12
先生がお引っ越しをしたがっているんです、と泣き止んだ呂街くんはそう言った。俺はその言葉の意味もそれを今告げる理由も何もかも全部分かっているような顔をして、そうして立ち去った。何一つ理解できなかった。
次の日は、さすがに呂街くんに合わせる顔も無くて、さりとて仕事がなくなるわけもなく、玄関扉のドアノブに菊の花束が入ったビニール袋をひっかけて、いかにもフラれ男のするようなことだなあと自嘲する羽目になった。
「高野さん」
この先の身の振り方を考えた方が良いだろう。玄関の前に突っ立って、自分が吊るした花束を眺めていたら穏やかな男の声に呼びかけられた。
聞き覚えの無い声に何の気も無く振り返る。
一階の、地下室に続く階段脇にあるはずの窓から、眼鏡をかけた初老の男が身を乗り出してこちらを見ていた。白髪混じりの髪を撫でつけ優しく微笑む表情は、いつか呂街くんに聞いた話に重なった。
言葉を失っている俺に、初老の男は文字がびっしりと印刷された紙束を振ってみせる。rがどうしたって掠れてしまうタイプライタの字。
「あんた」
「謝らないといけないな、と思いまして」
初老の男はほんの少し眉を下げた。
何を謝る、だとか、俺の方こそ、だとか、何か言うべきだと思って、けれど何を言ったらいいのかもわからず、最後に吐き出せたのはずっと古い言葉への問いかけだった。
「俺はあんたに何を求めればよかったんだ」
「愛して、認めて、受け入れてくれと願われたなら、私はきっとそういうものになったでしょう。けれどあなたの内は憎しみと怒りに満たされていたから」
悪魔はそう言うと窓の向こうから、枯れ木を髣髴とさせる両腕を広げて差し出した。それが抱擁を求めるジェスチャーだと気づいて狼狽える自分と、抱っこをせがむ子供のような素振りに妙に納得する自分とがいる。
「貴方を通して、怒りは自分を守る方法だと知りました。彼は怒るのがあまり得意では無いですから。あなたは上手に怒る人だ。自分を傷つけない怒り方を知っている」
「褒められてる気がしないな」
その開かれた腕の中におずおずと体を寄せる。開いた窓から俺の手も差し入れて彼の体へと回す。首元は老いた人の、柔らかく皺の寄った皮膚の手触りがした。
「あんたがさ、呂街くんのこと好きならいいと思うよ」
「なんだ、そんなこと」
貴方が願うまでも無いですよ、と言って笑う吐息がぬるく首筋にかかる。悪魔を腕の中に抱え込んで、その体から発される花の香りと何かが腐るような臭い、そしてかすかな老いたひとの体臭を感じていた。その体は温かい。
生きているな、と思った。肉があり、血が流れる、一つの生き物だ。
「……今となってはあんたも殺せば死ぬのかな」
「体がありますからね。今も少しずつ目が悪くなっているように感じるんです」
「近眼の上に老眼なんだってな」
「はは、呂街くんが喋りましたね」
生きているものは、必ず老いて、必ず死んでいく。
呂街くんが物を食わせて、人間のように扱ったからか。彼が一緒に生きたいと願ったからか。この男は今生きている。だから、いつか死ぬのだ。
「あんたが一生呂街くんのことを必要として、そして呂街くんよりも長生きして、俺の分まであの子のことを抱きしめてくれればいいと思うよ」
そっと腕を開いて悪魔を手放す。戸惑うような面差しに、きつい目尻の面影と、俺に似た作りの鼻と、それから少し困ったように眉を下げて笑う表情がほんの一瞬混ざり込んで消えていく。
きっともう、この家であの男の顔を見ることは二度と無いのだろう。
「高野さんはこれからどうされるんですか」
「上に掛け合ってさ、この仕事から少し離れようかと」
俺はこの家にはもう寄り付かない方がいいだろう。それにどうせ、近々この家には誰もいなくなる。
二人がいなくなった、花も何も無い空っぽの家を想像すると、あんなにも気味悪く思っていた家をなんでだか愛おしく思うのだから感傷とは不思議なものだ。
「じゃあその……元気で。あんたが死んでも、多分呂街くんは見つけられるだろうけどさ、でも生きてるってこと、俺にとっては結構大事なんだよ。生きててあんたが呂街くんを抱きとめてくれてるのが、誰にでもちゃんと見えてるってことがさ」
言いながら、ひどく自分が間抜けに思えて、ごまかすように頭を掻く。
「あんたにこんなこと言うの、野暮なのかな。未来が見えてるのにな」
「私に見えているのは可能性だけですよ。それにね、言ったでしょう。だんだん目が悪くなっているんです」
「それって」
「いずれ、ただの人間と同じ物しか見えなくなりますよ」
それは未来を見る悪魔の、柔らかな断定だった。
いずれ彼は悪魔ではなくなる。少なくとも、断言するに足るだけの大きな可能性があるのだ。それを呂街くんはどう思うだろうか。
悪魔はふ、と息を吐く。
「優しいから好きなんじゃないんです。好きと言ってくれたから好きなんじゃなないんです。ただ当たり前に傍にいるのが、苦しくなるぐらいで、手放されるのが怖いんです」
「悪魔の癖に、そんなことも知らないのか」
似た者同士だな、と思った。
「言えよ、それ全部、呂街くんにさ」
ふと見上げた二階の窓に呂街くんの背中が見えて、目のくらむような心地がした。どうと風が鳴り、庭木の白い花が巻き上げられて吹き過ぎる。
大きく、大きく息を吸った。水の凝るような植物の匂いに満ちたこの空気を、永遠に覚えていたいと思ったし、きっと忘れてしまうだろうとも思う。忘れてしまったら、きっと俺は安心してしまうのだろう。
それをたまらなく寂しいと今ですら想像できるのに。
「お幸せに!」
踵を返す瞬間の、俺のやけくそみたいな叫びに応えるように、皺の寄った手が振り返される。にこにこしやがって、せめて負け犬の遠吠えだと詰ってくれたら楽だったのにと考えてから、あいつの言うことはまったくもって当たっていたと門扉に手を掛けて苦笑する。ここに通うことはもうない。
大概の場合、歩み寄るよりも否定することの方が楽なのだろう。
ただ言われっぱなしも癪だ。彼らがこの屋敷から引っ越すことがあったら、その時は一緒に猫も住める部屋を探してやろう。
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