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「呂街くん、君は今でもこの仕事を受けたこと、後悔したりはしていないんだね」

「はい、一度も思ったことがないですね」

「それは羨ましいな」


 俺は君の先生に嫌われてしまったから、という言葉を続けかけて飲み込む。呂街くんにこれ以上心配させたくない。ただでさえ俺と奴の関係に気を使わせているのだ。しかし呂街くんは何かを察したように、眉を下げて笑った。

 それに胸がちりつく。気にかけられることが嬉しく、悔しい。


「高野さんひとりのせいではないですよ」


 呂街くんはちらりと後ろ手に閉めたドアの向こうを見やる。小ぢんまりとしたレンガ造りの家の前で、でかい薔薇の花束を抱えている俺は全く妙な気分だった。この家には何度訪れても慣れる気がしない。半年ほどは住んでさえいたというのにも関わらず。


 家そのものは牧歌的な、絵本の挿絵のような家だ。緑の芝、赤い屋根のレンガの家と、装飾的意味合いの強いつる草のモチーフを持つ鉄の門。記号的ですらあるし、事実何らかの記号的意味があるのかもしれないが俺にはよくわからない。その家の庭を、窓を、物が置ける平面のうち屋根以外の全てを、びっしりと花が覆っている。


 植えられているものもあるし、花瓶に生けられたもの、花束のまま積まれているもの、切り花や、泥のついたひげ根がそのままにされているものもある。種類も多様で、色にも統一感がない。二階の出窓に生けられた白いユリ、玄関までの石段に積まれた黄と紫、ときどき青いパンジーの切り花、門のすぐそばに咲くピンクのハマナス。庭の奥の方の日陰には固まってドクダミが植わっている。その脇の排水溝には鮮やかな紅色の、肉厚な花弁が凝って固まり、端の方を茶色く変色させていた。生花ということ以外に共通点はない。

 花の香というより、もっと根源的な、水を含んだ細胞の匂いとしか表現できないようなものに覆われている家のことが、住んでいた時からずっと好きになれなかった。それだけがここを離れた理由ではないけれど。


 ともあれ今の家主かつ管理人は呂街くんであり、俺は今の仕事をしなければならない。


「これ、今日の」

「バラですよねえこれ、すごいなあ」

「季節だからね」


 恋人にも贈らないような、真っ赤で大仰な花束を呂街くんの手にどさりと預けると、呂街くんはさすがに驚いたのか照れたような笑いを浮かべた。

 呂街くんはまだ若い。俺とてそう年でもないがそれよりさらに若い。多分普通なら大学にでも通っているくらいだろう。髪も染めず服装に派手なところもない、まじめで誠実そうな青年だ。地味と言ってもいい。こんな状況でもなければ、きっとこんな花束には一生触れないままだったろう。


「こんなに丁寧にしてくださらなくても、どうせ生けてしまうんですから」

「まあ、そうもいかないから」


 ほら、と重ねてもう一つの束を呂街くんの腕に抱かせて車に戻ろうとすると、呂街くんはぽつりとつぶやいた。


「高野さんだけのせいじゃないですよ」


 それが本当に申し訳なさそうな顔だったので、俺はいいや俺のせいだよと言う気も失って、ただ彼の言葉に神妙にうなずいた。


 去り際、勝手口の窓のカスミソウをぎゅうぎゅうに活けた鉢の向こうで、男がこちらを見ているのに気付いた。壮年の、きつい目つきの男だ。じっとこちらを睨んでいたので、俺の方からそっと目を逸らした。だからこの家は嫌いなのだ。

 俺のせいだ、俺のせいなんだよ呂街くん。俺がこんなだから、君の先生が俺を好いてくれることなんてありえないんだよ。






(すると呂街くんはお前は嫌なやつだなと言われたことは無いのですかと先生が驚いた顔で聞いてきた。僕が頷くと先生の目が丸くなった。呂街くんはすごいですねえ。先生、普通の人はそんなこと一生に何度も言われないものです。私は今月で三度も言われました。それは先生が高野さんにいじわるをするからです。

 僕がそう言いかえすと先生はトンボのような丸眼鏡を光らせながら囁いた。

 呂街くん私は高野さんが嫌いです。

 そうでしょうね。

 君は我慢できるんですか。

 高野さんは僕には優しいです。

 お話にならない。そう言って先生は花瓶を倒した。桜の枝が折れてしまった。僕は泣いた。呂街くんごめんなさいと先生が言う。夕食には腐った魚を出してやろうと思った。

 呂街くんごめんなさい。先生は謝っているが僕は腐った魚をミキサーにかけている。

 呂街くんごめんなさい。呂街くん。

 僕には聴こえないということにした。

 呂街くん。呂街くん。

(りょがいくんのそういうところが好ましいですね)

 僕は手を止めて魚を捨てて先生の好きな缶詰を出してあげた。先生はまだ泣いていた。眼鏡を取って目元を拭うということもなさらずだらだらと涙を流していた。

 僕が謝る番だった。ごめんなさいと小さな声で言うと先生は壊れた蛇口のように涙を流しながらこちらこそと小さな声でおっしゃった。許されたと思っていいのだろうか。

 ミキサーを洗ったが擦っても擦っても目玉が取れなくて焦った。先生がナイフを棚から出してくれたがナイフも折れてしまった。以後目玉と同居することとなる。時々睨んでくるので気まずい。先生はミキサーをあまりお使いにならないのが唯一の救いである。

 先生はもうすっかり気を取り直して今日も部屋にこもりタイプライタを叩いている。パソコンを使えばいいのにと思うが、アナログなのが性に合うのですと言われてしまってはもう何も言えない。)


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