10
昨日から酷かった雨は一応止み、かすかに晴れ間が見えていた。
家を訪れた俺を、呂街くんよりも先にエリーが見つけた。俺の抱えた黄色いバラの花束に興味を示したのか、脚にまとわりつくようにじゃれついてくる。
ばたばたと階段を下りてきた呂街くんは、俺を見るやひどく深刻な顔をした。
「エリー、あっち行って」
その語気の強さに、ひどく嫌な気持ちがした。彼にまとわりつく何かに声を荒げる姿は何度か見ていたのに、彼が猫を快く思っていないと知っているのに、初めて覚える感情だった。
脚の間を、ぬくい猫の体温がすり抜けて逃げていく。俺と呂街くんは玄関にふたりっきりだった。
俺は昨日のことをあたかも何も覚えていないかのような顔をして、バラの花束を差し出した。呂街くんは手を差し出すことなく、俺の名前を呼ぶ。
「高野さん」
「なあに」
「高野さんは、」
呂街くんが大きく、大きく息を吸って、吐くのを、俺は人形みたいに突っ立って見ていた。その目に薄く涙の膜が張っているのを見てしまった。
「高野さんは僕のこと馬鹿だと思ってるでしょう」
その言葉の内容よりも、その顔が一生懸命笑みの形を作ろうとしては失敗していることが棘のように胸を刺した。
呂街くんは口元を歪め、眉尻をいつものように下げて、いまにも溶けだしそうな潤んだ目で俺を見つめている。
俺を苛んでいるのは彼をそうまで傷つけてしまったことよりも、俺がどんなものか気づかれてしまった、その事実の痛みだ。
「分かってます、あの人は僕の先生じゃないんです」
(先生はまだ教壇に立っているのだろうか。僕は今の先生を知らない。
一度だけ先生に年賀状を書こうとして、結局止めてしまったのだった。
僕の先生は今、地下室でタイプライタを叩いている。世界の秘密について書いていらっしゃる。僕の先生は今たぶん知らない子の頭を撫でている。僕はそれを無性に悲しいと思う。先生が永遠に地下室にいてくれてばいいと思う。)
「それでも、あの人はお優しい方ですよ、僕の望みをかなえてくれました」
(先生がお元気であればいいと思う。僕のことをずっと覚えていてくれればいいと思う。ずっとずっと僕を頼ってくれればいいと思う。
僕無しでは先生がお幸せでなければいいのにと思う。)
「僕はずっと、先生に褒められたかったんです。必要とされたかったんです。僕の先生はお優しくて、僕の頭を撫でて『それで良い』とは言ってくれたけど、先生は先生だから、僕はいずれ先生の元を卒業しないといけなくて、先生は僕がいなくてもずっとなんてことなく先生なんですよ、僕の先生はあの人ほど泣き虫ではないけれど、でもあの人は僕が必要だと言ってくれます、ううん、そんなこと言われなくても好きですだって、でも、」
思考をそのまま吐き出すような熱を帯びた叫びはやがて嗚咽へと変わり、呂街くんは顔を覆って蹲った。気づけば握りつぶすほど強い力で持っていた花束を傍らに置き、俺もその横にしゃがむ。
しゃくりあげ、湿った呻きを漏らす呂街くんの背に手を伸ばし、抱き寄せようとしたけれども結局その手はあやすように背を叩くにとどまった。
「高野さん、僕は優しくないんです。先生が泣いていると安心するんです。優しい人ですねって言ってもらったのに、優しいですねと褒められて嬉しかったのに」
床にぽろぽろと呂街くんの涙が落ちる。
「俺はさ、呂街くんが実はあんまり優しくないの知ってたけどさ」
本当は優しすぎるくらい優しい子だけど。でもそんなこと今言ったって、彼が納得できないんなら無意味だ。嘘つきと言いたければ言えばいい。
見たいものしか見えない俺にとって呂街くんが優しいかわいい、歪な子どもだったとして、やっぱり見たいものしか見えない呂街くんにとっては、「分かるよ」と言って頷いてくれる俺が多分必要なのだから。
「でも呂街くんのこと、好きだったよ」
「……もう、嫌いですか」
「嫌いじゃないよ、ずっと嫌いになんかならない」
友愛や同情、憐憫とか、優越感なんかと、それを飛び越えた意味での『好き』の間に横たわる深く広い溝をうまく説明できるか俺には分からなかった。呂街くんは何も悪くなくて、俺が勘違いをしていただけだと言ったって、彼を傷つけてしまうとしか思えなかった。
俺たちはひょっとしたら似ているのかもしれなかった。自分の腕の中で泣いてくれる人をこそ愛おしいと思った。それがどれほど酷いことかも知らずに。
いや、呂街くんは知っていたのだ。
「泣かないで」
それしか言葉が出なかった。好きだった。彼のことを見下して安心したかったのだとか、無邪気に懐かれて自分に価値があるように感じたのだとか、色々な理屈に気づいてしまった今はもう「好きだよ」とは言えないけれど、それでも彼が笑うと嬉しくて、泣いていると胸が痛い。
呂街くんの髪を撫でる。俺の慰めなんて何の役にも立たないんだろうけれど。
「泣かないでよ……」
俺の感情は多分純粋な愛などではないのだろうけれど、望まれてなどいないのだろうけど、これが、呂街くんが一生のうちで流す最後の涙ならいいと思った。
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