第9話
降りしきる、冷たい五月雨。
路面に落ちて散乱する雨粒の効果か、神奈川エリア中央区の
明治時代のお洒落なガス灯をイメージした街灯は、電力不足も相まって不規則に点いたり消えたり忙しくしていた。
雨に濡れた煉瓦の路面にあるのは、水溜まりではなく。
新鮮な血の池ができていた。
雨と混じって溶かされた水彩絵の具のように、じわりじわりと延びていく。煉瓦の凹みに沿って、血が幾何学模様みたいに街の一角を彩る。
しかし匂いは雨に掻き消されて、量の割には拡がっていない。それが『彼』には、ほんのわずかに不服であった。
血の錆を感じる重たい臭さが、少年期の反発心でシンナーを嗅いだときの恍惚とよく似ていると、彼はいつも思っている。
あの夢見心地になるときの、ふわりとした感覚。たまらない。
匂いの代わりにと、血が染み付いたナイフの刃に指を這わせ、ぬるりとした感触をひとしきり楽しんだ。仕立てのいいスーツに、血の染みが点々と付く。
こちらもやはり、どこか夢を見ているみたいで気分がいい。
雨は一段と強く降りつけて、死体はどんどん冷たく固くなっていく。
彼はその様子を、やはり芸術的で一種の官能的な色味を持っていると、そう感じざるを得ない。
人の死というものは哀悼などというつまらなくて地味な色に染められがちだが、本来持っているのは、鮮やかで美しい快楽だといっても過言ではない。
だって。
「従来の神が天地創造をおこなったとするなら……我らが神は天地虐殺、といったところか」
などとナイフと血を指で弄びながら独りごちる。
我らが神は、だからこそ東京エリアで大虐殺という、この星の歴史にも残る偉業を打ち立て成されたのだ!
素晴らしい。最高だ。
ぞくぞくと、思い出しただけで背筋が泡立つ。
バラの花弁を一枚一枚千切るとき、その美しさと儚さに見惚れるだろう。
人の命が散るとき、その一瞬。彼がその光景を思い出すのは必然だ。
それをまた見たいと思うのも、自然なことである。
美しいと感じたものは、そう、たとえばモネの『睡蓮』。もう一度、何度見ても美しいと感嘆する。
癖になってもう一度、もう一回だけ。そうやってどんどん深みにはまっていく。
逃れ得ぬ罠、振り切れぬ茨、踏み込む毎に沈む沼、そしていつの間にやら煉獄へ。
だからこそ彼は、敬愛する神に従おうと、文字通りにすべてを棄てたのだ。
ほんのわずかに、彼の脳裏に棄ててきたはずの妹の、あの絶望した色を濃く映した顔を思い出して、形のいい唇を憎悪に歪めた。
「……汚い」
汚い、汚い。
みっともなく生に縋りつき、偽りの神に魂をも捧げるその、醜悪さ。
許せなかった。だからすべて、置いてきたのだ。
美醜もわからぬ、あの能無しの親と同じだ。
自分に彼らと同じ血が流れていると思うと、吐き気がする。
「おっと……いけない、いけない」
怒りに任せていつのまにか、ナイフで自身の腕を滅茶苦茶に切り刻んでいたようだ。
ズタズタに切り裂かれた腕から、ぽたりぽたりと鮮血が滴る。彼はそれを、林檎のように赤い舌で舐めとる。
彼女の栗毛を、ほんの少しだけ掬って引っ張り、髪の色合いを楽しむかのように眺める。
それから思い出したように、動かないはずの死体の、投げ出されたその細い腕に。彼は優しいキスを落とした。
「……ようこそ〈レザークラフト〉へ。我らが儚き
死体は綺麗に回収されて、あとに残ったのは血の海。
淡い色合いの幻想的な街並みに、その
「うん、とても美しい」
まるでバラを散らせたみたいだ、と白い
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