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(しばらくして高野さんは帰った。

 呂街くん花は捨てなさい。先生は言った。捨てたくなくてでも手元に置いておくのもなんだかざわざわする気持ちで、裏庭に持っていくと犬が出て捨てなさい捨てなさいと騒いだ。チューリップで頭をぶってやった。静かで気味の悪い夜でダルメシアンは以後黙っていた。呂街くんはいい人ですよ。先生はそういうが。不安である。爪を噛んだ。澄んだ音がする。缶詰を買わなくてはと思った。テレビも直さなくてはと思った。やるべきことを考えると足が動いた。今日はもう遅いからまずはテレビだ。

 テレビは叩いたら映るようになった。アナウンサーが可愛くてぼんやり眺めていたら先生が出ていったっていいんですよと言ってくれたので僕は安心していいえと言えた。呂街くんのそういうところが好ましいと思います。先生はまた言って、ごめんなさいと泣いた。紙束が白い。


 呂街くんはもうお帰りなさい。


 嫌だった。だいいち僕の家はここで、先生がいるとしてもここはもう学校ではないのだ。割れた爪から血が出ていた。僕も泣いた。ねずみがお前は大丈夫だと言ってくれた。でもエリーはいつも通りだ。

 

 呂街くんと一緒にいられて楽しかった。もう帰りなさい。

 

 先生はまだ泣いている。世界の秘密を知る偉大な人であるがよく泣く人である。


 帰る気は毛頭ありませんし、僕が帰ってしまったら先生のご飯は誰が作るのですか。


 僕が言うと先生は私は元来食事なんてしなくていいんですよとにべもなく返す。

 先生が何かを重ねて言う前に、大きく息を吸って、エリーを抱え上げた。エリーは僕に抱っこされると小さくにゃあと鳴いて、それきりおとなしくなった。お前なんか好きではないけれど、花瓶も割るしケガもするし面倒な奴だけれど。お前のことをせめて嫌いにならないようにしようと思った。


 僕がいなくなったら、誰がエリーの面倒を見るのですか。


 問いかけると長い長い沈黙の後に先生は、帰ってほしくはないです帰りたいのではないかと思ったのですと呟かれた。心外な話だった。僕は先生のいる場所に帰れるのならどんなに良いかとずっとずっと思っていたのに。僕はエリーをそっと床に降ろし、テレビを壊してから鰯の残りを煮込みにかかった。先生は面食らわれたようだったが僕が台所から動く気がないと言うことが分かると安心して世界の秘密を書き上げる作業に戻った。

 テレビがなんだアナウンサーがなんだ。先生のあれはもしかしてやきもちかしらと思ったらかっと顔が熱くなった。嬉しいと恥ずかしいの間のてっぺんのような変な気持ちだった。タイプライタの音が心地よくて、台所の床に体育座りをしてじっと聞き入っていると突然音がやみ、先生が階段を駆け上がってきた。


 ねえ呂街くんはいなくなりませんよね。呂街くんがいなくなる可能性があると書いてあります。


 紙束に書かれた小数点以下の確率を見て僕は胸をぎゅうぎゅうに絞られるような気がした。いなくなるつもりはまったくないのにその可能性の僕は何を考えているんだろうとか、帰りたくないのかと僕に聞いたくせに僕がいなくなることを恐れている先生のこととか、何かもかもが胸の中でぐちゃぐちゃにまざって目の奥がつんとした。

 高野さんはまた来てくれるだろうか。僕に何が起きているか聞いてほしい気がした。これがふつうと言うものではないですかと尋ねたかった。高野さんは泣かないでと言ったのにまた泣いてしまった。先生がハンカチを差し出して、目元に当ててくれた。

 せんせい、と呼ぶことはできてもその後の言葉が続かなかった。好きだと言って、先生が僕を好きでないと言ったらどうしようか。近頃の僕はあまり優しくはないから。先生のことを考えると後から後から涙があふれて止まらなかった。)

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