第5話

 そのまま神奈川エリアの中央区に繰り出すために、秋は学校の駐輪場にこっそり停めていたボロ原付バイクを取りに行った。

 ルカのお下がりなので、彼の趣味でラッピングされた原色バリバリの原付バイクは、とにかくどこに行っても目立つ。

 エンジンも二〇一〇年製と、旧式中の旧式だから、排気音がうるさいしガスが不必要かつ無遠慮に臭い。

 そんな憎き愛機に跨って、なかなか掛からないエンジンを鼓舞し、それからようやく学校を出発した。

 神奈川エリアの新しい象徴として神奈川新高速道路が華々しくも開通したばかりで、いまではほとんど誰も通らない旧横浜横須賀道路を心地よい海風を受けて爆走。ものの十分ほどで神奈川エリア中央区、旧横浜市街に入る。

 適当な駐輪場に停めてから、秋は中央区の古くてゴミ臭い路地を歩いていた。

 煌びやかで近代的、高級な店が立ち並ぶ現在の神奈川エリアの中心地は、鶴見川を埋め立てて開発された旧鶴見区である。

 旧横浜駅周辺と併せて《中央区》と呼ばれているが、しかし同じ中央区でも、旧横浜駅前は掃き溜めみたいなものだ。

 十四年前の世界恐慌でばたばたと閉店した店のビル群がそのまま置き去りにされて、怪しい大人がそこで非正規の店を開くものだから、この辺は『闇市』なんて呼ばれている。

『闇市』で買える品々のなかには世界恐慌前に製造された、いまでは政府の規制対象品とされている携帯端末の部品が流通している。

 インターネットをはじめとした通信回線は、先の世界恐慌で類を見ない燃料不足の二〇三二年現在において、ちょっとした贅沢だ。

 政府がおよそ三十の専用回線と、百五十ほどの一般回線を持って監視しているが、“一般回線”とは名ばかりで、一般人はおいそれと使えないようになっている。

 パソコンやタブレット端末、ゲーム機などのインターネットを利用する機械製品と、燃料を使う公共機関以外の車やバイクなどはみな一様に、政府から『規制対象品』という印がつけられた。

 政府高官たちが仕事で使用することを優先し、一般人には所持さえ規制している。

 携帯端末なんてものは、もちろん『規制対象品』。

 政府が一部にのみ認可して販売している携帯端末は電波が微弱で、電話はともかくゲームアプリや、動画配信と閲覧などには向いていない。

 だから一部の動画配信で食っているような稀な連中や、そんな動画配信を楽しみに生きている娯楽に飢えた現代の若者たちは、『闇市』で買った部品を使って自作マシンを組んで使っている者と、それを買う者が多い。

 どこかのアウトローな連中が、政府が確保しているネット回線の一部をもちろん無断で大盤振る舞いの無料開放し、多少の制限はあるものの使い放題となっている。

 もちろん政府はすぐにハッキングしてクラッシュさせるのだが、それでも懲りない連中はいるようで、いまでは利用できる回線を定期的に移動させて、一部の一般人が密かに楽しんでいる。

『闇市』でバイク用品の商売をしている男が、秋に向かって「そこのにーちゃん、さっき原チャ停めてるの見たよ!いい部品あるから寄ってかない?」などと声をかけてきているが、無視する。

 そのあいだもずっと、教室での沙也加の言葉と表情が頭に焼き付いていて、ぐるぐると駆け巡る。締め出そうにも、繰り返し甦る。

「そりゃあそうに決まってんでしょ!だって秋、アンタは」

「————『わたしの大事な家族なんだから』、か?」

 誰に言うでもなく、彼女がきっと言いたかったであろう言葉を勝手に引き継いで、雑踏のなかでせせら笑う。

 秋だって、わかっているつもりだ。

 沙也加が、彼女の家族が、秋を本当の家族みたいに想ってくれていて、ルカが保護者としてそばにいてくれるいまも気にかけていること。

 試験を受けるための勉強を見てくれたルカだって、本当は秋が神父になることを強く望んではいない。

 神父になって、悪魔を祓うことで、両親が生き返るわけではない。

 秋の過去がすべて清算されるわけではない。秋のこころが救われることはない。

 両親は狂って、悪魔に取り憑かれて、秋のことも忘れて、くたばった。それがすべてだ。

 なにも変わらない。これからもずっと、変わるはずがない。でも。

 あの地獄のような日々が、終わった日。

 ルカに救ってもらったことで、強い憧れを感じたことは間違いようもなく。

 秋のなかでひときわ輝いて煌めいて、どうしようもなく頭にこびりついて離れない。

 過去も歴史も変わらないし、現在を変えることもできない。でも。

 未来は、創ることができる。

 いまはただ、それだけを信じていたい。

 信じてみたい。

 あの地獄が終わった日に、ルカが与えてくれたものは、そういうものだと。

 見上げると、空は晴れ渡っているにもかかわらず、ここはやはりなんとなく薄汚く感じてしまう。

 顔をしかめて、『闇市』の商売人が客引きでうるさくしているところを、そそくさと離れた。

「さーて、どこ探すかね。このクソ女……」

 とぶすくれながら誰にでもなく呟きながら、ルカが携帯端末に送りつけてきた相棒の写真と文書データに目をやった。

 シスタートウコ————青柳桐子あおやぎとうこは秋と違い、幼い頃からシスター候補として育てられた、まさにエリート中のエリートである。

 両親と兄もそれぞれ優秀な神父とシスターで、彼女が弱冠十一歳で修道士叙任試験に合格したときは、周囲の期待もかなり大きかったらしい。

 だが、特に体術がとてつもなく優秀で悪魔祓いに重宝されるはずの彼女は、どうも性格に少し難があり、これまでペアを組んでうまくいった試しがない、と記録されている。

 そりゃあそうだろ、初日にいきなり失踪して俺に迷惑かけるヤツ。

 と口中で文句を散々に垂れるが、写真データを目に入れた途端に、ほんの少しだけ見方を変えた。

 写真のなかの少女はまだ秋と同じ歳か、少し上の印象だ。

 透き通った蜂蜜色の長い髪を、金細工の華奢な髪留めでふたつに結んでいる。

 真っ直ぐ伸びる前髪の下、長く色が薄い睫毛に縁取られたその、青みがかった美しい灰色の瞳は。

 しかしどことなく淋しそうで苦しそうに、深く濁って澱んでいる。

 どうしてだ?

 どうしてこんなにも、淋しい想いを、その細くて小さな双肩に抱えているのか。

 どうしてそんなに、息をするのが苦しそうなのか。

 家族がいて、きっと温かい食事にふかふかの布団が毎日のことであっただろう、秋よりずっと恵まれているはずの少女。

 幸せでは……ない?

「……ふん」

 ほんの少しだけ不服そうに鼻を鳴らし、携帯端末をスラックスのポケットにしまう。

 黒いブーツを不愉快に音高く鳴らして、秋は街の探索を仕方なしに再開させた。

 ————なんだよ、すっげー……気に食わない。

 写真のなかの彼女はまるで、世界中で自分だけが不幸、みたいな顔をしているように秋には感じられた。

 不幸な身の上の自分を、どうか哀れんでください、と。

 嘆き、悲しみ、恨んでる。

 冗談じゃない。

 冗談じゃない、ふざけるな。

 世界中で見れば、不幸なひとなんてそれこそ山ほどいる。

 まだ飢饉から脱却していない国や地域もある。

 そもそも資源が少なくて争う国がある。

 金や物に恵まれない家庭がある。

 怪我や病気、障がいを抱えたひとがいる。

 愛に飢えたひともいる。

 家族がいなくて感じる不幸。

 家族がいて感じる不幸。

 不幸の形はそれぞれ。だが、逆に。

 その要素を、他人から見たら不幸だと思う境遇を、決して単なる不幸だと思わないひとだっている。

 秋は自分の過去————ルカに救われた命を身勝手なよがりで捨てた母と、家族に見放された自分を振り返る。

 あの惨劇のあと。

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