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 俺が俺の後任であるところの呂街浩一くんに初めて会ったのは、四月にしては暑い日のことだった。

 ぼつぼつと中途半端に青葉の生えた桜の木の下に、黒い車が停まっていたので、すぐにそれと知れた。俺も初めてこの屋敷にきたときにはあのいかにもな車に乗せられたのだった。車から降りてきた呂街くんは事前に聞いていたその変わった名前に反して普通の青年に見えたが、それにしては状況への戸惑いがまるで窺えないのが異様と言えば異様だった。


 買ってきた花を抱えたまま近づいていくと、彼はそこで初めて、何かに驚いたような目でこちらを見た。


「僕にご用ですか」

「ああ、そうだね。リョガイコウイチくん、君の前任だった高野だ」


 よろしく、と差し出した手を俺の手の中のトルコキキョウの束を見比べながらそろそろと手を握り返した呂街くんはずいぶん不安そうだった。


「気持ちは分かるよ、いきなりスカウトされてこんなところに寄越されるんじゃ」

「ああはい、ええと……高野さんも見えるんですよね」


 幽霊、と囁く呂街くんの声が震えていたので、それは怯えと怒りだと俺は解釈した。無理もない。今から自分が何に引き合わされてどんな目に遭わされるのかもまるで分からずに連れてこられたのだろう。

 それもこれも俺たちの変な性質のせいなのだから世を恨んでも当然だ。

 桜の木の下に、青白い顔の親子連れが立っている。母の目は洞のように暗く、唇は何かを訴えるように震えている。子供の顔は焼けただれたように目も鼻も塞がっている。俺の視線につられてそちらを見た。


「幽霊、ですよね」

「だろうね、生きちゃいないだろ」

「あのう、僕、自分以外に見える人って初めて見たんですけど」


 不安げに揺れる目が、じっと俺を見つめる。母とはぐれた子のようだと思った。


「あの人が死んでるって、どうやったらわかるんですか」


 彼の不安と不信は、この状況そのものではなく俺自身に向けられたものだとその時気づいた。だって彼は一人で立っていた時は、戸惑いの欠片も見せてはいなかったじゃないか。


「……どうって、見れば分かるよ。普通じゃないだろ」

「ふつう」


 その声が知らない言語の単語を復唱するときの調子なのが心をざわつかせる。

 彼の眼をよくよく覗き込むと焦点があっていないような気がしてふと恐ろしい気持ちになり、忘れてしまえと首を横に振って門を開いた。呂街くんは感嘆の声を上げた。

 屋敷の庭は花に覆われている。あの季節は門扉のすぐ脇の木蓮は白く大きな花をつけていた。それ以外にもプランターや植木鉢に植わった、ついぞ名前を覚えきることも出来なかった草花が色とりどりの姿を見せつけているのは、改めて見るにやはり異様だと思わされた。庭づくりとしての統一性など微塵も意識されていない、色彩の暴力じみて敷き詰められた花たち。


「ここで生活するだけでいいんですか」

「うん、まあね」


 「だけ」と言っていいものかと曖昧な言葉を返していると、不意に振り向いた呂街くんがぱっと顔をほころばせた。


「わあ、犬」

「犬?」

「僕、犬好きなんです。ほらあそこの、白黒のブチの」


 呂街くんが指す方を見たが、そこには何もいなかった。

 俺の目つきから感じ取るものがあったのだろうか。呂街くんの笑みに陰りが差した。


「見えませんか」

「人の死んだのしか見えないんだよ、俺は」


 白状すると、ひどく落胆した表情をされてしまい胸が痛んだ。


「あの子も死んでるんですね」


 しかし動物の霊まで見えるとなると苦労もひとしおではないだろうか。この地味に見えて風変わりな青年にたいして、俺はこの時から同情を覚えていたのだろう。だから尋ねたのだ。


「呂街くん、変なことを訊くけれど」


 およそ初対面の人間に訊くべきでないことを訊こうとしていた自覚はあった。だが、呂街くんに同情しているならなおさら、絶対に訊いておくべきことだった。


「呂街くんには、殺したいほど憎い奴はいるかな」

「……いいえ」


 呂街くんはぱちりと目を瞬かせた。幼い顔でされたその返答を、心底羨ましいと感じた。


「ならいいんだ、それならあれも君には悪さはしないと思うよ」


 俺が目で促すと、呂街くんは恐る恐るドアノブを掴んで、ぎゅっと目をつぶり勢いよくドアを開いた。

 途端に庭以上の甘い水の匂いがどっとあふれ出す。その中にわずかに交じる、物が腐る不快な臭い。暗い廊下の奥では、積まれた新しい花に潰されて古くなった花がしなび始めているのだろう。両脇の壁に吊るされたプランターに咲くゼラニウムがぼんやりと赤い。

 リビングからふらりと、男が姿を見せた。撫でつけられた髪。神経の細そうなきつい面差し。痩せた体に仕立ての良いスーツを纏った、鼻の作りだけが少し俺に似た男。

 俺の、殺したいほど憎い男。


「先生」


 呂街くんが漏らした声の震えは、先ほどとは明らかに種類の違うものだった。こみ上げる感情を噴出さないように抑えつけているがための震えだ。丸く見開かれた目が、喜びの涙にきらりと光った。


「先生!」


 呂街くんが脚を縺れさせ、半ば蹴りとばすように脱いだスニーカーが玄関を転がる。腕を開き、廊下に立つ男に抱きつこうとしてどたんと家全体が揺れるぐらい思い切り転んだ。埃がぶわりと舞い上がり、男の目が怪訝そうに細まる。


「せんせ、先生、どうしてこんなところに」


 体を起こし、喜びと驚きを隠そうともせずに呂街くんが問いかける。俺はただただ呆気に取られていた。

 俺と呂街くんの出会いは彼にとって、呂街くんとあれの出会いに比べてどれほど記憶に残っているだろうかと、今も時々考える。



 俺たちはあれのことを「知恵の悪魔」と呼んでいる。

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