ひずんだ日記 〜hidden diary〜

澄岡京樹

ひずんだ日記 〜hidden diary〜

ひずんだ日記 〜hidden diary〜


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 窓を開けると、潮風香る海辺が見えた。白い入道雲はもくもくと空へ伸びており、水平線を器に見立てるとまるでカップの上のバニラアイスのようだ。季節は秋になりつつあるが、それでも氷菓子の類はしばらく手放せないなぁと思った。


「さて……」


 それよりも、まずは仕事を済まさねばならない。そのためにこの民家を訪れたのだから。


忘時わすれじ、お前に調べてほしいことがあるんだが』


 橘さんに依頼をぶん投げられたのが昨日のこと。たまたま調査の仕事が何も入っていなかったので承諾したのだが、それはそれとして急にも程がある。どうも暇人だと誤解されているようだ。


「困ったものですね。橘さんには一度ハッキリ言わないといけませんね」


 決意表明も兼ねて口に出しつつ、海の見える窓——その直下に置かれた机に手を乗せる。……そこには一冊の本があった。これは——


「それ、日記?」


 ふと、背後から声が聞こえた。別に驚くことではない、なぜなら声の主こそがこの部屋の主人なのだから。部屋の主人は、白いワンピースのよく似合う長い黒髪の少女だった。

 名を、月浦さつきと言った。


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『私には見えないものが視える。それは幽霊だったり言葉だったり様々だ。私はそれを不思議に思ったことはない。生まれた時からそうだったから。けれど、他の人は基本的にそうじゃないということに気づいた時、初めてこの事柄に関して不思議だと感じた。でもそれは私自身のことをじゃない。……他の人たちがそれらを視られないということをだ。

 ……そして、不思議さとは別の感情も同時に抱いた。それは』


 パタンと、日記を閉じた。これ以上読み進める気力がなかったからだ。


「あー、なんで閉じちゃうのー」


 さつきが不満げにぼやく。八の字になった眉毛が、どことなく富士山に見えた。別に富士山ではない。他の山でもいい。それはそれとして富士山がいいなと思ったので富士山で喩えた。


「なんでも何も、日記をのぞき見る趣味を持ってるんですか?」

「そんなことはないけどさー、でもここ私の部屋だよ? いつの間にそんな日記が置かれてたのよ」


 さつきが疑問を口にする。気持ちはわかる。自分のものではないものが、知らぬ間に自室のメンバー入りしていたら困惑するだろう。そこに関して人のことは言えない。それはそうだ。それはそうなのだが、


「確かに月浦さんにとってこの日記は侵入者に等しいですね。けれどだからといって、日記だとわかった以上むやみに読むものでもないでしょう」

「そうかなぁ。なんか釈然としないなぁ」

「釈然としなくてもそうなんです」

「うーん、……あ、もしかしてそういうこと?」


 さつきがにんまり笑いながらこちらを見てくるので、いろいろ察した。


「……はぁ、白状しましょう。これは私が呼び込んでしまった日記です。そういう体質でして、月浦さん、今日こうしてあなたのお宅にお邪魔したのもそういった案件だからなのです」


 一瞬の沈黙、その直後さつきが口を開いた。


「……ふーん、なんか唐突な登場だなぁとは思ったけど。その違和感を抱かせないお邪魔の仕方もオカルト技なの?」

「そんなところです。……率直に申し上げますが月浦さん、あなたのお宅は今、一種の劇場と化しています。言うなれば幽霊劇場でしょうか」

「劇場? お客さんが来たら上演するってこと?」

「その認識で概ね合っています」


 月浦邸は今、『月浦家の人間が月浦邸に入る』ことがトリガーとなり特殊な現象を発生させる、一種の異界と化している。簡単に言えば幽霊が出現するというものなのだが、私はつまりその現象の解決を任されたというわけだ。いつも思うが荷が重い。橘さんは私のことを過大評価しているのではないだろうか。私ができることなどたかが知れているというのに。


「それであなた、えーと、」

「忘時彼方かなたと言います」

「そうそう、彼方さん。彼方さんがその幽霊をどうにかするってことなのね」


 さつきの無邪気な問いにうなずきを返す。この少女にとって今起こっていることは感知しづらいもの、しかし周りから見れば早急に解決してもらいたい案件。矛盾に限りなく近い板挟みの中心へとぶん投げられた私の胃痛を穏便に静める方法を今すぐ問いただしたい。無論、橘さんにである。


 ……そのように心の中でぼやくだけぼやいたことで、多少は気が楽になった。——さて、やらねばならないことを、手早くやってしまうとしよう。


「月浦さん。幽霊にも種類があります。例えば今回の場合は地縛霊がそれに該当します」

「地縛霊って、そんなのここにいるの?」

「はい。ただ地縛霊にもタイプがありまして、今回のケースは月浦さんがそれを知覚するのは少々難しいのです」


 さつきは「ふーん」と言いつつ腕組みを始める。だがその視線は所在のない遊泳を続けるのみで、それはつまり特に何も思い浮かんでいないという可能性が高いことを示していた。ソースは私の経験である。出典・私。


「さつきさん、要は『記録』なんですよ。今回の地縛霊は記録が形を持っているだけなのです」

「記録? それって思い出ってこと?」


 私はうなずく。窓の外では雨が降り始めた。夕立である。


「このタイプの地縛霊は、出現する空間内のことしか知り得ません。外で出会うこともなければ、逆に外の出来事を知覚することもできません」

「へー、じゃあ知ってることしか知らないのね」

「ええ、もっと言えば、知ったことしか再生できないんです。今の天気なんてわかりっこありません」


 雷が鳴る。海は黒々としており墨染の硯めいている。


「じゃあ今もし雨が降ってても、記録霊さんはわかんないんだね」

「——ええ。そうなりますね」


 土砂降りは直に止むだろう。けれど、記録の映写機は真実を直視しなければ止まることはない。これが胃痛の原因だ。いつだって幕引きは楽しくない。私、忘時彼方にとって、エンドロールは終わりではなく次の終わりまでの幕間に過ぎない。

 ……もっとも、私は終わる側ではなく終わらせる側なのだけれど。


「月浦さつきさん。……窓から外を見ましょう。今ならきっと、いいものが見られますから」

「んー、なになにー?」


 そう言って窓の外現実世界を覗いたさつきは、己の齟齬を即座に理解し、そしてあるべき所へと還っていった。



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『私には見えないものが視える。それは幽霊だったり言葉だったり様々だ。私はそれを不思議に思ったことはない。生まれた時からそうだったから。けれど、他の人は基本的にそうじゃないということに気づいた時、初めてこの事柄に関して不思議だと感じた。でもそれは私自身のことをじゃない。……他の人たちがそれらを視られないということをだ。

 ……そして、不思議さとは別の感情も同時に抱いた。それは』


 それは寂しさだった。この視界を共有できる人がそう多くはないことを知った私——忘時彼方は、この目を持ったことを理解できなくなった。

 橘さんと出会ったのはそれから数年後の、高校生の時だった。


『お、記録視できんのか。いいね、いい眼をしている』


 そんな口説き文句に(当時は)思えた言葉を伴った初対面だった。


 過去や未来、とにかくその場で起こった/起こりうる記録を、私は限定的に観測することができる。大抵は視ることができるだけなのだが、この目の使い方にも慣れたので、月浦さつきさんのような記録霊を、出現条件を無視して対話可能状態に持ち込むことができるようになった。

 まあそのためには、『私が昔書いた日記を具現化させなければならない』という縛りを守らねばならないのだが。

 ああヤダヤダ、毎回恥ずかしくてしょうがない。穴があったら入りたい。


「おうおう、辛気くせえ顔してんな」


 ——背後から聞き覚えのある声が聞こえた。お寺の住職をしているTさんだ。


「なんでそんな顔してるのかわかってて来たんですよね」

「だって心配だからな」


 心配? 私を?


 ハッ、どうだか。

「ハッ、どうだか」


 ついつい心の声がストレートに口から出た。

 それにしても難儀なことだ。高校時代に到来した初恋の相手が、よりにもよってこの男なのだから。


「難儀なもんですね」

「あ、何が?」

「いいえ、何でもないです」


 我ながらめんどくさい人間に育ったものだ。びしょ濡れの作務衣を着た人を見ながらそう思った。

 外に出ると、ちょうど雨が上がったところだった。海はまたキラキラと輝きを取り戻していた。実のところ、こういう光景を見るのだけは楽しみなのだった。

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