第6話
ライセンス登録や仕事の斡旋、報酬支払、アンデッドの情報収集、などなど……。
狩人の日々に欠かせない大切な業務を、一括管理してくれるのが狩人の司令塔、〈ロスト・ラグナロク〉。
その本部はもちろん、現在の日本国の中心地である東京都町田市に設えられている。
町田駅のすぐ近くにあった町田市民ホールを突貫で改装した本部は、簡易的なパーテーションで区切られただけの部屋が多い。
しかし〈ロスト・ラグナロク〉でも最高幹部に与えられた個室は、そこそこに立派な家具が並んでいる。
最高幹部という輝かしい地位に相応しく、ホールと併設されていた町田109のビル最上階だ。
ショッピングモールとして完成したばかりで突然に用途を変更させられたビルは、その片鱗があちこちに残されている。例えば職員や来館者の憩いの場となっている一階のラウンジだが、いくつかのテナント向けにガラス窓とわずかな壁面で区切られていた。それを利用して喫煙室も完備されており、見た目はともかく設備としては充実している。
ここ司令官室は、家主の好みで備えつけのブラインドは全開にされており、町田駅周辺の風景が一望できた。二十三区と比べると高層ビルがぐっと少なく、しかし過疎化しているわけではない。東京都にしては地味であろう、中途半端な景色だ。
空は青く澄み渡っているが、鳥類が飛び交う様子はない。街を彩る音は、かん高いビル風のみ。人の気配はあれど皆どこか、『ここにいてはいけない』ような余所余所しい空気を醸し出していた。
「今日も素晴らしい活躍ぶりだったね、水神くん」
その最高幹部のひとりであるヒズミ司令が、窓際に誂えた革張りの椅子から龍二へ向けて微笑んだ。
一見して三十代に見える若々しい顔とは裏腹に総白髪。鍛え上げられた肉体は威圧感すら覚えるというのに、しかし不思議と人好きのする優しい顔つきだ。
聞けば昔に受けた古傷があるとかで、はっきりと男性だが髪を全体的に長めに伸ばしている。
「いえ、ヒズミ司令の現役時代と比べたら……!」
龍二が恐れ多くて顔を青くしながら否定すると、ヒズミはくすくすと上品そうな笑みをこぼした。
「そう謙遜するな、あの記録もすぐに抜かれるさ」
本人は大したことなさそうにしているが、龍二の言う通り、いまから一年前になるヒズミの現役時代は輝かしい記録しかない。
アンデッド撃破数、武器の採掘数、総報酬額、その他。
総てにおいて史上最高の値を叩き出した怪物……それが龍二の眼前で威風堂々佇む男、ヒズミ司令という人物である。
〈ロスト・ラグナロク〉が歴史の浅い民間機関であるという常識を打ち壊し、莫大な政府支援を実現させたのも、この男の活躍があってこそ。狩人という生活の不安定な汚れ仕事は、彼の活躍によって花形職業にまでのし上がった。
それで狩人の総人口が増えたかといえば微妙なラインだが、まさに《国民の英雄》という冠に相応しい肖像。
しかし。
総ての記録をたったひとりで塗り替え続け、絶好調だったある日……突然に現役引退を宣言。数多の人々に引き留められるも頑として受け入れず、自ら望んで現在の地位についたのだ。
突如として引退し、司令という地位に収まった明確な理由は誰にもわからない。神のみぞ知る、とも限らない。
司令という地位も十二分に高い位ではあるが、〈ロスト・ラグナロク〉内で管理職を求める者は『物好き』に限られる。なにせ地位が高いだけで、報酬額は前線に出ている狩人よりも格段に低い。管理職は月給制で、狩人が完全歩合制だからかもしれないが。
彼の体力や実力は引退当時でさえまだピークに達していないはずで、前線に出て困ることなどなにもないはずだ。
しかし《国民の英雄》はあえて身を引いた。人気も絶頂だっただけに、多くの国民が痛烈な悲鳴を上げたようだ。
それでも彼の知名度と人気は凄まじく、非公式のファンクラブがあるとかないとか。とある雑誌での、引退後は国会議員になって欲しい有名人ランキングでも、堂々の一位に輝くほどに信頼も厚い。
俗物的にいえば『カリスマ性がある』とでも言えばいいだろうか。その大袈裟な輝かしさは、まるで漫画の世界の登場人物じみている。
だが彼のプライベートは、まったくの謎に包まれていた。
年齢はもちろんのこと、出身地、家族構成、学歴、職歴……本名さえ怪しいくらいだ。狩人として活躍する前の足取りがまったく掴めない。
そういった公私すべてにおいて謎めいているのが、龍二が憧れるヒズミという男である。
さすがにファンクラブまでは行き過ぎだが、それでもこの人のようになりたい、と願わずにはいられない。
ちやほやされたいわけではない。余剰な金が欲しいわけではない。ただただ純粋に、彼の人柄から来る人徳と実力に惹かれているのだ。
ヒズミの執務机の、さらに奥。よく使いこまれた古い刀が丁寧に立てかけられている姿を、龍二はうっとり眺めている。
あれはヒズミの現役時代の相棒だ。
かくいう龍二もヒズミへの憧れが強すぎて、彼の現役時代と同じ日本刀を主武器としている。
「……。ところで水神くん」
龍二が内心で長時間うっとりとしていたところ、不意に呼ばれてはっと目を覚ました。
「すみません」と慌てて平謝りすると、ヒズミは特に気にしていないという返事の代わりに何気なく会話を続ける。
「君は《葬祭のマリア》の動向で、なにか掴んだ情報はないかな?」
「えっ……」
瞬間。
龍二の五感はすべて麻痺し、重力やら空気やらといった森羅万象の理すらも忘我。
ヒズミの瞳、声音、纏う空気のすべてが、現役時代を彷彿とさせる鋭さと重々しさを帯びた。
扉越しに聴こえていたはずの雑音や、人が生活している気配といったものが一気に消えていく。背中からじんわりと『冷え』が拡がり、やがて全身に回っていった。
この世界に存在しているものが、まるでヒズミと龍二自身だけのようだ。
突然に上司の口からマリアの話題が出たのもあって、おそらく熱に浮かされて頭が回っていなかったのかもしれない。
彼女を自宅で匿っていることがどこからか露見したのかと、龍二が言葉を詰まらせた。
重厚な樫の机上で指を組んで真っ直ぐ見つめる、ヒズミの視線から逃げられない。
抗えない沈黙が世界を支配した。
その間、ヒズミの指は執務机に置かれたままのチェス駒を撫でている。
駒も盤も硝子製のそれは、窓から差し込む太陽光と室内の照明を浴びて、複雑なスペクトルを机上に表していた。龍二が訪問する前まで誰かの相手をしていたのか、ゲームは白が騎士でチェックしている。
ヒズミの長い指がその騎士の頭を撫で、手に取った。蛇に絡めとられたように逃げ場をなくした騎士の姿に、龍二の喉が意識せずとも鳴る。
しかし。
「――――いや、なければいいんだ」
瞬きの合間にヒズミの声は、龍二がよく知る『温和な上司』のものに戻った。
硬く張り詰めていた空気も気のせいだったと思うほど霧散し、龍二の五感は聴覚から徐々に取り戻されていく。打ち棄てられた鋼鉄のように冷たくなっていた龍二の指が、爪先からじんわりと平熱を帯び始めた。
「実は上の方が煩くてね。彼女はいまや、人類最大最恐の敵だから」
やや前のめりになっていたヒズミの背中が、ぶ厚い椅子の背もたれ全面に触れた。椅子が軋む音に弾かれたように、龍二の喉が声とともに呼吸を再開させる。
「あっ……」
――――なんだ、そういうことか。てっきりバレたのかと……。
龍二の全身を包んでいた『冷え』が一気に引いて、常温の生ぬるさが戻ってきた。
今度こそ正常な判断ができたようだ。
自分の言葉や態度で本当にバレたらマリアが殺されると思い至り、内心で胸を撫でおろすに留める。うっかりしていた、では済まされないことだと、よくわかっているつもりだ。
「君は我が本部でも期待のエースだからね、水神龍二くん」
龍二の内なる思いを知ってか知らずか。
長い脚を組み替えたヒズミはいつも以上に優しく微笑みを浮かべ、「私も大いに期待しているよ」などと自然な流れで叱咤激励を送った。
冷静に考えれば、素知らぬふりをしていれば露呈しない事実だ。龍二とヒズミとのあいだに個人的な繋がりはない。それにヒズミの言葉を借りるなら、〈ロスト・ラグナロク〉きってのエース狩人である龍二がよもや《葬祭のマリア》と内通しているなんて……馬鹿げた事実もないだろう。
国民を守るための狩人なのだから、この行為は国民にとって背徳行為でしかない。そう考えたらまた、背筋に疾るものがほんのり疼いた。
しかしその感覚を無理矢理に剥がすよう、肩を上下に揺らす。完全に拭い去れたわけではないが、それでもいくらか自分を誤魔化せる。
話を戻そう。
龍二が留守のあいだにマリアがどこにいて、なにをしているかなど、龍二が把握しているわけではない。しかしマリアがわざわざ龍二以外の〈ロスト・ラグナロク〉関係者と、繋がりを持つ理由も利点もないはずだ。
〈ロスト・ラグナロク〉、ひいては狩人は、人類の脅威であるアンデッドを狩ることが仕事だ。龍二のように自分の稼ぎを削ってまで寝床と飯を与えるなど、まさしく狂気の沙汰としか思われない。
マリアとの生活が露見すればきっと、龍二も人類の敵と見做されて排除される。冗談や被害妄想などではなく、近い将来に現実のものとなるだろう。
いつまでも隠し通すことはできないのも、ひとつの事実だ。
マリアを部屋に監禁しているわけでなし。多額ではないにしろお小遣いを持たせ、龍二がこうして本部に用事のある時間、彼女はどこかへ遊びに出ていることだろう。
あの安アパートに警備員などという上等な人の目はないが、それでもご近所のひとりくらいは彼女の姿を目撃している可能性を拭えない。
自分が常に抱えていた爆弾の破壊力を再認識し、さらにはヒズミからの嬉しい期待も新たに認識したことで、龍二は身も心も引き締めた。
と、同時に。
自分がヒズミの期待を裏切っているという罪悪感も、新たに生まれて胸を刺す。
「あっ……ありがとう、ございます……」
いつもなら笑顔で応えるその期待が、いまは鋭い痛みとなって龍二を襲う。ヒズミと目を合わせることができなくて、あからさまに視線を逸らしてしまった。
ずっと憧れているヒズミから目をかけてもらえるなど、なかなかないことだろう。彼はその地位から多くの狩人と関わるものの、なかなか辛口な評価で有名だ。
そんな厳しい目を持つヒズミからの期待は、普段であれば龍二の向上心を高ぶらせる材料になるはずだ。
「司令のご期待に添えるよう、精進しま……」
龍二の言葉尻が終わらないうちに、なんの前触れもなくヒズミが立ち上がった。ゆったりとした歩調で龍二に接近したと思ったら。
「!? えっ……し、司令……?」
龍二の髪に触れ、鼻を寄せてなにかを確かめるように嗅ぎ始めた。
総白髪と長めの髪、そして痩せた頬という強い特徴で分かりづらいが、ヒズミの顔は男の龍二から見ても整っている。
もしも龍二が女性だったら、色めき立って勘違いしてしまうような距離感。
ヒズミの指や鼻梁が龍二の髪に優しく触れ、そこからじわりと体温が伝播していく。
距離の近さからヒズミの香りも、龍二の鼻に届く。龍二のものとは違う、清涼感のある香りだ。
「女物、のシャンプーの香りだね」
やがて擽るような耳元の囁きがそう言った。ヒズミの声は低いが澄み渡っていて、聴いている耳はあまりの心地よさに揺れる。女性であれば骨抜きにされてしまうのも、深く納得の魅力だ。
「えっえっ!? えっと、これは……」
龍二が答えに詰まらせた理由には、当然のようにマリアの存在があった。
マリアと共有させられているシャンプーは、確かに龍二の髪を甘い香りで包んでいる。華やかな花の香り。
ヒズミにマリアのことをどう説明すればいいのか、考えていなかったわけではない。
しかしこれまでなかなかいい案が思い付かなくて放置していた事実が、いまを深く悩ませているのだ。
「彼女のものかな? 君も、もう二十六歳だしね」
ふと龍二から離れたヒズミは穏やかに微笑んでおり、まるで弟か息子の成長を実感したかのような慈愛に満ちていた。
「あ、えと……そんなとこです……」
反論はしなかった。余計な言い訳を考えれば、きっと墓穴を掘ると強く確信したゆえだ。
マリアを守るためには、くだらない感情に走るべきではない。
ある意味ではヒズミと対立しているのだから、言動すべてに気を配り、万全を期すべきなのだ。
「『彼女』を悲しませないようにね」
別れ際のヒズミの忠告が、龍二の頭をティースプーンのような重みでほんの僅かに掻き乱した。
何気ない世間話の延長、そのはずだ。なのにどうしてか。
不思議なことにヒズミの声が耳や脳裏にまとわりついて、なかなか離れなかった。横目で合わせた視線は仄暗い色味に染まった、《国民の英雄》とは真反対の明度。
これから起こる出来事の、悪い予感めいた色が添えられたことに――――このときの龍二は、まるで気が付かなかった。
龍二が去って独りになった広い司令官室で、ヒズミは手ずから淹れたコーヒーの香りを堪能していた。
だがなぜか、いつまで経っても口に含むことはしない。
香りだけをじっくり味わってから、唇が呼んだその名は。
「《葬祭のマリア》……か」
その声は世界中の誰にも届くことはなく、遠くの喧騒を背景とした空間に吸収されていった。
町田109の眼下に広がる街角を見渡せば、先ほど別れたばかりの龍二の姿が容易に見つかる。
水神龍二は特段変わった点のない、普通の青年だ。体格は平均値、髪型も没個性的、顔は悪くないが特別に良くもない。左の腰に据えられた愛刀が不似合いなくらいだ。
しかし彼が抱えるその秘密だけは、ヒズミに燃え滾るような興味を持たせた。
彼から匂う甘い香りは、ヒズミが求めてきたものによく似ている。その香りの正体を暴きたい……。
喉を鳴らし、ヒズミの唇は不穏な三日月型に歪んだ。それは空に浮かぶ不吉な赤い月のように、鈍く光っている。
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