に出会うために生まれてきたのだ。


苦悩に打ちひしがれ、私の足元で祈りを捧げる彼女の姿に、私は興奮すらおぼえていた。


ついに見つけた。


私が生まれてきた理由を。


01


私は自分の名前が好きだった。


あるいは、私はあたえられた名に運命づけられて育ってしまった。


祈川尽(いのりかわつくし)。


それは両親が私に授けた名前。


私ははからずも両親が望んだような人間になってしまった。


「どうすればセカイをすくえますか?」


純朴な瞳で質問された先生の困惑した瞳を、いまでも覚えている。


私はちいさなころから人を救いたいと考えていた。


道に迷っているおばあさんに声をかける、バスで妊婦さんを見かけたら席を譲る、いじめを黙って見過ごさない、おこづかいを災害で家を失くした人たちに寄付する。


私は思いつくかぎりの方法で人助けをしてきた。


人生においてよろこびを感じる瞬間とは何だろう?


テストで満点を取ったとき、スポーツで対戦相手に勝ったとき、告白をして受け入れられたとき、学園祭でステージの上で楽器を弾くとき、友だちと帰り道でふざけあってるとき。


私は、どれもダメだった。


そのすべてを試してみたわけではないが、世間でよろこばしいとされている瞬間でも、もうひとりの私がその状況を静かに見つめているような、空虚な気持ちになってダメだったのだ。


これは私が抱えている人間としての欠陥かもしれない。


私は、人を助けた瞬間にしかよろこびを感じられなかった。


助けた人が感謝してくれることによろこびを感じているのではない。


おばあさんがあめ玉をくれたとき、妊婦さんにお礼を言われたとき、クラスメイトが涙目ですがりついたとき、募金箱を持ったお姉さんが褒めてくれたとき。


もうひとりの私が。


死んだ目をしてその光景をじっと見つめていた。


それでも私は、人を助けたその瞬間だけ、たしかに満足していたのだ。


人を助けた瞬間にしか生きるよろこびを感じられない。


私は異常者なのだろうか?


仮にそうだったとしても、私の性質は誰に被害をもたらすものでもなく、私の日常生活に支障をきたすようなものでもなかった。


だから私はただ。


クラスメイトから半ば聖人のように扱われた。


02


「マリアさまがこっち見てるよ」


クラスメイトの女子がくすくすと笑いながら廊下を駆けていった。


どうすればもっと人助けができるだろうか。


そう考えていた私は、いつのまにか生徒会長になっていた。


年ごろの女の子たちとは違い、ファッションに関心を示さなかった私は、いつも二本のおさげを肩から下げていた。


どうすれば世界を救えるか日々考えていたため、本の読みすぎが原因か、目を悪くして丸い眼鏡をかけている。


その地味な外見は同世代の男子にはうけはよくなかったが、先生からの信頼も篤く、私は満場一致で生徒会長の任についた。


私は生徒会室の扉を開く。


目の前の窓から差しこむ橙色の斜光が目に染みる。


放課後の夕日を浴びて長い影をつくる黒革の生徒会長の椅子を引き、腰かける。


そして机の上に置かれた木製の目安箱の底を開け、折りたたまれた投書を机の上に広げる。


「ふむ。今日は5通か……」


生徒会長になってから、どうすれば効率よく人助けができるかを考えていた私は、目安箱を設置することにした。


人助けとは何か。


根本的な疑問を抱いた私は考えた。


人助けをするためにはまず、助けを求めている人がいないといけない。


いままでは足を使って助けを求めている人を探してきた。


日が暮れるまで街を歩き回っては、困っている人がいないか探し回っていたのだ。


そして私は気づく。


助けを求めている人は、そう簡単には見つからない。


それは私が抱いた最初の絶望だった。


この世界は苦悩に満ちあふれている。


しかし、私が日々歩き回れる範囲では、そうそう見つけることなどできないのだ。


せいぜい週に数回、道に迷っている人を正しい目的地に導いたり、青信号が赤になる前におばあさんの重い荷物を持ってあげられるくらいだ。


それだって人助けであることに変わりはなく、私がちいさな生きがいを得ていたのは間違いないのだが――


これでは、いつまで経っても世界を救うという目的は叶えらない。


そこで私は方針を変えることにした。


自分で探して見つからないのなら、助けを求める人に声を上げてもらえばいい。


その結果が目安箱だった。


しかし……、


「どうしても英語が苦手で成績が上がりません。どうすればいいですか?」


この手の日常的な相談がほとんどだ。


「生徒会で勉強会を開くのもいいかな。講師がいなければ私が勤めてもいいし……。次は――」


「生徒会長! 僕とつきあってください! 1年C組 安斎慶太」


……………。


このような悪戯の投書がほとんどだ。


「これはくず籠ね。そして……ん?」


カマキリの内蔵から飛び出すハリガネムシのような下手な字で書かれた投書に目を止める。


「わたしを……殺してください……?」


半ば以上はただの悪戯だと思っていたが、もしかすると何か深刻な問題を抱えた生徒がいるのかもしれない。


その可能性を追っていた私の思いは、投書人の記名欄を見てかき消える。


「プニーフタール……?」


私は投書をくしゃくしゃにしてくず籠に投げ入れた。


「旧き神がこの学園に何の用だってのよ……」


私は残りの投書を開いていく。


03


「はぁ……」


ステンドグラスで七色に染まった昼日中の明かりが、教会の身廊に落ちていた。


この学園はミッション系なので、学園内に教会が設置されているのだ。


私は教会の中にある告解室の扉を開け、木製の椅子に腰かける。


告解室とは、それぞれに扉がある小部屋がふたつあり、その小部屋同士は壁で仕切られているが、壁には格子のついた小さな窓があり、司祭が信者の話を聞けるようになっている部屋だ。


本来は、信者が司祭に罪を告白して神の許しを得るための場所なのだが。


先生からの信頼が特別に篤い私は、この部屋をお悩み相談室として使うことを許されている。


生徒にとって貴重な時間とされる昼休みの時間を割き、このお悩み相談室を開いているのだが。


それを辛いと思ったことはない。


むしろ。


人助けをすること、それだけが私の生きがいなのだ。


この時間がなければ私は、生きていないのと同じだ。


ガチャリ。


反対側の告解室の扉が開く音がする。


格子の隙間から学園の制服が見える。


深緑色のスカートは女生徒の証だ。


「こんちには」


「……」


「名のりたくなければ名のる必要はないわ」


告解室は薄暗く、女生徒の顔はよく見えない。


「ここに来たということは、何か話したいことがあるということでしょ」


「せかしはしない。話せるときに話してくれればいい」


「……………」


女生徒は黙りこくって口を開こうとしない。


こういうことは珍しいことではない。


人それぞれ悩みを抱えていて、その重さもそれぞれの人によるのだ。


簡単に口を開ける人ばかりではない。


「私は……」


女生徒のか細い声が狭い告解室に響く。


「病気……なんだと思います……」


「……? そう、診断されたってことかしら?」


「いえ……私……生きてるのが辛くて……」


「それは……どうして?」


「なんだか……何をやってもつまらないんです。友だちが楽しんでいるようなことをやっても、ぜんぜん楽しめなくて……」


「鬱の兆候かしら……? 何か思い当たるような節はある?」


「実は……私には夢があるんです」


「夢……? それは、いいことなんじゃないかしら……」


「でもその夢はあまりにも身の丈に合わなくて……ぜんぜん叶えられる気がしなくて……」


「それは……どんな夢?」


「……大切な夢です。私は子どものころからこの夢を叶えるために生きてきたといっても過言ではありません……」


「それはたとえばスポーツ選手になるというような夢かしら……? だとすれば簡単には叶えられないのもわかるけど……」


「あまりにも大きな夢に押し潰されてしまいそうで……毎日息苦しくて……」


「それは大変ね……。それだけ大切な夢なら、簡単には諦められないわよね……」


「味気ない毎日……私はしかたなく日々のルーティンに集中することで、気持ちをまぎらわせてきました……」


「つまらない勉強や……学園内の美化……友だちとのコミュニケーションや……学園行事の進行……ひとつひとつに熱心に取り組むことで、私は虚しい日々をごまかしていました……」


「……でも、もう疲れたんです」


女生徒は顔を覆ってうつむいてしまう。


「叶わない夢を見ながら……周りに求められるような人物でありつづける……そんな生活に……疲れてしまったんです……」


「こんなこと気軽に言っていいのかわからないけれど……その気持ちわかるわ」


「……もうこんな生活終わりにしたいんです……無味乾燥な日々……誰かに求められる人物像を演じるような生活……嫌になってしまったんです……」


「待って……! 早まらないで! いまはそう思えないかもしれないけど……夢を諦めても、生きる道はあるはずよ……」


「……………私の夢、何だと思います?」


「あなたの夢は……私にはわからないけど……」


「世界を救うことだよ」


私の全身に悪寒が走る。


女生徒の手が格子に食い込み、その隙間から指が飛び出す。


「私はおまえだ」


格子の向こうにはおさげで丸眼鏡をかけた私の顔があった。


「消えろッ!!」


甲高い哄笑を私の頭の中に残し、もうひとりの私は消えた。


私は頭を抱えて狭い告解室の中で体を丸める。


「大丈夫私は病気じゃないまだ大丈夫私なら生きていける私はつらくなんかない疲れてもない私は人を助けるために生まれてきて私は世界を救うために生きている私は大丈夫私はこんなところで終われないんだ」


私は全身に脂汗をかきながら、早口で呪文のように自分に言い聞かせる。


肩を使って大きく深呼吸をし、高く拍動する心臓を落ちつける。


「……ぁ……ぁの」


「っ……!?」


私の叫び声に驚いたのか、目の前の告解室の開いた扉の前で、女の子が尻もちをついていた。


「ぉ邪魔だったでしょぅか?」


女の子の声はか細く、油断すると空気に溶けていってしまいそうだった。


「いえ、そんなことないわ。そこに座って、悩みを聞かせて」


「はぃ……ぁりがとぅござぃます」


女の子は白いワンピースを着ていて、制服じゃないことに違和感をおぼえはした。


しかし、こういう場所に来る生徒だ。


もしかすると何か特別な事情があるのかもしれないと、私は自分を納得させた。


納得させたのだが。


「ぁの……わたしを殺してくれませんか?」


女の子の言葉の前に、そんなことは些細な問題だった。


04


「え? ごめんね、よく聞こえなかったみたいなんだけど……」


女の子の声はとてもか細く、いまにもかすれて消えてしまいそうだったが。


対する私は地獄耳だった。


「ごっ、ごめんなさぃ……わたしを殺してくれませんか?」


2回聞いても結果は変わらなかった。


この女の子は私を犯罪者にしたいらしい。


そんなことはできない、とまっ先に思い浮かんだが、口には出さない。


「どうして、私に殺してほしいのかしら……? 理由を聞かせてくれる?」


「それは……ぇっと……わたしは死ねなぃんです……」


「え?」


今度はもういちど聞くまでもなかった。


私は脳のメモリの8割方を使い、最適な病院を探していた。


「どぅやって死のぅとしても……死ねなぃんです……だから……祈川さんに殺してもらぉぅと思って……」


「え、なんで?」


私は珍しく思った言葉をつい口にしていた。


「ぁぅぅ……ごめんさぃ……」


「い、いえ、こちらこそごめんなさい。でも……なんで私なのかしら……?」


「そ、それは……祈川さんが……ぃろんな人を助けてきたって聞ぃたから……祈川さんは……救世主だって……」


「それは……過大評価もいいところだけど……私にだって……できることとできないことくらいあるわ」


「それでも……もぅわたしには頼れる人がぃなぃんです……祈川さん……助けてくださぃ……」


私は息をのんだ。


ぐつぐつと胸の奥底でマグマのような思いが滾るのを感じる。


私は、


私は――


「わかった。あなたの名前を教えて」


この瞬間を待ってたのだ。


『プニーフタール』


「え? ……あなたまさか、あの投書の?」


「そぅです……ぉ手紙書きました……」


ガチャッ。


私は告解室の扉を開けて外に出る。


「……姿を見せてくれる?」


ギイィィィ……。


扉をゆっくりと開いて出てきたのは、せいぜい小学生にしか見えない女の子だ。


まっ白な髪がふくらはぎのあたりまで伸びていて、透けるような白い肌と、生地はくたびれているもののこれまた白いワンピースのせいで、浮世離れした印象をあたえる。


大きくて丸い瞳は火口湖を思わせた。


けして澄んではいないが、深みのあるエメラルドグリーンの湖面。


間違いなくうちの生徒ではなかった。


「ひとつ、聞かせてくれる?」


「はぃ……なんなりと」


「あなたの言葉……ほんとうなのね……?」


「ふふっ……そぅ言ぅと思ぃまして……」


はじめて笑みを見せた女の子は、どこからかモデルガンを取り出した。


サブコンパクトの拳銃だが、女の子の手には大きく見える。


あれはたしか……ルガーLCPだったような。


私がそこまで考えていると、女の子は不意にこめかみに銃口を突きつけた。


ズダァンッ!!!


轟音が教会に響き渡り、ステンドグラスをビリビリと揺らした。


「は?」


女の子のこめかみからぶちまけられた血液が、教会の長椅子にまだら模様をつくる。


「は? え? ちょっ……え?」


私はお腹の奥まで響いた銃声に体を震わせ、ただ立ちすくむことしかできなかった。


うつ伏せになった女の子の頭からどくどくと血の池ができる。


「嘘……救急車……いや、これじゃもう……警察……」


大量の血の赤、硝煙と鉄分の臭い、耳の奥でこだまする銃声――


あまりに現実離れした情報の波に私は卒倒しそうになる。


「とまぁ……こぅぃぅわけでして」


血まみれの女の子ががばりと顔を上げる。


私は金切り声を上げて尻もちをついた。


「な、な、なんで生きてるのよ!?」


「わ、わたしにも分からなぃんですけど……どぅやっても死ねなぃ体質みたぃなんです」


その拳銃はどこから?

そもそもあなたは誰?

どこから来たの?

何で死にたいの?


数々の疑問が湧いたが、ふたたび回転しはじめた私の脳が優先順位のいちばん上に置いたのは。


「証拠隠滅」


「ほぇ……?」


私はロッカーから掃除用具を取り出し、猛烈な勢いで血痕を拭きあげていった。


05


「いくわよ……?」


「はぃ……ぃつでもどうぞ」


彼女は納屋の木製のテーブルに上で、祈るような姿で仰向けになっている。


対する私はというと、両手で構えたチェーンソーの刃を彼女の白く細い首に向けている。


何でこんなことになってるかというと、私は彼女と相談し、考えられるかぎりの方法で彼女を殺すと約束した。


あの衝撃的な出会いから3日。


その手はじめが斬首だったというわけだ。


さすがに脳と胴体を切り離されて生きていられる人間はいないはず。


そう考えた私は、休日に遊びに行くと連絡し、林業をやっている叔父の家を尋ねたというわけなのだが……いまはそれどころではない。


ただの女子校生の何人が、いまから人間の首を落とすという瞬間に平静でいられるのか。


チェーンソーを握る私の手はじっとりと汗ばんでいた。


「ほんとに……いいのね?」


「はぃ……よろこんで……」


彼女は眠るように目を閉じて全身の力を抜いている。


「それとも……」


彼女は片目をぱちりと開き、唇の端を吊り上げた。


「……こわぃですか?」


私はチェーンソーのスターターグリップを引いてエンジンを始動する。


エンジンの振動がビリビリと手に伝わる。


「死んでも知らないから」


「……本望です」


私はチェーンソーの刃を彼女の首に押しつける。


血しぶきが私のゴーグルにはね返り、彼女が悲鳴をあげた。


「ちょっ、ちょ、ちょっ、待って! ストップ!」


「……ふぇ?」


私はチェーンソーのエンジンを切ってブレーキレバーを倒す。


涙目になった彼女は、薄目を開けてこちらを見る。


「……え? 痛いの?」


「……はぇ? ぃ、痛ぃですけどぉ……?」


「何回も死んでるのに……?」


「はぃ……何回死んでも痛ぃですよ」


「嘘……聞いてない」


「でもさすがに慣れてるんで……サクッとやっちゃぃましょ!」


彼女は首から血を流しながらグーサインをつくる。


いやいやいや勘弁してくれ。


私は彼女を殺してあげたいが、苦しめたいわけじゃない。


痛い思いをして、それでも死ねず、また痛い思いをして、死ねないのをくり返すなんて、そんなの、想像を絶する――


「大丈夫ですよぉ……わたしは死ぬためならどんなことでもできますから……」


彼女は幼い顔で、老婆のように達観した笑みを浮かべた。


「恨まないでよ……」


「望むところです……」


ヴイィィィィィィィィィィン……!!


チェーンソーが唸りをあげて彼女の首に吸い込まれた。


彼女が悲鳴をあげる。


が、それをかき消すくらいの大声で私は叫んでいた。


………


ダンッ!


エンジンを切ったチェーンソーを納屋の床に放り投げた。


「――っ、はぁっ、はっ、はぁ、はぁ、んぐっ……んはぁ、はっ、はぁ」


私は下着までぐっしょり汗まみれになり、床に腰を下ろして肩で息をしていた。


私のセーラー服は返り血でまっ赤に染まり、納屋は惨劇の様相を呈していた。


窓は血しぶきで赤い虎柄になり、血だまりには女の子の首が転がっている。


「サム・ライミの映画じゃあるまいし……」


私は彼女の首を両手ですくいあげる。


赤く染まった長い髪が床に伸びる。


「……これで死んじゃったら、私とんだ殺人鬼じゃない……。チェーンソーで首を切断なんて、新聞に載ってもぜんぜんおかしくないわ……」


私は彼女の白く長いまつ毛を見つめる。


「実はあの銃はフェイクで……この子にハメられてたとしたら……」


「私、人生の道を踏み外したもいいとこじゃない……首狩りマリアなんて冗談じゃないわ……」


私は親指を彼女の唇に重ね、赤い血を口紅のように塗った。


「ところがどっこぃ生きてるんだな!」


彼女が目をかっと見開き叫ぶ。


私は思わず彼女の頭を取り落とした。


「ぃだぁっ……!?」


彼女の頭がごろごろと木の床を転がる。


私は慌てて彼女の頭を拾いなおす。


「ほ、ほんとに生きてるんだ……」


「ひどぃじゃなぃですかぁ……たんこぶできたらどうするんですか……」


生首のくせに皮下出血を気にしている。


首だけなのに口が減らないものだ。


「というか……声帯もないのにどうやって喋ってるの……?」


「ぃま……ぁなたの心に直接語りかけてぃます……」


地獄耳を舐めるな。


「まぁ、そんなことはどうでもいいわ。首と胴体を切り離しても死なないなんて……どうなってるの?」


「さぁ……? わたしにもわからなぃんです」


驚く私の顔を見て、生首はにこにことほほ笑む。


「脳か心臓に再生能力の根源があると思って切り離してみたけど……当てが外れたみたいね」


首の断面からはもう血は流れず、再生がはじまっているらしい。


「これ、頭と胴体を切り離したままにしてたら、ふたりになったりしないわよね……?」


私は嫌な想像を振り払うために聞いた。


ひとりでも手に余るのに、ふたりも面倒見切れない。


「プラナリアじゃなぃんですから……頭と胴体が別々で生きてます」


「それはそれで……」


「でも頭と胴体をくっつけたらすぐに元に戻りはじめますよ」


「ふむ。再生能力の根源が脳や心臓にあるのではなく、細胞にあるとしたら厄介ね」


彼女の頭と体をくっつけると、首の皮膚がつながっていき、しばらくして手を離すと、肉や骨までも固定されたようだった。


「すごいわね……あなたのサンプルを欲しがる人たちが、世界中にたくさんいるわよ」


「わたしは死にたぃだけなんですよ……」


彼女はわたしの手の中で穏やかな笑みをつくる。


「あな――いや……名前がほしいわね」


「ほぇ……?」


「ほら、もっと呼びやすい名前があると便利かなって」


「プニーフタールは呼び」


「呼びにくいわね」


食い気味で名前を否定すると、彼女は「ぐぬぬ」と声に出した。


「プニーかニフタがいいと思うんだけど」


「プニーでお願ぃします」


今度は彼女が食い気味で返答する。


「……なんで」


「かわぃぃからです」


彼女が大きくて丸い目をきらきらと輝かせるので、まぶしくて直視できない。


……まぁそんなとこだろうとは思った。


「うん、わかった。今日は失敗しちゃったけど、よろしくねプニー」


「はぃ! よろしくぉ願ぃします!」


プニーはつながったばかりの頭をうれしそうに下げた。


「いつかあなたを殺すわ」


「楽しみにしてます」


私の不敵な微笑を、プニーは無垢な笑顔で返した。


「……さて、プニーさん。私たちにはやらなければならないことがあります」


「なんでしょぅ、先生!」


私は納屋の中を見渡す。


「このホラー映画のセットを、ただの物置に戻すことです!」


「先生! 掃除は苦手です!」


「殺人の歴史は掃除の歴史よ!」


「ぅへぇ……」


私はプニーの尻を叩き、納屋をぴかぴかに磨きあげた。


06


1週間後の朝。


私は十数分ほど山を登った先にある空き地にプニーといっしょにいた。


空き地といっても広さは学園の教室ひとつ分よりは小さく、林に囲まれていて見通しはよくない。


そのため、人をひとり殺すには悪い条件ではなかった。


「わー! 涼しぃ風! 川のせせらぎ! 森林浴とピクニックにはもってこぃですね!」


いまいち死ぬ気が感じられないプニーがはしゃぐ。


「そうね。ちゃんとお弁当も持って来てるわ」


私はスポーツブランドのリュックサックを漁り、ナイロンのロープを取り出した。


蛍光オレンジの派手なロープだが、色はこの際どうでもいい。


「じゃあ、そこに横になってくれる?」


「はーぃ」


プニーは枯葉や若草や土の上に体を横たえる。


「お弁当……食べられないといいわね」


「それはちょっと残念……」


こいつほんとうに死ぬ気があるのか?


私は両手にオープンフィンガーグローブを着け、プニーの細い首にロープをかけていく。


「準備はいい……?」


「ぃつでもどうぞ……」


私は革靴を脱いで、黒いストッキングを履いた足をプニーの胸の上に乗せた。


「失礼するわよ……」


「ぁりがとぅござぃます……」


そんな教育をした覚えはない。


「いくわよ……」


「………」


私は地面にストップウォッチを置いて、スイッチを入れる。


そして両手にぐるぐる巻きにしたロープに力を込め、プニーの首を絞めた。


「ーーっ、……! ぁーーっ! ぁ……っ!」


プニーの首に二重に巻かれたロープが深く喰い込んでいく。


私の両手とプニーの首に巻かれたロープがきれいな二等辺三角形をつくる。


「くっ……なかなか大変ね……これ」


椎骨動脈の血流を止めるのに必要な力はおよそ30kg。


だけど、小学生ほどの体格しかないプニーならもっと少ない力で事足りるはずだ。


脳への血流を阻害すると、酸素の供給ができなくなり、7分ほどで脳幹に影響が出て脳死状態に陥る。


が、プニーの特殊な体質を考えると、10分、いや15分、できるならもっと首を絞めつづけたい。


「ーー、っ……ぁ! がっーー……………………………」


首に手を伸ばしていたプニーの反応がなくなる。


脳への血流が阻害されると10秒ほどで意識が失われる。


ここからは私ひとりだけの戦いだ。


「ぐっ……やっぱり素直に首吊りにした方がよかったかな……」


脳の血流を阻害するためなら首吊りの方が効率的だったはずだが、いかんせんプニーでは体重が軽すぎるのが不安要素だった。


椎骨動脈の血流を止めるほどの力が、首吊りではかからないのではないか。


むしろ、絞殺を選んだ方が脳への血流を阻害するのに適しているのでは、と考えた。


それに……


「自分の手で彼女を殺す感覚……ごまかしたくないと思ったけど……」


もう後悔してる。


おでこから流れた汗が顎を伝ってプニーのワンピースに落ちた。


いま何分経った……?


ストップウォッチが示すのは5分48秒。


手が震える。


腕の筋肉が硬直する。


「もう……死んだ……?」


私はプニーに問いかけるけど、もちろん反応はなく。


プニーは蒼白になった顔で口を半開きにしていた。


山を吹き抜けるそよ風にも気持ちは軽くならない。


目が霞み、縄の喰い込んでいる手が強い痛みを訴えてくる。


「もう……そろそろかな……」


全身の痛みで心がくじけそうになる。


だけど、ここで諦めたら元も子もなくなる。


プニーの胸骨の感触を感じる足を、さらに強く踏み込んだ。


このまま胸の骨にひびを入れてしまいそうだったが、もともと殺すつもりなのだ。


遠慮は必要ないと思いつつも、それだとなんだか本質がブレてしまう気もする。


首を絞める以外にすることがないため、頭の中にとりとめなもない想念が飛来する。


7分25秒。


人を殺すのってこんなに大変なのか。


まぁふつうの人を殺すなら、こんな苦労はしなくていいんだろうけど。


……私なんで人なんか殺してるんだろう?


考えれば考えるほど自分の置かれてる状況がよくわからない。


少し前までは、高潔な理想を胸に秘めた、クラスメイトから聖人扱いされる生徒会長ではなかったか。


それがいまや休日のたびに人を殺すシリアルキラーだ。


殺したのはひとり……というか厳密には殺せてないんだけど。


手には殺人の感触だけが刻まれ、人殺しの経験値だけが上がっていく。


9分12秒。


……どこで人生を間違えた?


というかいますぐプニーをどこかの研究機関に突き出せば、それで世界が救えるんじゃないのか?


日に日に殺人のスキルを高めていくよりも、ずっと冴えたやり方に思える。


死ねない女の子を殺すなんて無理難題に挑む必要もないのだ。


……私はなんでプニーを殺そうとしてるんだろう?


11分36秒。


手の感覚がなくなってきた。


セーラー服の内側で冷たい汗が背中を伝うのを感じる。


意識が朦朧とする。


考えれば考えるほど私がプニーを殺そうとする理由がわからなくなってくる。


世界を救いたいーー私はそう思い悩んできたんじゃなかったのか。


大望を抱くもその方法がわからずに、私は心を摩耗させてきたんじゃなかったのか。


私はついにその方法を手に入れたかもしれないのに。


人類が死を克服する。


それは世界を救うための大きな一歩になるに違いないのにーー


私は、なぜ?


世界が大きく斜めに傾いた。


「あ……やばっーー」


私はロープを掴んだまま地面に倒れ伏した。


15分48秒。


私はなぜかよだれを垂らしながら地面に横たわる。


「はぁ、はぁっ、はっ、はあぁーーはっ、あはぁ、はぁ」


プニーの顔は青いというよりも白くなって血の気を失っている。


もともと白い印象だったから、よけいに人形のように見えた。


「はっ、はぁ、はあぁ、はっ、はっ、はぁ、さすがに、んくっ、はぁ、死んだかな……?」


そこで私の意識はせせらぐ小川の音とともに流されていった。


………


それから2時間も経っただろうか。


「この卵焼き祈川さんがつくったんですか!? なんでもできるじゃなぃですか! ぉぃし~」


私たちはブルーシートを敷いてお弁当をつついていた。


「はぁ……」


「ぁれ? 祈川さん食欲なぃんですか!? 卵焼き、もらってぃぃですか!?」


「うん、いくらでも食べていいわよ……」


「ぃただき~ 」


プニーが卵焼きでほおをふくらませる。


私は木々に遮られた日の光がつくる柱を眺めていた。


「ねぇ、プニー。あなた、なんで死にたいの?」


死ねない人間が死を求めるのは、なぜだか自然なことのように考えていたが。


必ずしも死ねない人間すべてが、死を求めるわけでもない気がする。


「そぅですね~……ちょっと長ぃ話になりますよ?」


なんにせよ私たちには時間がありあまっている。


「わたしが生まれたのはアメリカのマサチューセッツ州だったんですよ。たしか300年くらい前の話だったような……」


「300……」


なんとなく年上なんだろうなという気はしていたが、まさかそんな年齢だとは思わなかった。


「よくある農家のひとり娘として生まれたわたしは、よき父とよき母の愛を一身に受けてすくすくと育ちました」


「……7歳までは」


……どこかでそういうことにならなければ、いまはないだろう。


「そこでぴったりと成長が止まってしまったんです。両親もはじめのぅちは気にしませんでした。そぅ、最初の2、3年くらぃでしょうか。その程度であれば、発育の遅ぃ子なんだと納得することもできたでしょぅ」


「けれども、4、5年が経ち、さらに6、7年が経ってくるとそぅはぃきません。結婚して子どもがぃてもぉかしくなぃ年齢で、7歳の見た目をしてる女の子なんて異常です。両親はだんだんわたしを外に出したがらなくなりました」


「折しも、当時のマサチューセッツ州の情勢を考えれば、当然の行ぃとぃぇるでしょぅ」


きちんと世界史の勉強もしている私は、脳の引き出しをいくつか開いた。


「……魔女狩りね」


「ご名答! 当時のわたしは地下室で暮らしてぃました。不慮の事故で亡くなったことにされ、こっそり食事を運んでくる両親によって生かされてぃました。こぅぃぅとひどぃ扱ぃを受けてるよぅですが、生かされてるだけでも幸せな方だったとぃぇるでしょぅ」


「むしろ……両親はもっとはやく私を殺してしまぅべきだったんです。まぁ……わたしはきっと死ななかったでしょぅが。ある日、地下室に食事を運んでるところを近所の子どもに見つかってしまぃました」


「わたしは地下室から日の光の下に引きずり出されました。ぁとは当時の風習通りです。ぃったん魔女として糾弾されたら、逃れる術はぁりません。わたしは両親とぃっしょに絞首刑になりました」


プニーはきらきらと光を反射する小川を見つめながら話す。


「そしてわたしは埋葬されましたが、ご存知の通り、わたしは死ねなかったのです。土の下で眠りから目覚めました。自分に覆いかぶさる土をかき分けて、わたしは地上に戻りました。満月に照らされる墓地にひとり立って、わたしは自分が孤児になったと知りました」


「同時に自分が不老不死だということにも気づぃたので、生きてぃくことに不安はぁりませんでした。わたしの見た目が7歳の女の子でぁったことも作用し、町から遠く離れれば、すぐに保護されて衣食住は保証されました」


たくさん喋って喉が乾いたのか、プニーは水筒のお茶を飲んだ。


「でもわたしが同じ場所にぃられたのはせぃぜぃ4~5年とぃったところでしょぅか?」


「それ以上はどうしてもダメでしたね。成長期の女の子が何年も同じ姿をしてぃることに、必ず誰かが勘づぃてしまう。そのたびに首から縄を伸ばす両親の姿が思ぃ返されるんです。悲劇が起こる前に、わたしは暮らす場所を変えてぃきました」


「ぁるときは孤児院で暮らし、素晴らしい友人たちを得て、数年経ったら孤児院を抜け出し、孤児院時代の友人たちが年老ぃて息を引き取る姿を見たこともぁります」


「それでも、わたしは、少女のまま、何も変わらず、ぃまでも生きつづけてぃます」


プニーの細い腕や骨の浮いた脚は、瑞々しい肌に似あわず、どこか老婆を思わせるときがある。


「わたしはぃままで多くの人の生き死にを見てきました。幸せに生涯を終える人もぃれば、不幸な事故で亡くなってしまぅ人も見ました。ぃぃ人もわるぃ人もぃましたが、例外なくみな死んでしまぃました。そのことによろこびやかなしみを感じることもぁりましたがーー」


「もぅ疲れました」


「人の営みに触れ、その営みから距離を取り、人の生き死にを眺めつづけるのに、疲れてしまぃました。すべての人間に平等にぁたぇられる死が、わたしにはぁたぇられなぃ。ぃままで幾度となく目にしてきた人の死を、私はぅらやましく思ぅよぅになりました」


プニーの大きな瞳の下の涙袋が落とす深い影が、彼女の消耗を感じさせた。


「わたしもわたしが考えられるかぎりの方法で死のうと試みました。けどわたしは想像以上に頑丈で、望みどおりの死がぁたぇられることはぁりませんでした」


「祈川さん……なぜわたしが極東の島国まで来て、ぃち女生徒でぁるぁなたに頼ったのか、不思議に思ったことでしょぅ」


プニーが小川から視線を上げ、私をまっすぐに見つめる。


「とても失礼な話で申しわけなぃのですが、それほどまでにわたしは追ぃ込まれてぃて、ぁなたの力を借りたことも、わたしの長い絶望の沼をかき混ぜるだけの一手だという気がしてならなぃのです」


「何もしなぃでぃるには……人生は長すぎますから」


「祈川さん……わたしを殺してくれますか?」


プニーは体育座りで、小首を傾げながら私の顔を覗き込んでくる。


透き通った長く白い髪が、これまた白磁のような細い脚に絡みついて美しかったが。


私を見つめるプニーの瞳は、深すぎる湖を思わせる濃さで、とても容姿のような若さを感じさせなかった。


「わかったわ、プニー。私が、必ず、あなたを殺すわ」


「はぃ。楽しみにしてぃます」


きっと、プニーは私が彼女を殺せる可能性など、微塵も想定していないのだろう。


だけど、そんなのって。


あまりにも祈川尽を軽んじている。


人を助けることにしか生きがいを感じず、ただそれだけのために生きているこの私を。


07


某日、廃ビルの屋上。


昔は栄えていたものの、取り壊しの目処がつかず放棄されているビルに、私たちは忍び込んだ。


屋上からは私たちの暮らす市街が一望できる。


地方都市とも呼べない、田舎の市街が広がる。


遠くには山の稜線が見え、住宅やビル、商業施設がまばらに広がっている。


私がこの廃ビルを選んだのはひとえに、「高さ」と「人気(ひとけ)」だ。


「風が気持ちぃぃですね」


プニーの白い髪が風にそよぐ。


「そうね。ここに来るとなんだかやりきれない気持ちになるの」


「どぅしてですか?」


「放棄されたのに次の開発の目処もつかず錆びていくデパート。まるでゆっくり死に近づいていく、この田舎町みたいじゃない?」


「そぅやって……たくさんの町や村が消えてぃきました」


プニーの目は遠く山の稜線が霞むあたりを見つめていた。


「そう……」


私には特に言えることもなかった。


ほんとうに、何もなかった。


「プニー、登れる?」


「手を借りてもぃぃですか?」


私はプニーの体を支えて、屋上の壁面の上の手すりまで登らせる。


プニーは突き抜けるような青空を背に私にほほ笑みかける。


「祈川さん、それではさよぅなら」


屋上の手すりの上に立つとプニーの方が背が高く、逆光で彼女の顔が影になる。


「ええ、さようなら。短いあいだだったけど、あなたのことは忘れないわ」


私たちは何度目かも思い出せない別れのあいさつを交わす。


これは、その言葉が冗談に終わることを知っている、ふたりのやりとり。


「それじゃぁ、そろそろぃきますね」


「ええ、また地上で会いましょう」


「はぃ」


プニーの体がぐらりと傾き、中空にその身を踊らせた。


まっ白な十字架が風にはためきながら地面に吸いこまれる。


ドサッ。


鈍い音がして、プニーの体がひび割れたコンクリートの床に打ちつけられる。


地面には白い花が咲いたかのように、プニーが横たわっていた。


私は屋上から早足で階段を降りていく。


いつもこの瞬間だけは、私も胸を高鳴らせる。


どうせ願いは叶いっこないって知ってるけど、わずかな可能性が私の脈拍を高める。


ほこりっぽい階段をローファーで打ち鳴らしながら、1階まで降りていく。


もちろんエレベーターなど、とうの昔に動かなくている。


「プニー!?」


私は地面に横たわるプニーの側に駆け寄る。


コンクリートにはプニーの頭部からあふれた血と脳漿が飛び散っていた。


「んー……こんども死ねなかったみたいですね」


私は奇妙な安堵感を得て口を開いていた。


「そう……じゃあ次の殺し方を考えるわね」


話しているあいだにも、プニーの頭部は再生をはじめていた。


08


「祈川さんは……この町がきらいですか?」


「ん……」


某日、学校跡地。


ここももう死んでしまった施設だ。


新しい子どもがなかなか増えないので、小学校は合併してしまった。


そしてここは、合併後に使われなくなった方の学校。


「きらいっていうか……人もどんどん少なくなっていくし、ゆるやかに死んでいくこの町の感じに未来を見いだせないというか」


「将来は都会に行きたいと思ってるけど……生まれてこの方ずっとこの町で暮らしてきたことに何の感情も抱いていないわけじゃなくて……この町を完全に捨てたいわけでもないって感じかな」


「自分のなかで整理がついてるわけでもないけど」


「そうですか……」


プニーはそんな私を見てやわらかにほほ笑む。


数百年前のアメリカで生まれ、故郷を追われ、こんな極東の田舎町まで流れついたプニーは、私の言葉をどう思っているのだろうか。


廃校の裏庭はもう手入れなどされず、雑草が生え放題になっている。


私は水色のポリタンクに入った灯油をプニーに頭からかけた。


「ぅぷっ……これっ……くさぃですね……」


灯油だからしかたのないことだ。


「手軽に手に入るのが、冬のストーブの燃料だけだったの。ちょっとがまんしてね」


私は灯油まみれになったプニーの顔をタオルで拭く。


あらためて長いまつ毛や大きな瞳の美しさに気づき、見蕩れてしまう。


「じゃあ、そろそろいいかな?」


「はぃ! ぃつでも大丈夫です!」


私は錆だらけになった焼却炉の扉を開けて、プニーの体を押し込んでいく。


1997年に文科省が学校の焼却炉を廃止するまで、焼却炉のある学校もあったのだ。


丸くなったプニーの小さな体はすっぽりと焼却炉に収まっていた。


「それじゃあ、いくよ」


私はスカートのポケットから取り出したマッチに火をつける。


そしてそのマッチをプニーの体の上に投げ捨てた。


瞬く間にプニーの体を炎が包みこんでいく。


私は焼却炉の重い扉をガチャリと閉じた。


焼却炉の煙突からプニーが焼け死んでいく悲鳴が聞こえる。


私は草むらの上に座り込んでプニーの叫び声を聞きつづける。


「ファラリスの雄牛ってこんな感じなのかな……」


夏の雲が浮かぶ空を眺めてひとりごちた。


無性に、吸ったこともない煙草を吸いたくなった。


煙突から立ちのぼる煙のせいか。


品行方正な生徒会長が笑わせる。


私は純真な女生徒がパンの焼きあがりを待つように、焼死体の完成を待っている。


どこで間違ったのかと問われれば、たぶんプニーに会った瞬間からだ。


しかし、出会わなければよかったとは思わない。


いま、私は充実している。


助けるべき人間を探し、助けるべき人間を助け、一瞬だけ満たされ、また助けるべき人間を探し、そんな人間など見つからず、空虚な日々を過ごしていたときより、私は充実している。


プニーに会えてよかった。


私は、私が生きる意味を見つけたように感じていた。


………


煙が落ちついてから、私は焼却炉の扉を開けた。


横に丸まった人形の炭がそこにあった。


「プニー、こんどこそ死んだ?」


プニーの脚らしき部分を手でこすると、煤がぽろぽろと剥がれ、中からまっ白な肌が出てきた。


むき卵みたいだ。


「祈川さん……今回もダメだったみたいです」


「みたいね」


私は煤の下から聞こえる声にほほ笑みかける。


私の至福の時は、まだつづく。


いつか願いが叶うまでくり返す。


くり返しつづける。


いつか願いが叶ったとき、その終点の先に何が待つか、私は考えないようにする。


09


プニーを殺しつづけてしばらく経つ。


時は盛夏。


学校は夏休みに入り、外に出ればセミの鳴き声が耳につく。


外気に触れているだけで肌に汗が浮かび、日射しをひりひりと感じる。


私はプニーと夏の海に来ていた。


プニーはフリルのついた白いワンピースの水着を着ている。


この水着は私が選んだものだ。


人理を外れた呪いを受けている以外は、年相応の可憐な少女であるプニー。


イメージカラーである少女趣味の白い水着がぴったりと似あっていた。


白く長い髪や細い手足が陽光を反射してまぶしいくらいに輝いていた。


美しい。


同性の私から見ても、目を奪われ、視線を外せなくなる。


「祈川さんの水着……かわぃぃですよ」


かくいう私も水着を着ている。


そんなつもりなど毛頭なかったのだが、プニーが譲らなかった。


海に行くのだから祈川さんも水着を着なければならない、と。


そんな法律も通年もないはずなのだが、プニーは頑として譲らなかった。


はじめはスクール水着で来る予定だったのだが、そこでもプニーは一歩も退かない。


祈川さんも新しい水着を着なければいけない、と。


プニーがこんなに強く自分の意見を主張するのは珍しかったので、私は渋々受け入れた。


結果、


プニーの選んだ黒のフリルのビキニで、私は砂浜に立っている。


「……ありがと。でもお腹を風に晒すのは、なんだか落ちつかないわね」


「それがぃぃんですよ」


プニーは親指を立てて私を肯定する。


「それじゃあいきましょうか」


ジリジリと肌を焼く太陽、足裏を炙る白い砂から逃げるように、私たちは海に足を踏み出した。


つめたい海水が足に絡みつき、足首から波紋をつくる。


海に来るなんて、ましてや水着で人前に出るなんて、想像もしていなかった。


「気持ちぃぃですね」


プニーの長い髪が海藻のように水面に漂っている。


「そうね」


友だちと海に来る経験なんてまったくなかった私は、どこかぎこちなくなる。


「あの……へぶぅっ」


プニーが突然両手ですくい上げた海水が私の顔に直撃する。


私の丸眼鏡の縁から滴になった海水が落ちる。


「へへ……」


プニーは見た目相応のあどけない笑みを浮かべる。


「この件について説明おぼぶぅっ」


プニーの第二射が私の顔面を襲う。


私は眼鏡を上げて、手のひらで目元を拭いた。


「なるほど? あなたの魂胆はよくわかったわ……」


私は肺に深く空気を溜め込んで海に潜り、プニーの両足を掴んで海に引き入れた。


ごー、という海の音で聴覚が満たされる。


深い青の視界のなかでプニーのまっ白な髪が蝶の羽のように広がる。


「ぷはぁっ……これに懲りたら人の顔に水なんてんぶふぅっ」


プニーはこちらの話などまるできいていないのか、両手を重ね、水鉄砲を私の顔に浴びせた。


プニーの容姿から、私のなかで彼女は幼い少女という印象があったため、その悪戯にムキになるのはどうかという考えがあった。


さっきまでは。


もうない。


私はーー意外と怒りっぽいのかもしれない。


「待て! おてんば! 望み通りサメの餌にしてやるから!」


私はフルスイングで腕を振ってプニーの顔に水をかける。


プニーは見た目相応のあどけない笑い声をあげて、私に水飛沫を飛ばしつづけた。


こんなはずじゃなかったのに。


頭の後ろでもうひとりの私がそう呟いたような気がしたが。


私はプニーを追いかけるのに夢中で、


かすかな声を逃してしまった。


………


「はぁ……はぁ……はぁ……手間を……かけさせるんじゃ……はぁ……ないわよ」


私たちが犯行道具を持ち、砂浜から離れた防波堤にたどり着いたときには、もうふたりはくたくただった。


「それにこんなの……家のお風呂場でいくらでもできるのに……わざわざ海なんかに来て……」


プニーは防波堤の上で寝ころんでいる。


やわらかな稜線を描くお腹が呼吸に合わせて膨らんだりへこんだりする。


「夏は……やっぱり海です。海がなくっちゃ……夏ははじまりません」


「あなたねぇ……ほんとに死ぬ気あるの?」


プニーは大の字で目を閉じたまま唇を開く。


「死ぬことと生きるのを楽しむことは、別のことですよ」


私にはこれといった反論が思いつかなかった。


生きるのを楽しむ。


私にとってそのフレーズは「人助け」を意味する。


ただそれだけの言葉であって、けして海で時間を浪費するような行為に貼られるラベルではないはずだ。


ないはずだった。


「縛るわよ」


「ぉ好きにどうぞ」


私はちょうどまな板の上の鯉のようなプニーの足に、ダンベルを巻いていく。


片足に30kgずつ、ポリエチレンのロープを使ってしっかりと固定する。


それぞれの足に自分の体重ほどの重りがつけられているのだ。


自力で海面から浮上するのは難しいだろう。


「これでよし。次は体の方に巻くわよ」


私はプニーの体に命綱を巻いていく。


命綱の先は係柱にくくりつける。


「これでいいかな……? よし!」


私はプニーを立ち上がらせて、テトラポットが積み重ねられた海の方へ誘導する。


プニーは重りのついた足をガチャガチャとひきずり、テトラポットを降りていく。


足をかける場所からはフナムシたちがさっと離れていく。


水際までついたプニーが振り返った。


「今日は死ぬのにぅってつけの日ですね」


「そうね」


「こんな日に死ねたら、どんなに幸せでしょぅか」


「……」


プニーは水平線の先に視線を投げかけているが、何かを見ているのかはわからなかった。


「ねぇ、プニー……あなた、まだ死にたいと思う?」


はるか海の向こうから潮風が吹く。


長い髪を押さえて振り向くプニーは、透き通るような笑顔をしていた。


「もちろん。それがわたしの夢だから」


そうかぁ。


夢。


私にも、夢があった。


「うん、いってらっしゃい」


「はぃ、ぃってきます」


ちゃぽん。


古池にカエルが飛び込むように、プニーは波紋だけを残して消えた。


するするとロープが海に飲み込まれていく。


まるで蛇が獲物を追うようだ。


私はしゃがんで、膝に頬杖をつきながら思った。


プニーの沈んだあたりからぽこぽこと気泡が浮かんでいたが、それもやがて消える。


これだけの準備をしたのだ。


今回は3時間くらい漬けてみようと思う。


自分でその狂気じみた考えに呆れてしまうが、私はもう数十回プニー殺してるのだ。


正気でいられる方がどうかしている。


私はぼうっと水平線やおぼろげな島の形を眺める。


私には夢があった。


この世界の救世主になる。


世界中の人々を救う人間になること。


なのにひとりの少女すら救えず、殺しの経験値だけが増えていく。


なんだこれは。


とんだ自家撞着。


人生のうまくいかなさに吹き出しそうになる。


自分が抱いた漠然とした大望は叶えることなどできず、何をしてもその理想から乖離してしまうのはわかってはいたが。


にしても、この仕打ちはあんまりだ。


プニーに出会った日から、私の在り方がすっかり変わってしまったような気がする。


ただ、それがいやなのかと問われれば。


「……」


私は潮風のにおいと肌をすべる髪の感触を感じながら目を閉じた。


………


目を開けると、水平線の上に橙色の太陽が浮かぶ夕暮れだった。


私は立ち上がり、大きく背伸びをして一息ついた。


そしてロープを伝いながらテトラポットを渡り、海面に近づいていく。


ロープをたぐり寄せ、プニーを引き上げる。


おなじみの黒い指ぬきグローブで、丸い輪っかを重ねながらひたすらロープを引く。


気分は地引き網漁師だ。


夕暮れ時とはいえ、夏の蒸し暑さでひたいに汗が浮かんでくる。


「まったく非効率的……」


家の風呂場でやればこんな苦労することもなかったのだが。


しばらくそうしていると、青白い人影が見えてくる。


「そぉれっ!!」


私はかけ声と共にプニーの体を引き上げた。


ダンベルをつけたオフィーリアがテトラポットに打ち上がる。


私はてきぱきとダンベルを片づけ、プニーのほほに手を添える。


「プニー……こんどこそ死んだ?」


彼女の顔は青白く、蝋人形のようで美しかった。


私は親指でプニーの唇をなぞり、離した。


彼女の唇から透明な海水が溢れ出した。


「けほっ……こほっ……かはっ……おはようございます、祈川さん」


また死にそびれたみたいね。


私は半ばまで沈んだ夕陽と黄金色に染まった海を目に焼きつけた。


10


そして、私たちは夏を越した。


私はプニーを殺し、それでもプニーは死なず、血と死と徒労の日々。


そこから私は、ひとつの結論を導き出した。


「祈川さん!? こんな時間までいたんですか?」


シスター・ロザリアが驚きの声をあげる。


私は礼拝堂で膝をつき、黙々と祈りを捧げていた。


「シスター・ロザリア、もう閉園の時間ですか? わかりました。すぐに下校いたします」


膝を払って、用意していた学生鞄を持って帰路についた。


私は考えた。


プニーの不死は明らかに人理を超越している。


何度もプニーを殺害してきた経験から理解できた。


彼女の不死性は、人間の手が及ぶようなものではないのだ。


だとすれば、どうするか。


私は帰宅し、両親と夕飯を食べ、お風呂に入り、自室に戻った。


すると、自室の布団からプニーが顔を出す。


「ぉかぇりなさぃ」


「ただいま」


プニーには家がないというので、初夏ごろから、両親にバレないように私の家に招いたのだ。


それまでは、田舎町であることをいいことに、警察が巡回して来ない廃施設や、野山を渡り歩いていたという。


いくら死なないとはいえ、さすがに忍びなかった。


私は部屋の電気を消し、プニーと同じ羽毛布団に入る。


「今日も祈ってたんですか?」


「うん。明日も祈るよ。明後日も祈る。その次の日も祈るよ。祈りが届くまで、私は祈りつづけるよ」


顔を横にして私を見るプニーのほほがぷっくりとつぶれ、とても愛らしい。


「それは、諦めたってことですか?」


「まさか」


他人から見れば、そう見えてもしかたないとは思う。


しかし、私のなかでこれは、論理的帰結だった。


「プニーの症状は明らかに人間の手に負えるようなものじゃないわ。どんな方法で殺しても、必ずあなたは再生する。こんなの常識で対処できる問題じゃない」


「それは、私も否定できません」


「でしょ? この世界が、プニーの不死身のような不条理がまかり通る場所であるならば、それを解決する手段も不条理によるべきなのよ」


「というか……もうそれくらいしか打つ手がないってわけ」


プニーは私の手を握って、ふたりの顔のあいだに置く。


「信じてますから」


「うん」


私はプニーと手をつないだまま眠りに落ちた。


そのまま朝になり、お母さんに起こされてプニーの存在がバレるようなへまはしない。


私は優等生なのだ。


毎朝お母さんよりも起きるのは早い。


………


私は祈りつづけた。


雨の日も風の日も、病めるときも健やかなるときも、私は祈りつづけた。


一心不乱に、というわけではない。


私は祈りのかたわらに生徒会長の公務やテスト勉強など、学校行事はすべて手際よく消化していた。


寝食も忘れてただひたすらに祈りつづけてみるといい。


初日で病院に連行される。


私はするべきことを効率的にこなし、祈りの時間を捻出した。


祈りにかけた時間がそのまま祈りの強度になるとは思ってない。


祈りにルールなんてないだろうから、私は私にあたえられた時間だけ、ひたすら祈るしかない。


ある人は好意的にこう言う。


「祈川さん、最近とても信心深いわね。素晴らしいことだと思うわ」


ある人は懐疑的にこう言う。


「祈川さん、大丈夫? さすがに祈りすぎててちょっとこわいんだけど」


ごもっともだ。


私でもそう思う。


なんならこれが私以外の人間だったら、告解室に連れ込んでなんとしても悩みを聞く。


しかし、祈り以外の私の生活は非の打ちどころがなかった。


成績優秀、品行方正、いささか祈りすぎ。


誰も私の祈りを止めることなどできなかった。


私は祭壇の前に跪く。


神さま、仏さま、願いを叶えていただけるなら何さまでもかまいません。


どうか私の願いを叶えてください。


プニーに死をあたえてください。


不条理に不死をあたえられたあの子に、不条理に死をもたらしてください。


使用していないときの教会はしんと静まり、つめたい空気で満たされている。


ステンドグラスから差す七色の光が私の背中に降り注ぐ。


私が祈りつづけても、何も起ることはない。


だが。


祈りとはそういうものだ。


祈ったからといって、見返りなど保証されない。


私は神さまの存在すら信じているわけではない。


だが、祈る。


万事を尽くし、他になす術のない人間が取る最後の手段、それが祈りだ。


だから私は無我夢中で祈る。


願いよ届け、と祈りを純化させていく。


私じしんが一個の祈りとなるほどに祈る。


その高めた強度が報いられることすら期待せずに。


ただ、祈る。


この世界、この時、この場所に、不条理を招来するために。


それから3ヶ月と16日と4時間と36分ほど経ったころだろうか。


「うっるせぇな」


教会の扉が勢いよく開き、私の後ろから天使が現れた。


11


天使。


私がそう形容したのは、頭上の光の輪と背中の羽が見えたからだ。


それも、かろうじて見えたからだ。


それ以外の特徴は、とても天使とは呼べそうになかった。


赤く染めた髪に、安全ピンや缶バッジがジャラジャラとついた派手なジャケット、黒革のブーツ。


とてもパンキッシュな天使だった。


セラフィムやガブリエルといった階級の高い天使ではないな、と私は勝手に断定した。


「てめぇが毎日朝も昼も夜も祈りやがるから、おちおち昼寝もできやしねぇ」


天使のタレ目の下には、たしかに濃い隈ができていた。


「オレの安眠と引き換えに、てめぇの願いを叶えてやるよ」


天使はツカツカと高い音を鳴らしながら身廊を歩き、私の前で立ち止まった。


私はすっくと立ち上がろうとして、少しよろめく。


それはそうだ。


何日も長時間跪いて祈っていたのだ。


膝は痛み、痺れた脚が笑っている。


それでも私は、天使の前に背を伸ばして立った。


天使の身長は私と同じくらいで、中性的な顔立ちから男とも女とも判然としなかった。


「ありがとうございます。私はあなたを待っていました」


おせぇんだよ、××野郎。


「あなたが私の前に現れてくれたこと、心から感謝します」


いいからとっとと願いを叶えやがれ。


私はとびっきりの笑顔で天使を迎えた。


「さっさと帰って眠りてぇからよ、手短にいくぜ」


望むところだ。


「オレはてめぇの祈りを聞いてやって来た。よって、てめぇに願いを叶える力をあたえる」


漫画好きなら待望のシチュエーションだ。


「ただし」


天使がもったいぶって唇の端を吊り上げる。


「大いなる力には代償が伴う。なんかよくわかんねぇけど、それがバランスってやつらしい。祈りました、願いが叶いましたじゃ、世界の筋が通らねぇってことだ」


そんなこととうに折り込み済みだ。


私がそんな覚悟もせずに祈りつづけていたとでも?


「わかりました。して、その代償とは何でしょうか?」


「そりゃあな……」


天使は私が震えあがるとでも思ったのだろうか、いまいちドスの効かないタレ目を細め、私に耳打ちした。


「ーーっ」


私は、願いの代償を聞き。


「はっ、あはっ、ははははっ」


思わず笑い出してしまった。


天使は不気味なものでも見るように顔を歪める。


なんだ。なんだ。そんなことか。


私は提示された条件のあっけなさに口元を押さえて笑ってしまう。


「気でも触れたか?」


「いえ、ふふっ、ごめんなさい。いいわ、契約しましょう。私に願いを叶えるだけの力を、あたえてください」


天使はどこか不服そうな顔で右手を差し出した。


「握手だ」


「?」


「てめぇら人間も、契約成立のときにやるだろ?」


てっきり複雑な儀式や、なんだか漠然とした光に体が包まれて……みたいなイメージだったから拍子抜けする。


「これでいつでも願いが叶えられるってわけね?」


私は天使の手を握り返した。


「代償と引き換えにな」


天使の瞳は琥珀色で、底意地の悪そうな表情とは違い、とてもきれいだった。


「じゃあな。もう二度と祈ったりすんじゃねぇぞ」


「ええ、非生産的なことはやらない性質なの。その隈がなくなることを祈ってるわ」


天使は大股でツカツカと歩み去りながら、私に中指を立てた。


最近の天使はずいぶんと擦れてるんだな、と笑いが込み上げてきた。


12


そして、私はプニーの願いを叶える準備をはじめた。


といっても大がかりな儀式が必要なわけではない。


ただの片づけだ。


とはいえ、私はもともと余計なものを部屋に置かない主義だったし。


部屋の片づけは一日で終わった。


「これは捨てとかないと……あとで見られても恥ずかしいしね」


私は意味もなく毎日つけていた日記をゴミ箱に捨てた。


振り返ってみるとほんとに意味がなかったが、特に何か損した気持ちにもならなかった。


私はリビングに降りて、父と母に会いにいく。


父は居間でテレビを観ていて、母は服のほつれをつくろっていた。


「友だちと遊びに行くね」


「いってらっしゃい」


「あんまり遅くなるなよ」


そう言う両親の顔はどこかうれしそうだった。


それもそうだ。


私は友だちが少なかったから、あまりこういう機会は多くなかった。


「それと、私を生んでくれてありがとう」


さらっと。


味の薄いスープに塩をつまんで足すように、つけ加えた。


ふつうの家庭であれば両親は血相を変えて我が子を心配するかもしれないが。


私は学園のマリア様だ。


日ごろから両親に感謝を欠かさないし、このくらいのことで違和感を覚えられることもない。


「尽……大丈夫?」


「何か悩みごとでもあるのか?」


声をあげて笑ってしまった。


私は自分が思うような特別でもなんでもなく、ただのひとり娘だった。


「なんでもないよ。言ってみたかっただけ」


そう言うと両親はほっとした顔をする。


いってきます。


いってらっしゃい。


私は両親に背を向けて家を出た。


扉を開けるとまぶしい西日が目に飛び込んで、何も見えなかった。


13


私はプニーと待ちあわせをした。


場所は……整地されたものの開発計画が頓挫した、だだっ広い空き地にした。


そういう場所が、田舎にはあったりする。


山を切り開いて整地したので、平地にはまっすぐに整えられた斜面が連なり、斜面の上には道路が通っている。


「祈川さーん! 今日はここでやるんですかぁ?」


広すぎる空き地ではとても小さく見えるプニーが、遠くから手を振っている。


プニーは飼い犬のように私のところへ駆け寄ってきた。


「お待たせ」


「ぃぇぃぇ、どこまでも何もなくて、なんだかぉもしろぃです」


プニーは見た目相応の女の子のように無邪気にはしゃぐ。


「それで今日は、どんな方法で殺してくれるんですか?」


プニーは無垢な笑顔で聞いてくる。


「今日は、プニーの願いが叶う日よ」


「ほんとですかぁ!? やったぁ!」


プニーはきらきらとしたほほ笑みを私に向けるが、私はその瞳に宿る深い絶望を知っている。


彼女は自分が死ぬことになるなど、微塵も信じてはいない。


「プニー、祈りが届いたの。天使がやって来て、願いを叶える力をあたえてくれたわ」


プニーの顔色が変わる。


「……ほんとに?」


「ええ。プニーの不死は人間の力で解決できるような問題じゃないと思ったから、神さまにお願いして正解だった」


「……」


「神さまの使いがやって来て、私に願いを叶える力をくれたのよ」


「だから、大丈夫」


私はプニーのまっ白な髪に指を絡め、彼女の頭を撫でる。


「今日が、あなたの命日よ」


プニーは表情の抜け落ちた顔でぼんやりと私を見る。


「……祈川さんが、こんな嘘をつかないこと、わたしは知ってます」


「とぃぅことは、ほんとなんですね」


「わたしは、今日死ぬんですね」


プニーは存外にうれしそうではなかったが、いやがっている様子もなかった。


きっと、私には測り知れない感情が、そこにはあるのだろう。


「そう」


「ひとつ……ひとつだけ聞かせてくださぃ」


プニーは私のセーラー服をきつく握りしめた。


「……なんで、祈川さんのところには来たんですか。わたしのところには……百年単位で祈っても現れなかったのに」


そう口走るプニーの声は低く、かすれていた。


「わからない。教会が大事なのか、祈りが作用したのか、私であるからか、プニーでなかったからか、理由は判然としないわ。でも私の前に天使が現れて、私にプニーの問題を解決する力があたえられた。それだけは、ほんとうよ」


「……そぅですか」


プニーの表情はおぼろげで、実年齢の影を感じさせた。


「この数百年で、ぃくつもの理不尽を見てきました。世界には不条理がぁふれてぃる。この世界は、そぅぃぅものだと思ってぃます」


「……」


私は口をつぐむしかなかった。


「わたし、死ねるんですね」


プニーの瞳に、はじめて光が宿った。


はるか昔、海溝に沈んだ船に積まれていた金貨のような、ずっと遠く、儚い光だ。


「うん」


私たちの連続殺人も、これで終わりだ。


「……そうですかぁ」


プニーの表情は憑きものが落ちたかのように緩み、目が細められる。


一度強く目を閉じて、もう一度開けた瞳は潤んでいた。


泣くかな、と思ったけど、それより先にプニーははっと目を見開いた。


「ほんとに、それだけなんですか?」


「ん」


私は口を噤んで、何でもない顔をする。


「祈って、願ぃを叶える力をぁたぇられるだけなんて……ほんとにそんな話があるんですか?」


私は逡巡する。


このまま、何も伝えないまま、プニーを救うこともできたはずだ。


それは、私だけの満足を考えるなら、いちばんよかったはずだ。


プニーにバレることもないし。


でも、それは彼女への裏切りに思えた。


「代償に、私の《存在》が消滅するわ」


「は……?」


プニーの素直な驚きが私を怖気づかせる。


「有史以来、古今東西どこを探しても、私という《存在》がいた痕跡が完全に消失するの」


「両親の記憶からも、友だちの記憶からも、行政の記録からも、私が《存在》していた証がひとつ残らず消える」


「私が私の願いを叶えるなら、その代償に私という存在を賭さなければならない、ってこと」


プニーの瞳が揺れ、徐々に眉間のしわが深くなる。


プニーは私の胸を拳で強く打った。


「そんなの許せるわけなぃじゃなぃですかっ!!」


プニーは本気で怒っていて、それを私はうれしく思う。


ここが正念場だ。


「プニー、聞いて」


「ふざけるなっ!」


「プニー……聞いて」


「………」


プニーは赤らんだ顔でふるふると震えながら私をにらむ。


「私は、人を助けたときにしか、生きてるって感じられなかったの」


「だから、ずっと人助けをしてきた。これまでの人生で、ただひとつのよろこびが、それだけだったから」


「プニーに会ったとき、運命だと思った」


「ついに、私に助けを求める人が、それも簡単には救うことのできない人が、私の前に現れた」


「プニーは私のことを軽蔑するかもしれないけど、それからは私にとって至福の日々だった」


「プニーを救うためにあなたを殺し、試行錯誤を繰り返してまた殺し、救済に一歩ずつ近づいていく道程は、私の人生でかつてない充実だった」


「だから、プニーには感謝してるの」


「あなたは、私に生きる理由をあたえてくれた」


「それでもっ……!!」


プニーが私の胸を両手の拳で叩いた。


「それは……わたしのために祈川さんが死んでぃぃ理由にはなりません」


プニーは歯を食いしばり、ただでさえ大きな目を見開く。


「私は、いままで何度も人助けをしてきた。そのときはずっと、誰かを助けたいと願ってきた」


「でもプニーに会ってからはじめて、私はプニーを助けたいと願うようになったのよ」


「誰でもない誰かじゃなくて、生まれてはじめてこの人を助けたいと思えたの」


私はプニーの前髪を親指で撫でつける。


「それは素晴らしい経験だった」


「いままでの私は薬を求めて路上を駆け回る廃人のようだった。人助けに飢え、一時の幸福のために、救いを求める者を探した」


「でもプニーに会ってから変わった。他の誰かじゃない、プニーを助けたいって思えるようになったの」


「考えたこともあった。プニーをしかるべき研究機関に提供することで、不死の秘密を解き明かし、人類を救うことができるんじゃないかって」


「でも私はそうしなかった。そのころには他の誰でもない、あなたを助けたいと思っていたから」


「だから」


「あなたを救うことが、私のいちばんの幸せなの」


私は右手でプニーの髪を梳き続ける。


「あなたを、救わせてください」


プニーは大きな瞳からやはり大粒の涙をこぼしていた。


「でも……やっぱり許せません」


「わたしのために祈川さんが死ぬなんて……ぁってはならなぃことです」


プニーはほほに透明な筋をつくりながら、虚な表情で私を見る。


「プニーは……死にたくないの?」


プニーは私のセーラ服のリボンを掴んだ。


「死にたいに決まってるじゃないですかぁっ!!」


それは、いじわるな質問。


「私も、プニーを救いたいの」


「ほら、みんな幸せになれるでしょ?」


私は手のひらでプニーの涙の筋を拭く。


「他に……方法はなかったんですか?」


「うん」


「プニーの不死は人間の手に負えなくて、神さまの力を借りるしかなかった。けれど、私の願いで世界の在り方をねじ曲げるには、私の存在を犠牲にしないといけない。だから」


「これは運命? 素敵じゃない」


私はあっけらかんとした笑顔をつくり、プニーは魂の抜けた表情で涙を流した。


「そんな……………」


プニーはもう反発することはなくなったが、それでもまだ決意は固まらないようだった。


私はプニーのつるつるとしたおでこに唇を寄せた。


「プニー……あなたに会えて、私は幸せだった」


「いくわよ?」


プニーが言葉にならない叫声をあげて私の胸に顔を埋めた。


だだっ広い平地に立つ私たちのまわりに、薄い光を帯びた風が渦巻きはじめる。


大気が動いているのか、私たちの頭上の雲も台風の天気図のように渦巻く。


私は胸にプニーの熱を感じながら、すっと目を閉じる。


思い残すことは何もない、晴れやかな気持ちだった。


けど。


ふと、気になることがひとつだけ思い浮かんだ。


この機会を逃しては、一生聞くことなどできない。


「ねぇ、プニー」


プニーが顔を上げた。


「他の誰でもない、あなただけを救いたいって気持ち……これって、恋なのかな?」


台風の目のようになった雲の切れ間から天使の梯子が降りる。


プニーは時が止まったように私の顔を見つめ、くしゃっとはにかんだ。


「わたしにもわかりません」


あぁ。


300年のあいだ恋も知らずに生きるとは、いったいどんな。


雲の切れ間から、半透明の神さまの巨大な腕が伸びてきて。


私たちを握り潰した。


そうして、私たちの存在はこの世界から消滅した。


私の存在も、プニーの不死も、はじめからこの世界にはなかったかのように、消えてしまった。


最期に見れたのがプニーの笑顔で、ほんとうによかった。


………


斜面の上、道路のガードレールに寄りかかって、パンクファッションの天使が煙草を吸っていた。


ハイライト・メンソール。


天使は心底不機嫌そうな表情で煙を吐き出した。


「くっだらねぇ」


天使の煙草から線香のような煙が立ち昇る。


しかし、それを見ている者は、誰もいなかった。

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