第7話

「うっはー……焦った!!  すっっげービビった!」


 町田駅前のせせこましい歩行者天国を歩きながら、龍二は胸を撫でおろしながら誰にともなく声をあげた。龍二の声に目を眇める通行人が何人かいるが、正直に言って構っている精神的余裕はない。

 背中に冷や汗が伝い、秋風が乾かすことで皮膚が冷えていく。

 もし万が一にもマリアのことをヒズミに知られ、対立することになったとしたら。


 ――――勝てるわけがない。相手はあの、歴代最高記録保持者だぞ?


 ヒズミを上司として、人間として信頼していることは確かだ。素直に相談してみたら、もしかしたら理解を得て協力してもらえるかもしれない。

 だがそれをわかっていながら、実行に移さないのは……。

 ヒズミからの期待を、大きく裏切っているという後ろめたさ。

 そしてそれ以上に、マリアとの秘密の暮らしを、龍二自身が自覚しているよりずっと気に入っているのかもしれない。

 彼女を想うのであれば、協力者が必要になる日が絶対に訪れる。

 しかし彼女を想うがゆえに、独り占めしたいという抗いがたい乱暴な欲望が牙を剥く。

 いまはまだ……まだ誰にも邪魔しないでと、独り善がりの願いごと。


 ――――それにしても。

 ヒズミが気にするほどシャンプーの匂いを撒き散らしていたのかと思うと、やはりマリアとは別に自分用のシャンプーを用意したいと考えた。

 マリアがこだわって選んでいるシャンプーは、馬鹿にならないくらいに高い。

 シャンプー一本で千円を容易に超える。その他にコンディショナー、トリートメント、整髪剤と揃えれば五千円近くになるのだ。しかもマリアは髪がとても長いので、一回に使う量も多く、ひと月で詰め替えなくてはいけない。

 そのうえマリアは他にも金のかかるアメニティーを買えと命令するのだから、龍二がいくら稼いでも家計は常に火の車だ。

 だから龍二用にメンズシャンプーを用意する金銭的余裕はなく、マリアにお伺いを立ててどうにか馬鹿高いシャンプーを兼用させてもらっている。


 ――――というか、全部俺の稼ぎで買ってるはずなんだけどな……!


 そう思うと悔しくて歯軋りしてしまうが、彼女に逆らうことができない自身の情けなさがよく身に染みた。

 マリアから香る分には構わないだろうが、果たして男の自分から香るにおかしくない匂いなのだろうか、と気になった。

 実は周囲から奇異の目を向けられていたのかもしれない……と冷静に考えればどうでもいい、妙な不安が過ぎった。

 短い髪を目いっぱいに引っ張って、どうにか鼻に近づけて嗅いでみる。すると。


「あっフルーティーフローラル!」

「なにがフルーティーフローラルよ?」


「いや、シャンプーの香りがね、確かそういう名前だったんだよ」と真面目に答える前に驚きが勝った。

 まさか道端で誰かに独り言を真面目に聴かれ、しかも質問されるとは思いもしない。

 〈ロスト・ラグナロク〉の本部が設立されてから、町田駅周辺はショッピングスポットではなく狩人の街に変化した。

 狩人向けの武器店や商店、情報収集にうってつけのバー。地方から出稼ぎに来た狩人のために、ライセンスを提示すれば格安で泊まれるホテルが軒を連ねている。

 お陰で町田は日本で最も安全な街として、地価を年々上げているようだ。

 いま道ゆく通行人のなかに、一般人は果たして三割も含まれているだろうか。

 周りを見渡せば、銃や刃物などの物々しい武装を背中や腰に帯びた、声をかけるのも躊躇われるおっかない男ばかりが目立っていた。


 狩人には幾人か知り合いもいて、なかには軽口の応酬をかませるような気の置けない友人も龍二にはいる。

 しかし基本的に、狩人などという厳つい職で食いつなぐ者は、人付き合いというものに対して拘りを持たない。他人への興味は極端に薄く、結婚を含めた濃厚な交友関係らしいものを求めようとしない。

 良く言えば『一匹狼』、悪く言えば『偏屈』。

 だから同じように腰に刀を下げた龍二が誰かに声をかけられるなど、滅多にないことなのだが……。

 声の方角に振り向き、そして隠すことなく驚愕した。


「まっ、マリア! お前なんでここに……!?」

「遅いから迎えに来てあげたのよ」

 歌姫のように涼やかではあるが不遜な声音が、もっともらしい理由を述べた。

 腰まで届く長い銀糸の髪が、緩やかな風に揺らめいている。腰に手を当てて踏ん反り返るマリアは、明らかに不機嫌そうに頬を膨らませていた。

 薄い腹からぐううう、とまったく可愛らしくない大きな音が鳴り響く。どうやら腹が減ったから、龍二に飯を要求しに出て来たらしい。

 マリアは常日頃から家事の一切を龍二に任せており、龍二と出逢う以前から包丁など握ったことのない人生を送っていたそうだ。


 《葬祭のマリア》といえば狩人のなかでも名の知れた存在であることは、もはや現代日本の常識といっても過言ではない。

 狩人から首を狙われている理由も、残念ながら多くの一般人に手をかけてきたこと。

 ヒズミが《国民の英雄》と崇められる理由とはまったく真反対に、《葬祭のマリア》は日本国民全員の、共通にして最悪の敵である。

 そんな彼女が日本随一の狩人の街をぶらついていれば、袋叩きに遭ってもおかしくない。

 だから龍二はなるべく独りで町田を出歩くな、と口が酸っぱくなるほど日頃から忠告していた。

 マリアが遊びに出かける場所は、聴いている限りでは町田から小田急線で小田原方面にちょっと向かった、海老名周辺。町田よりずっとなにもない土地だが、だからこそ人の目が少ない。

 それは忠告を素直に受け入れてくれたから、とばかり思っていたのに。

「ったく……飯くらいたまには自分で用意しろよな。料理もできない女とか」

 龍二が大きな溜め息とともに漏らした落胆の言葉の最後数文字は、マリアの流れるような手刀の寸止めによって止められた。

 目にも留まらぬ速さで龍二の首元をあっさり捉えるマリアの華奢な指は、まるで鍛え上げられて鋭利な日本刀のような圧力を持っている。

 小柄な少女の姿に見合わぬ迫力に、龍二の喉が恐怖で震えた。


「ごめんなさい帰ってすぐ光の速さでご用意いたします」

「ヨシ」


 マリアの迫力に圧された結果。今日も結局、龍二が三食用意してやる羽目になった。

 ――――なんで勝てないんだろ、俺……。

 自身を情けなく思いながらも、これが惚れた弱みなのかな、などと見当違いの納得でやや無理矢理に誤魔化すことにした。

「龍二」

 突然、緊迫した声で不安そうに呼びかけるマリア。彼女が縋るように呼びかける理由は、もうわかっている。

 しかし龍二はあえて明らかな反応を見せることなく、マリアの手を引いて徐々に速度を上げていった。

 敵だ。しかもマリアを狙った、あからさまな殺意を込めている。

 戦うべきかどうかは相手の出方次第になるところだが、そうなる前に移動してしまいたい。いま追ってくる敵の情報源は見当もつかないが、マリアがあの《葬祭のマリア》だという情報をここで表沙汰にするべきではない。

 ひと気のない場所で迎え撃ち、話のわかる者であれば交渉。それ以外は……。


「……っ!」

 続きを口にできず、龍二は血の味が滲むほど歯ぎしりをした。

「殺してやる」という言葉は、龍二にとっていつまで経ってもどうしても口にできないもののひとつ。

 生来から争いごとを得意としない質の龍二にとって、攻撃的な言動や行動は大きく苦手だ。他人を傷つける行為に慣れておらず、いつも消極的になってしまう。

 しかしマリアの前でだけは、いつも素直な自分でいられた。

 どうしてなのか、はっきりとした理由はわからない。もしかしたら、彼女が初対面のときから無遠慮だから、それに引っ張られているのかもしれない。

 そんなことを一瞬だけ考えて、空いている左手で自らの頬を思い切り殴りつけて喝を入れた。


 ――――心のなかでまで消極的になってどうすんだ。いまはマリアを守ることだけ考えろ!


 あちらがマリアを殺す気でくるのなら、こちらも全力で抗わねばなるまい。生死をかけた戦いで相手に遠慮していては、守れるものも死なせてしまう。

「こんなときになにやってんのよ」

 一部始終をすぐ背後で眺めていたマリアには、しかし彼の葛藤までは見えず怪訝な表情で責めた。敵に追われているいま、ふざけている場合ではないのは十二分に承知していると思っていたのに、だ。

 自分で自分を殴るなんてアナタ、実はマゾヒスト? と嫌味で馬鹿にしてやろうと口を開きかけて。


「悪い。もう大丈夫だ」


 振り向き様にそう言って微笑んだ龍二を、思わず真ん丸にした目でしげしげと見つめてから、「心配させないでよ」と吐き捨てる。どうせいつもの優柔不断だ。マリアも内心ではそう思っているのだろう。

 龍二は実力こそ〈ロスト・ラグナロク〉本部でも指折りだが、ここぞという場面で躊躇うことが多々ある。彼の優しさという弱点が、命を奪う行為の邪魔をするのだろう。

 マリアに傷を与えるときもそうだ。彼はいつも、その優しさゆえにマリアを殺し損ねる。

 人間らしい優しさを失うな、とは言わない。その優しさに助けられたことだって幾度もあると、マリア自身が多少なりとも自覚している。


 しかし、戦いでその質は悪癖でしかない。

 互いに命の奪い合いをするなかで、その躊躇いこそが自身を殺す引き金となる。

 そのことを、龍二はまだ身に染みて体感していない。

 いくらエースと期待されようとも、経験値が低くて学べていないことはたくさんあった。

 マリアが龍二のその未熟さに時折、苛立ちを覚えていること。龍二はずっと、気づいていないふりをしている。

 まるで自分自身の弱さそのものから、目を逸らすように。


 龍二の視線に合わせて背後の様子を恐る恐る確認すると、確かな殺気を放った男が追ってきていた。

 このまま逃げ切れたら、などという龍二の弱気は、いとも簡単に崩される。

 男はやけに大ぶりな銃を取り出して、龍二よりもやや空へ向けた。なにをする気なのかと構えていると、太い銃口から発射されたのは、太めのワイヤー。

 そのワイヤーは龍二の頭上数メートルを通過し、ふたりの眼前にある古い雑居ビルを崩壊させた。

 男の目的に気づいた時にはもう遅い。崩落したコンクリート群は山となり、龍二とマリアの道を完璧に塞いだ。

 崩落に巻き込まれそうになった女性が悲鳴をあげたことを皮切りに、ひと気は一気に引いた。

 逃げ惑う群衆、立ち上る砂煙をかき分けて、男は幽鬼のように立ちはだかる。


「《葬祭のマリア》……だネ?」

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