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(呂街くん私は引っ越そうと思います。部屋が狭くなりました。


 そう言いながら先生は僕の髪を撫でた。先生の指は切れていて血がぽたぽた垂れていて僕の目に入った。テレビにペンギンが映っていたがそれも見えなくなった。犬を部屋の外で飼ったら広くなりますよといったら去年死にましたと答えられた。それほど虚しいこともない。あのかわいい犬は生きていなかったのか。先生がまた泣いている。しょっぱい。死んでいることに僕が気づいたからか犬はいなくなってしまった。部屋が広くなってしまって寂しくなったから高野さんに頼んでどっさりダリアを買い込んだら腐ってしまった。

 部屋が狭いのです。先生が泣いている。僕はじゃあ引っ越しましょうと言って不動産の広告を出すと先生が首を横にふった。

 呂街くんいけません。

 引っ越したいなら引っ越せばいい。ここはお店も遠いし少し不便だ。けれど先生は冗談ですよと言って首を横に振った。ご飯にしましょう。そういって先生が笑うので話はそこでおしまいになった。)

 


 朝からひどい雨の降っている日だった。プラスチック製の花瓶と百合の花かごを持ち込んだ俺に、呂街くんが「先生がお怪我をして」を言った。


「悪魔が怪我を?」

「ええ」


 俺の顔が青ざめているのを見て取ったのだろうか、呂街くんが怪訝な顔をした。

 あれが、生き物に近づいている。かろうじて俺たちに見えるだけの実態無き存在から、まるで普通の人間のように血を流すまでになりつつある。

 それを、呂街くんはどう思っているのだろう。


「呂街くん、もうあれに食事をさせるのは止めた方がいい」

「どうしてですか」

「あの悪魔にこんな変化が起きる理由がほかに思い当たらない。呂街くんと先生がずっと一緒に暮らすためにも、これ以上何かが起きる前に止めた方がいい」


 それを承知したのかしていないのか、まるで聞こえなかったかのような態度で呂街くんはリビングの棚と机と問わず所狭しと飾られた花瓶から傷んだ花を抜いていく。こんな部屋で猫に花瓶を割るなという方が無理だろう。


「高野さん」


 枯れたアジサイをビニール袋に突っ込みながら呂街くんが目も合わせずに言う。


「高野さんには好きな人っていますか?」


 その言葉に含まれたいつになく深刻なニュアンスをどう取り扱うべきか迷った挙句、俺はそれを、見なかったことにした。


「呂街くんのこと、好きだよ」


 いかにも冗談くさく、笑いながら言った言葉を、しかし呂街くんは冗談だとは受け止めなかったようだった。

 萎れ、茶色く干からびた花の詰まった袋を俺に差し出し、呂街くんは言う。


「僕が世界一幸せでも、好きですか」


 好きだよ、何を言っているんだよ、と笑うことは出来たはずだし、俺はそうすべきだった。

 けれど、出来なかった。開いた口からは何の言葉も出てこなかった。錆びついたようにゆっくりと上がった自分の右手が、押し付けるように渡されたビニール袋を握りしめる感触以外のすべてが失われたようだった。

 そのあと呂街くんに何を言ってリビングルームを辞したのか、俺は覚えていない。ただ、古い型のテレビを抱えた悪魔と、例のように廊下ですれ違ったことだけははっきりしている。悪魔は俺に何も言わず、一瞥もよこさずその場をすたすたと立ち去っていった。

 なぜ悪魔は俺の前に現れるのだろう。俺のことを蔑んでいるはずなのに。俺が消えることを望んでいるはずなのに。


『あれはお前に何も言いはしなかった』


 ああそうだ。あの人は、兄は、俺に何も言いはしなかった。ただ最初に、「そこにはなにもいない」と告げただけだった。もの言いたげな目で何かを伝えようとした。だがそれだけだ。



 俺は何も期待しない。理解されようとも思わない。

 期待を裏切られるぐらいならば、最初から憎み憎まれた方がいい。



 あれは俺を、望まれるがままに蔑み、憎み、憎まれた。

 今彼はもう俺を見ることさえしなくなった。

 あれはもう悪魔ではないのかもしれない。

 あれは今、呂街くんにはどう見えているのだろう。






(先生がテレビを買ってきた。

 先生は何でも知っていらっしゃるはずなのにテレビを見ているのは少し可笑しい。

 夕方の料理番組を見ながら先生が言う。

 呂街くんはポーチドエッグが作れますか。

 作れません。

 ゆで卵なら作れるけれどそんな洒落たものは作れない。あるのは鰯の缶詰である。鰯を煮込む間に先生がテレビを壊していた。高野さんがやってきて先生とまた喧嘩をした。僕にはお花のついでにいろいろと野菜をくれた。鰯と一緒に煮込んだ。高野さんは帰った。先生はどうしようもない気分ですといいながら階段を降りて行った。そうして部屋でタイプライタを叩き続けるのだろう。

 先生おやめさないあの人はいい人ですよ。

 鰯がそうがなっていたので鍋に蓋をした。エリーに見つかっては困る。

 それからふと気になって窓の外を見る。もう葉っぱも散りかけているような桜の木の下には、女の人と女の子が立っている。優しそうな女の人だな、といつも思っている。あの人は幸せだろうと僕は思う。かわいい子供とずっと一緒なのだから。


 先生が世界一幸せだったなら、僕は先生を好きでいられるだろうか。僕はそれを高野さんに尋ねたかった。高野さんは僕の知っているただ一人の普通の人なので。


 高野さんは出来るとも出来ないとも言ってくれず、僕がそんなことを訊くなんて思ってなかったというような傷ついた顔をしていた。僕は明日、高野さんに大事な話をする。)



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