第4話

 西暦二〇三二年、四月のことだ。

 暖かな春の陽射し。

 神奈川エリア第一高校の第一校舎に沿って植わっている木の陰から優しく漏れ、二年生の古びた教室を優しく照らしていた。

 木製の古い机の上に載った携帯端末の、妙に響く低いバイブレーションが、昼休みで騒がしい教室に鳴り響いた。

 しかしながら、その音を少しでも気に留める生徒は誰もいない。

 教室の隅で、誰とも関わらず朝から寝て腐っている生徒になど、誰も関わったりしない。

 あまつさえ彼は、常に左手首に古びたロザリオ————コンボスキニオンを巻いていて、クラスでも飛び抜けて『妙ちきりんな奴』だ。

 教師も彼の授業態度にはもう匙を投げていて、最低限の出席とプリントの提出と、テストに名前さえ書いてくれればいいとまで言われている。

 それをいいことに少年は授業中も机に伏せてひたすら寝て、存分に英気を養っている。

 一分くらい鳴り続けている携帯端末に、少年はようやく手を伸ばした。

「……あい。黒澤秋はただいまお昼寝中でありますゆえ、一時間後にかけ直してください以上おやすみ」

 と相手が誰かも確かめずに手早く終話ボタンをタップし、寝直そうと考えていたのだが。

「なにが昼寝だ、このクソ坊主」

 ぼこっと、軽く頭を小突かれたので頭を上げる。

 相手は長身で体格のいい、一見して粗暴だが、どこか温かみとユーモアのある雰囲気の男だ。

 その雰囲気に似合わず、男は黒づくめの清潔そうな修道着を身にまとっている。

 だがそれも、口に咥えた煙草で全部台無しだ。

 厚みのある逞しい胸元に提げられたコンボスキニオンも、なんだか陳腐に光っている気がするほど。

 総合すると、絵に描いたような『ヤブ神父』。

 実際その通りだと、だからせめて咥え煙草くらいはやめれば、と秋は本人を目の前にしていつも言っているのだが。

「なんだよルカ、来てんならいちいち電話なんかすんなよ」

 秋は男に向かって、少しだけ生意気そうに意見した。

 秋に気安く名を呼ばれた男は、彼の不遜な態度自体はいつも通りだとして気に留めないものの、その意見に対しては熱く反発する。

「探しながら電話したんだよ!」

 それから男は横目で、周囲の様子を観察した。

 秋の周りには、生徒は誰ひとり近づこうとしない。

 それどころか遠巻きにして、いまも神父の格好をしたルカと話していることに興味を示しているものの、どうもいい噂はしていないようだ。

 ちらちらコソコソしているが、無遠慮で不躾に送られる視線たちが、明らかにそう言っている。

 保護者としては、この環境はまったくいたたまれないと、ルカは小さく嘆息した。

「ったく、華の高校生が。いつまでもオトモダチ作らないで、教室の隅っこで寝てるんじゃねーよ」

 秋が他人との関わりを避けて、こころを閉ざす原因も理由も過去も、ルカは全部知っている。彼の気持ちが安定しているなら、別にこのままでもいいと、一時期は考えていた。

 だが、それでも。

 彼には年相応の人付き合いをして、いつもルカに見せるような砕けた表情を見せてやれと、保護者として思う。

 いつまでもルカがそばにいてやれるわけではない。

 だからいつか彼には、こころの支えになる存在が必要になる。

 そんなルカの親心も、だがしかしいまの秋には届いてくれない。

「……うるせーな」

 この件を引っ張り出すと、秋はいつも決まって不機嫌になる。

 たぶん本人もよくわかっている。

 このままでいいわけがない。

 だけど人と関わりをもち、その人を好きになり、突然の別れが訪れてしまったら……。

 また、真っ暗闇だったあの頃に戻ってしまうのかと、考えなくもない。

「ま、その件は置いといて」

 と、ルカは携帯灰皿に煙草をくしゃりと落としながら、新しい煙草の箱を胸ポケットから取り出す。

 秋の気持ちを鑑みて、いまは話題を元に戻して、先に進むことにした。

「先日は修道士叙任試験の合格おめでとう、黒澤秋『下級輔祭』。これから君には通称修道士として、悪魔祓いを任せるわけだが」

「なんかその口調、めちゃくちゃ気持ち悪いな」

 秋が修道士叙任試験を通ったことで、仕事上は上司と部下の関係となった。

 公私ともにもっとというか、かなり砕けた性格であることは自認している。

 なので彼にも今後のために、ルカが上司であることを自覚させようと『上司らしく』してみたのだが……。

 失敗だったようだ。

 随分な感想を受けて若干傷つきはしたが、いまは重要な話の最中である。

 仄かな胸の痛みは咳払いで誤魔化して我慢して、ルカは煙草を咥え直して続けた。

「それに当たって、パートナーのシスターが決まった」

 その瞬間、秋はルカの予想通りに不機嫌な表情を浮かべて俯いた。唇も合わせて、鋭く尖っている。

「……相棒なんて、いらんって言ったろ」

「修道士が悪魔を祓うのに、シスターがいないと絶対に不可能だってのは、そのおがくずが詰まった脳に充分叩き込んだろバカタレ」

 試験前に筆記試験の勉強をみてやって、口が酸っぱくなるほど説明したはずだ。

 だがこれもルカが危惧していた通り、秋は試験の終了と同時に綺麗さっぱり忘れ去ったのだろう。

『戦うための知識以外はいらん。俺は完璧な頭脳派なんだ。とにかくシュパーン!とカッコよく悪魔を祓う術を教えろ』と馬鹿が偉そうにせがんできたあの日を、ルカは決して忘れない。

 くそう、秋にも理解できる講義内容を考えに四苦八苦して、白髪が増えたあの苦労を返しやがれ!

 ……と叫びだしたいところを、またしても咳払いで誤魔化した。

「で、だ。そのとお前が、これから会う予定だったんだが……」

 ルカは携帯端末になにか連絡がないかとチェックするものの、望んでいる相手からは一向に来ていないようだ。

「なんかあったの?」

 言い淀むルカの様子に、ただならぬ予感を覚えた秋も、上体を起こして耳を傾ける。

「その娘と、今朝から連絡がつかないんだ。一人暮らしだからな、なんかあったのかもしれんとアパートにも行ってみたんだが……」

 そう言いながら、ルカは携帯端末を耳に当てる。

 その話題のシスターに電話をしているのだろうが、やはり持ち主には繋がらないらしい。

「まだ、連絡がつかない?」

 答えの代わりに、ルカは携帯端末の終話ボタンを指先でタップした。

「というわけでお前はこれから、その娘を探して、教会支部まで連れて来てもらいたい。これが、修道士として最初の任務だ」

「はぁ⁉︎ ざっけんな!」

 ガタン、と。

 秋が勢いよく立ち上がるものだから、椅子が膝裏に引っかかって倒れ、盛大に音を響かせる。

 遠巻きにしてコソコソと様子を伺っていた生徒たちだけではなく、無関心な輩の注目も集めてしまったようだ。

 いまや教室中の視線が、秋とルカに集中している。

「なんで音信不通の責任感なさそうなヤツなんかと組まされて、挙句にいきなり面倒見てやんなきゃなんないんだよ!」

 しかし秋は怒りでここが学校の教室だということを忘れて、いつもよりずっと大きな声でがなり始めた。

 男子にしてはやや白めの肌も、いまは強い怒りで紅色に染まっていた。闇夜を映したように黒く光る瞳も、わずかに血走っている。

「もうパートナーとかいいし、んな女とっととクビにしちまえよ!」

 怒り狂って唾棄する秋に対して、しかしルカはいつもの飄々とした態度を控えることはない。むしろこんな公衆の面前で取り乱す秋、久しぶりに見たなぁとか、場違いな関心を抱いた。

 ぼりぼりと頭を掻きながら煙草の煙を吐き出しながら、ルカはどううまく言いくるめようか考えている。

「そうは言ってもなぁ。いまから選定し直すとなると、時間が」

「だから! そもそもペアってのが! やだっつってんの‼︎」

 だんっ! と今度こそ強い訴えを示すべく、秋は語気を一層のこと強めて両の拳で机を殴りつけた。

 その瞬間。

 神の天啓というのはこのことかと思うくらいの名案、いい文句がルカの脳裏にぴーんと浮かんだ。秋の反応を想像すると楽しみで、人知れず口の端でにやっと笑い、早速それを口にする。

「ほう。じゃあ試験の合格も、取り消してもらわにゃなぁ」

「っ⁉︎」

 わざとらしく、大袈裟で、もっともらしく。

 その場限りにしては、いかにも筋の通った口説き文句。

「パートナーの選定は教皇が直々にお決めになる、いわば修道士にとって最初の勅命だ。それを突っぱねるとなると……おや、教皇に刃向かうということだなぁ。やはり秋には無理だったか。わかった、俺がいまから教皇とお会いして、お前の合格を取り消してもら」

「わかったよ‼︎ 探すよ!」

 焦りの色を隠せない秋を見て、『やはりまだまだ手のかかる子供だな』などと若干の喜びを感じて、ルカはにやにやと笑みを浮かべた。

 実際は、遠からず真実のような、ちょっと大袈裟なような。

 教皇はものすごく忙しくて、ルカでも滅多に面会できないお方だ。

「彼女の名は、シスタートウコ。特徴は」

 携帯端末を操作して、秋の端末に彼女の写真付きデータを転送する。

 その際にデータ参照し、とある一行がほんの少し心に引っかかったものの、いまは無視することにした。

 ふたりが相棒となり、この業界にい続ける限り……いずれは立ちはだかる問題だ。そのときは————

 いや、ルカが出張って手助けするべきじゃない。

 秋だって、いつまでも子供じゃないんだ。

 ふたりの問題は、ふたりが立ち向かうべきこと。だから、ルカはただ、大丈夫だって信じる。

「お前好みのボンキュッボンで、小柄なウルトラ可愛い女の子だ。よかったな!」

「うるせーよセクハラエロジジィ!」

 ぐっと力強く親指を突き立てて、突き抜けて爽快感すら感じるほどにいやらしい笑みを向けるルカに、秋は照れの一喝。

 そういえば。

 前に秘蔵のアダルティな本を見つけられた時のことを、秋は邂逅した。

 目の前で問答無用に中身をチェックされた挙句に散々冷やかされて、大層恥ずかしい思いをしたと、いまでもほんのり頬が熱くなる。

『ヒュー! お前もいっちょ前にこんなもん読むようになったんだなー! ヒューヒューこのエロ坊主! ヒューヒューヒューヒュー!』

『ヒューヒューうるせーよクソジジィ!』

『ヒュー! 雑誌のこのヨレ具合だと、お前このおっぱいおっきいツインテールの娘が好きなんだな? ヒャー秋くんのスケベ変態エッチマン! ……しかしおっぱいおっきいな、けしからん』

『……だろ?』

 最後には和解し、以降は家の中では開放感に溢れて、その手の雑誌を隠すことがなくなったのは、言うまでもない。

 いまでは友人同士のように貸し借りまでしているということも、言わずもがな。

「そんじゃ頑張れよ、秋。なんかあったら連絡しろ」

 頭にぽんと載せられた手のひらは、昔の記憶通りに逞しくも優しい感触。

 こういうときばかり、ルカのことをまるで父親のように頼もしく強く感じてしまう。

 ざわついた教室を颯爽と立ち去り、端末にかかった仕事の電話を応対する、その背を見送った。

 大人の男の余裕、というやつか。

 普段はヘラヘラしていて、ダメ親父って印象なのに。

 いざってときは頼りになって、こちらの弱さも甘さもなにもかも、優しく包み込んでくれる器の大きさ。

 ————俺もいつか、あんな風に……。

 ルカから譲り受けたコンボスキニオンが巻かれている左拳が情熱とやる気に満ち溢れて、秋本人も気づかないほどに、ほんのりときつく結ばれる。

 ルカには絶対に言わないが、そんな熱く強い憧れも、いつのまにか芽生えていた。

「っ‼︎」

 ぱこん! と小気味よい音を立てて、何者かに後頭部を殴りつけられて面食らった。

 秋にこんなことをする人物は、この学校ではひとりしかいない。

 かなり渋い顔で振り向くと、やはりその心当たりの女子生徒が仁王立ちで、秋を睨みつけていた。

 女子にしては背が高い彼女は、秋とほとんど目線が変わらない。

「ちょっと秋、聞いてないわよ!」

 すらっと伸びた左腕を細い腰に当てて、右手には秋の頭部を殴ったと思われる丸めたノート。

 快活そうで人好きのする可憐な顔はいま、戸惑いと怒り、不安と好意が綯い交ぜの色味を帯びて赤く染まっていた。

「……なにが」

 殴られた頭をわざとらしくさすり、これまたわざとぶっきらぼうな声音で尋ねると、少女は待ってましたと言わんばかりにキャンキャンと吠え始めた。

「神父になったなんて、わたしはひとっ言も聞いてないって言ってんの!」

 健康的にさらさらした赤茶色のボブヘアが、彼女の怒りに合わせて大きく揺れる。

 めんどくさいなぁ、これから任務?に行かないといけないんだけど、といったわざとらしさ満載の気だるい雰囲気を醸し出しつつ、秋は彼女にしばし付き合う。

 そうしないとまたこの幼なじみ様は、秋が白状するまで彼の携帯端末にストーカーのごとく凄まじい数の着信履歴を残すだろう。

 面倒見がよくて姉御肌の少女————赤木沙也加あかぎさやかは、昔からいつも秋のことを心配しすぎる節がある。

 互いにひとりっ子で、昔から身長が高い四月生まれの沙也加は、成長が遅かった三月生まれの秋を弟のように扱ってきた。秋も沙也加を様々な面で頼りにすることが多く、もしかしたら本当のきょうだい以上に仲がいいかもしれない。

 楽しかったときも、嬉しかったときも、つらかったときも。

 秋のそばにはいつだって、沙也加がいてくれた。

 一緒に笑ってくれて、一緒に悔しがり、一緒に喜び、祝い。

 一緒に悲しんで、泣いてくれた。そばで支えて、一緒に生きてくれた。

 彼女がいてくれたから乗り越えられた出来事は、それこそ数え切れないほど、たくさんある。

 諸事情で何年か離れていた時期もあったが、沙也加は変わらず家族のように、秋の心配をしてくれていた。

 だが。

「だってお前に言ったら、絶対うるさく反対するじゃん」

 秋の不遜で面倒そうな物言いに、沙也加はいまにも泣きだしそうな、大きな瞳が潤んだ表情で必死に訴えかける。

「そりゃあそうに決まってんでしょ! だって秋、アンタは」

「沙也加」

 黒く渦巻いた気持ちを押し込めたように、いつもより低い声で彼女の名を呼ぶ。

 沙也加のその先の言葉を、秋は聴きたくない。

 思い出したくない過去、忘れてしまいたい感情、消え去りたい感覚。

 父に愛されたかった。母にもう一度、抱きしめてもらいたかった。そう叫ぶのは、あの地獄の日に閉じ込めてきた幼い自分。

 最後に知ることができた両親からの愛は、幼かった秋にとっては手足を縛りつける呪いでしかなかった。

 幸せだった『あの頃』みたいに、また愛されたかった。

 でも。

 もう『あの頃』は戻ってこない。永遠に失った幸せ。

 腕に脚に、こころに絡みつく、『あの頃』という罪深き呪い。

 弱かった、両親を救えなかったあの頃の自分を、愛を知ったときの切なさを、思い出したくない。

 誰かに愛されなくてもいい。

 誰かのこころにいなくていい。

 誰かのこころを、知りたくない。

 もう一度、別れが来るというのなら、最初から出逢わなければよかった。

 沙也加にも触れて欲しくないあの頃の弱い自分は、思い出は、何重にも鍵をかけて深い海に棄ててしまいたい。

「ご、ごめ……」

 いつも気丈な沙也加だが、今度こそは本当に泣いてしまいそうだ。

 先ほどからすでに潤んでいた瞳から、じわじわと熱い雫がこみ上げてくる。

 気持ちと同調して頭も重く垂れ下がり、真っ直ぐな前髪で顔が見えなくなった。それでも肩が震えていて、必死に泣かないように我慢しているとわかる。

「幼なじみだからって、あんまうるさくすんなよ。それから学校では話しかけんな。ブスが感染る」

 密かな自省と謝罪を込めて、秋はいつもの調子を演じて、深く俯いている沙也加の額を軽い強さで小突いた。

 驚いた沙也加の肩が、一瞬前とは違う意味合いで震えた。小突かれた額を手のひらで押さえて、驚愕と悪口への怒りで声をあげる。

「ぶっ……⁉︎ なっ、な……っ」

「あばよブス。あぁ、あとで今日のプリント見せてくれ」

 まだ昼休み中で、午後の授業が残っているにもかかわらず、手早く教室を出る準備を終わらせた。

 颯爽と教室を出る秋の背中に、沙也加が思い切り叫んだ。

「あっ……秋のバカ‼︎神父なんて、さっさとクビになっちゃえ!!!!」

 沙也加の墳叫を声援と捉えたかのように、秋は親指を突き立てて振り回した。

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