第2話

 西暦は二〇二〇年をとうに過ぎた。

 開催を予定されていた東京オリンピックは、とある大量猟奇殺人事件により、無期限の延期と決定されてから、久しくある。日本では平成が終わり、新しい元号にも馴染み始めた頃に、二十一世紀始まって以来の大規模な世界恐慌が襲い掛かった。

 その世界恐慌の影響もあって世界的な飢饉が数度起こり、人口も生きている都市も半減しつつある。

 少しでも残された人類と資源を守るべく、日本はその活動領域を縮小させ、おおよそ十のエリアに都市と人類を分割させた。

 しかし日本国の、技術国家としての意地と底力を見せつけるように、とある名も知らぬ零細企業が、新しい機械人形技術と先進的なAIプログラムを発表。

 それによって機械文明は再び目ざましい成長を遂げ、世界中の人びとの暮らしには『ドルチェ』と呼ばれる人間そっくりの機械人形が根づいていた。

 しかしその一方で、少々時代錯誤と思われがちな悪魔というもの達が、空想の存在ではなく、本当にいるのだと。

 あの日の小さな少年————十七歳となった黒澤秋は、嫌というほど現実を知っている。

 季節は春と夏をひと息に飛び越えて、もう秋だ。

 過ごしやすい気候となり、生徒たちの制服も冬服に切り替わっている。

 かさかさと枯れ葉が秋風に舞う、穏やかな午後のなか————

 世に生きるひとのものとは思えない、耳をつんざくような悲鳴が神奈川県の第一高校、その第二校舎に谺響した。

 文化祭の準備が進められて、そこかしこに生徒たちの活気が込められた道具が散らばる、その校舎。

 教師も含めた一般の生徒たちは残らず全員がとうに避難し、この第二校舎だけは現在、封鎖されている。

 たぶん外では警備用の『機械人形ドルチェ』が先遣され、辺り一帯に一般人が入り込まないか見張っていることだろう。

 聴いているほうが気が狂うような悲鳴をあげている女子生徒は、やはり理性があるとは思えない様子で教室をすさまじく荒らしている。

 机をひっくり返したことでこぼれ落ちるノートや教科書、椅子を投げ、それらが黒板を乱暴に打つ。

 たぶん、襲えるひとを捜しているのだろう。

 だが残念ながらいまこの校舎にいる常人は、秋ただひとりである。

「んぁぁぁぁぁ……っ! あのクソ女っ、早く来いっつーの!」

 その様子を第一高校の黒ずくめな制服姿で、秋は口惜しげに物陰から見ていた。

 左手首にはくすんだ金の十字架と聖母マリアが刻まれた『不思議のメダイ』を編み込んだ、一見してロザリオのようなコンボスキニオンが巻かれている。

 右手に持った携帯端末の画面を素早くタップして、メール画面やらSNSの通知欄やらを忙しく確認するが、望んでいる相手からの連絡はない。

 まさか。と嫌な予感を思い至り、すぐさまツイッタのアカウントも確かめると……。

『ゲーセンなうwwww これから『新美少女対戦αプラス』の実況始めますね〜ヨロ(`・ω・´)スク!』

 というURL付きの投稿のあとに、いつものゲーム筐体の前にいる彼女が写った画像が添付されていた。その表情は、やはり天使のような笑顔だ。

「っざけんな‼︎ ゲームやってる場合かよ⁉︎」

 苛々としながら仕方なしに、いまもっとも連絡がつきそうな、ツイッタのダイレクトメッセージを秒刻みで送ってみる。

 しかし彼女は副業であるゲームの実況プレイ動画の撮影に興じていて、メッセージの確認を怠っているようだ。

 普段なら送って十秒で返事を寄越すくせに、と口中で悪態を吐く。

 その、悪魔に取り憑かれた女生徒は教室を荒らし、やがてそれに飽きたように出て行こうとしていた。

 秋がほっとしたのも、ほんの束の間のこと。

 かたん、と。

 教室に木を打ち合う音が響いた。

 なんの音かと訝しみ辺りを見渡すと、どうやら秋が盾にしていた教卓が彼の体重を受けて、正面を向いている机にぶつかったらしい。

 その音で、女生徒は秋の存在に気づいてしまったようだ。

 下品に舌を出し、涎を垂らして近づいてくるその様は、やはり人間とは言い難い。

 突然訪れた命の危機に、秋は喉を鳴らした。

 彼女がいなくては、秋だってただの男子高校生だ。人間の枠を超えてしまった眼前の少女には、とてもじゃないが勝てないだろう。

「やばいやばいやばいやばい……! 早く来てくれください神様仏様お釈迦様、桐子とうこ様‼︎」

 じりじりと距離を詰められていくなかで、相棒の名を半ば叫ぶように呼んだその瞬間。

 教室の古臭い木の引き戸が何者かによって乱暴に蹴り倒されて、派手にほこりを巻き起こす。

「まったく……オチオチ仕事もできやしないじゃないですか」

 という深い嘆息とともに、待ち人はようやく現れた。

 彼女はこの学校の生徒ではないので、いつものいろいろ際どいデザインをした黒一色のシスター服を身にまとっている。

 胸元にコンボスキニオンを提げているから、かろうじて修道女らしく見えなくはない。

 重い引き戸を蹴り倒した直後で、片脚を上げている格好なので、艶かしい太腿がほとんど露わになっていた。

 その蠱惑的な太腿をなるべく直視しないように気を配りつつ、秋は相棒————桐子にその先を促す。

「お前の本業はこっちだよっ‼︎ いいからっ、早くっ!」

 そう急かしつつ、彼は自分の首元に締めたグレンチェックのネクタイに手を伸ばす。

 シュルッと解くと、まだ皺や寄れのない新しいネクタイ。それを首元に垂らしたまま、今度はワインレッド色のワイシャツのボタンを外し、色も厚みも平均より薄めの平たい胸を露わにした。

 その胸には痛々しく包帯が巻かれていたが、桐子は遠慮なしに剥ぎ取る。

 秋の無数に走る傷跡が生々しい素肌に、桐子は桜色の唇を吸い寄せた。

 毎度のことながら、彼女の吐息が胸に当たることで妙な声が漏れそうになるが、ひどく怒られるのでぐっと息を止める。

 桐子は熟した林檎のように赤い舌で徒らに秋の胸を舐め、普通のヒトにはないはずの尖った牙を当てた。

 ぷつりと、案外と薄い表皮を突き抜けて、新鮮な深赤の血が水で溶いた絵の具のように滲み、拡がる。

 今度こそは本番とばかりに思い切り深く穿ち、肉を抉り、その奥に秘める美しい『罪人』の心臓を喰らった。

「主よ。我らの原罪を、どうかお許しください」

 詠唱は教典の第一章、その第一文で必ず始まり、そして締めくくるのが悪魔祓いの鉄則である。

 秋が痛みに顔を歪めて食いしばる歯の隙間から呟いたことで、その心臓は神聖な白い光を強く放ち始めた。

 神に心臓を捧げ、そのお力をほんの少し分け与えていただくことで、神父というものは初めて悪魔と戦える。

 逆説的に言えば、人間というものに初めから不思議な力があるというのは、完全なるフィクションの世界だ。

 人間は神にすべてを与えられて、初めてその地に立てる。だから神には常に感謝せよ。傲りは罪だ、調子に乗るな。

 やや乱暴な物言いではあるものの、それが教典の長ったらしい概要であると、秋は記憶している。

 まったく胡散臭くて馬鹿らしい話だぜ、と見習いとはいえ神父らしからぬ意見を吐き出しては、保護者の鉄拳を食らっていたあの幼い頃が懐かしい。いまもまったく同じ意見なのだが、さすがに口に漏らすのはやめた。

 神が与えたもうた聖なるお力は、シスターの牙から神父の心臓に宿される。その心臓は尊き神器となり、悪魔に取り憑かれたその迷いし魂を救うのだ。

 心臓の血が勢いよく逆流し、右腕に熱が集中しているのを感じた。

 集まった熱い血液が指先からじわりと滲み、やがて雫となって滴る。

 血だらけの秋の右手に、心臓のものと同じ純白の光が灯り、激しい明滅を繰り返して徐々に形作られていく。

 やがて光は静かに終息し、細身な秋の体格にはやや不向きな大きめの、不思議と丸みを帯びたハンドガンが姿を現した。

 銀でできたその重いハンドガンを、器用に手中で回し納め、照準を真っ直ぐに女生徒の胸へ向ける。

 しかしまさに悪魔のごとき身体能力で、女生徒は教室を疾風の勢いで飛ぶ。

「神父のクソ野郎が! この私をぶち殺すってかっ、ヒャハハっ! やってみろよ、テメェの粗チンぶち切ってやるっ‼︎」

 などと、とてもじゃないが少女のものとは思えないガサついた声音で、耳にするのも憚れるような口汚い言葉を使って秋を罵る。

 しかしその間も秋はあくまで冷静に、とうの昔に暗記させられた教典の一部を詠唱。空いていた左手にはいつのまにか、古びたロザリオ————正式名称『コンボスキニオン』が掲げられている。

 教典の詠唱により、わずかにだが女生徒————悪魔の動きが鈍りだした。

「んなぁぁぁぁぁぁぁぁっっっクソっ!!!!!! うるっせぇんだよクソ神父‼︎ その口縫いつけて引き千切ってやるっっっ!!!!!!!」

 悪魔は教典の詠唱によって苛々しているようで、気持ちに余裕が消えていく。喚きながら単調な移動と素人臭い拳で秋に襲いかかるが、それらはすべて桐子に防がれた。

 悪魔はひとまず諦めて次に、桐子へ目標を変える。

「クソ邪魔だぞビッチシスターがっっっ‼︎ そのデケー乳引き千切って、クソ神父の粗チンと仲良く並べんぞ⁉︎」

 女生徒の細い脚が愚直にも、隙がある桐子の腹に飛ぶ。

 しかしそれは計算された罠。桐子の身体がふわりと軽く宙に舞い、悪魔の攻撃は虚しく空を切る。

 桐子の長く黒いスカートが、まるで可憐な羽のように優しく広がる。よく晴れて日が差した教室に、漆黒の天使が舞い降りたような、美しく静謐な聖画に似ている気がした。

 しかし彼女の口からは、それにまったくそぐわない言葉が淡々と繰り出される。

「ビッチではありません。私は清廉潔白の処女ですので」

「んな訂正はいらんわ!」

 思わず詠唱をやめてツッコミにはしってしまったが、あいにくと悪魔は桐子との戦闘で四苦八苦と忙しくしているようだ。

 ほっとひと息ついて、自分の目の限界まで悪魔の動向を追いかける。

 悪魔は白兵戦ではまず勝てそうにない桐子より、単体では明らかに弱そうな秋に狙いを変えたいらしい。

 秋が詠唱している教典の効果で弱まる一方だが、悪魔は意地で立ち向かう。

 だが桐子の脚による猛攻撃が、悪魔の狙いを決して許さない。

 一方的なリンチにも思えるほど、状況は明らかだ。

 しかし悪魔は憑依した人間の心臓を神器で討たれない限りは、その命は永遠ともいえる時間のなかで生きている。

 早いところ秋が女生徒の心臓を狙い撃たなくては、この騒動は収まらない。

 しかしこの悪魔、体術は素人同然だがとにかく速い。

 桐子のリンチから抜け出しては、しょっちゅう秋にちょっかいをかけに来る。正直うざったい。

「それから」

 と、まだあの話題を続けるのかと若干うんざりしつつも、秋はなんだかんだで体を張って時間を稼いでくれている桐子に内心で感謝。

 その労力に報いるべく、どうにか悪魔の心臓を穿つタイミングを見計らっている。

 の、だが。

 桐子は悪魔に見事な蹴りを浴びせつつ、鉄壁のごとく堅牢な表情で己の訴えを、やはり淡々とした声でつらつらと述べる。

「彼の粗チンと並べられるのは不愉快です。できればプチっとプリンと並べていただきたい」

「おっぱいプリンプリンなだけにな! ……って俺はプリンに負けたのか」

 先ほどまで手の中でだけは自在に振り回していたはずのハンドガンが、まるで漬物石のように厳しく右腕へのしかかっている気がした。

 これは神による罰なのか。

 ちょっと調子に乗ってセクハラオヤジ発言しちゃったから、我が敬愛する神がお怒りなのだろうか。

 ごめんなさい申し訳ありませんお許しくださいどうか慈悲を。

 思いつく限り最大限の謝辞を、普段から蔑ろにしている神へ送りつけるものの、やはりというか、現代においては聖女とされるかの百合の乙女みたいに神のお声というものは聴こえない。

 しかしあまつさえ自身をプリンと比較され、とどめで敗北という結果は、やはり地味に落ち込むというものだ。

 軽快なステップを踏み、悪魔に容赦ない攻撃を浴びせるあいだも、桐子は決して秋への口撃を緩めない。

「粗チンはいいんですか、認めるんですか」

「うるっせぇぞ桐子! お口チャック!」

 おっといけない、こんな遣り取りで無為な時間を過ごしている場合ではない。

 教会直属の神父として無垢な弱き子羊を救うのが、秋の使命である。

 そうですよね、我が敬愛する、もっとも尊(たっと)ぶべき神よ。

 などと、じつは本当にいるのか疑っている神へのご機嫌取りをさっさと終えると、どこまでだっけ?と思い出しつつ、教典の詠唱を再開。

「ヤブ神父」

 とかぽそっと桐子の声が聴こえた気がするが、きっと気のせいだろうと、教典の第二章から詠唱することに決めた。

 悪魔祓いは長い間、教典を詠唱して力を弱めつつの対話で悪魔の《真名しんめい》を探り当てることが、神器での攻撃以外でもっとも有効であるとされてきた。

 《真名》を当てることで、その邪悪なる魂の一端に触れ、壊す。

 しかしそれは同時に、こちらの魂も危険に晒す行為に等しい。

「うぁぁぁぁぁぁっ……く、そが……っ‼︎」

 悪魔がこれまで以上に、苦しみのたうち回る。胃の中のものを激しく吐き出し、身体を捩っていた。

 第二章も半ばまで行き着いたところで、ようやっと本来の効果が発揮されてきたようだ。

「————いい加減、その《真名》を現してもらおうか」

 吐き出すものがなくなり、苦しそうに胃液だけ撒き散らす悪魔のそばに行き、秋はコンボスキニオンを掲げる。

 一緒に編まれた『不思議のメダイ』のそのなかで、聖母マリアが優美な微笑みを浮かべていた。

 悪魔は人間のこころの隙間を突いて、誘い、取り憑く。

 彼ら悪魔はそれぞれに、深い悲しみと情念を抱えている。その情念と人間の感情がリンクしたそのとき、悪魔は甘い魂に誘われるのだ。

 きっと悪魔にとって、彼女に取り憑きやすい環境が整っていたはずだ。

 悪魔の《真名》から推測し、彼女のこころに触れて耳を傾けるのが、神父の仕事。

 それは悲しみの深淵にいる悪魔にも、手を差し伸べること。

 荒れた床に伏せる悪魔に、秋はハンドガンの銃口ではなく掌を伸ばした。

「お前の苦しみを、俺に教えてくれないか?」

 空気が張り詰めていたこの場において、たおやかな響きの声。

 秋があまりにも真っ直ぐに見つめるので、悪魔も思わず視線を吸い寄せられた。

 秋のその瞳は北極の夜空のように澄んでいて、海のように深く、穏やかに凪いでいる。

 怒りや憎しみ、悲しみ。喜びに楽しみ。

 おおよそ人間らしい感情を豊かに持ちながら、しかしその瞳に映るものは、神をも凌駕する大きな慈愛。

 とてもさきほどの、弱々しいばかりの年頃な少年とは思えない。

 しかしそれが、不思議と反抗心や怒りなどという感情を抱かせないのは、なぜだろう。

「くっ……ふ、ハハ……」

 おかしな少年だ、と。

 悪魔は自然、柔らかな笑みをこぼした。

 こんなにも温かい気持ちは、いったいいつ振りだろうか。

 誰もが悪魔を忌み嫌うなかにあって、しかしこの少年だけは。

 たしかに悪魔を憎む気持ちはあるようだ。悔しくて、殺してやりたいといった感情が見え隠れしている節がある。だが。

 憎みきれない? 同情か?

 違う。

 彼自身にも、わからない。判然としていない、はっきりとした形のない、色味も水彩絵の具をあれこれ混ぜたような。

 混沌として矛盾している、まさに感情の渦。

 太陽のように明け透けで白黒はっきりした人間など、この世にいるものか。

 実に、人間らしいといえば、この混沌(カオス)よ。悪魔としてはとても居心地がよく、だが時に見え隠れする光が邪魔だ。

 鳶色の瞳はなおも真っ直ぐと、悪魔の視線を射抜いている。

 それはある意味において、心臓を撃ち抜かれるよりも感じる強い衝撃だ。

 深く暗い夜のなかを、月明かりもなく彷徨い歩いていたような。そんな押し寄せる不安に満ち満ちていた日々。

 それを照らすのは、きっと彼なのだ。

 口の端でこみ上げる笑いを浮かべ、悪魔は少年を信じることに決めた。

「いいだろう、クソ神父。我が《真名》は……モレク」

 悪魔————モレクが名乗った、その瞬間。

 女生徒の感情と記憶の奔流が秋の主観では眼前に、劇場にあるフルスクリーンのように映し出された。

 まるでモレクの《真名》が鍵だったかのように、女生徒の固く閉ざされていたこころの扉は開かれた。

 家のリビングでくつろいでいた、まさにそのときだった。

 突然押しかけてきた数人の警官に、突きつけられた残酷な現実。

 最初に突然訪れたのは、戸惑い。

 突きつけられた事実が、現実が、彼女のこころを激しく強く揺さぶる。

 不安……というより、彼女の主観では『怒り』が近い。

 取り乱して慟哭し、母親に当たり散らして突き飛ばしてしまった記憶が、女生徒には色濃く残っているようだ。

 自室にこもり、怒りはやがて悲しみに、母への想いに変わりゆく。

 母は悪くない。母が一番つらかったはず。

 ごめんね。ごめんね。

 ごめんなさい。

「……そうか」

 女生徒の感情と記憶の渦から戻ってきたとき、秋の瞼は熱を持っていた。

 音もなく彼の頬を伝う透明な雫が、しかし熱が冷めることはなく、はたりはたりと床に舞い散る。

「くく、なぜお前が泣くんだ、クソ神父」

 皮肉めいた曲がった笑みで問いかけた悪魔には、だがいまであれば少年の答えは理解できる気がしていた。

 その悪魔自身の瞳も、わずかに濡れている。

 悪魔の涙も、少年となにも変わったところはない。

 宝石のように透き通っていて、ひとに触れたみたいに柔らかく温かい雫。

 拭う間もなく溢れ流れる涙は、秋とモレク、お互いのこころを干したての毛布のように優しく包む。

「俺にもわからない。でも————止まらないんだ」

 彼女のこころの奥は、悲しみと怒り、そして両親への深い愛で満ちていた。

 女生徒の父は突然の交通事故で、この世を去ったばかりだった。

 愛する家族の突然の訃報に、驚かないのも無理はない。

 加害者の男はいま流行りの電子ドラックを嗜み、正常な判断ができないと、警察から説明を受けた。

 だから処罰する前に病院へ入院させ、容体を安定させてから裁判となる。

 ふざけるな、と。

 叫びだしたい。

 向こうが悪いのは明らかなのだから、容態の回復など待たずにさっさと処刑してもらいたい。

 いったい父はなぜ、死ななくてはならなかったのか。

 なぜ私たちが、こんなつらい想いをしなくてはならないのか。

 加害者の男はいまもなお、病院の温かいベッドで眠り、きちんと食事をしている。

 私たちは突然に愛する父を喪い、途方に暮れている。

 不条理、不合理、不平等。

 許せない。許せない。許せない。

 ゆるせない、ユルセナイ。

 その泥沼のように重く強い怨念にモレクは引き寄せられ、惹き付けられたのだろう。

 しかし。

「お前が彼女の身体でひとを傷つけることは……許しちゃいけないことだ」

 悪魔の淋しそうに揺れる肩に、秋はそっと手をかけた。

 その温かみを感じたいのか、悪魔は縋るように少年の手に自分の手を重ねる。

 じわり、じわりと伝わる熱。

 こんなにも、こんなにも温かくて優しいのか。

 悪魔が優しく、しかし切なく微笑んだ。

「……そうだな」

 先ほどとはまったく雰囲気の違う、穏やかな声音でたったひと言呟き。

 瞼を静かに閉じて、悪魔モレクは“そのとき”をじっと待つ。

 秋は重い銀のハンドガン————《ロザリオ》を右手に構え、女生徒の胸に銃口を向けた。

 左手に吊るされたコンボスキニオンが太陽の光を一身に受け、まるで神がここで見守っているかのごとく、優しく清く輝いている。

 嗚呼、まるで————

 もう一度だけ空を仰いでみると、そのなんと青いことか。

 小鳥たちが囀り、木々は穏やかな風に揺られて耳触りのいい音を奏で、陽光が自然と肌を温める。

 雲の行方は誰も知らず、しかしそのなんと自由なことよ。

 鬱など吹き飛ぶほどに広いその空。吸いこまれそうで、両手を広げて飛び込みたくなるほどに、清く美しい。

 嗚呼、そう、まるで彼は。

 この空すべてのようだと、モレクは誰にも聴こえないほどの大きさで漏らした。

 飛び込んでも包み込んでくれる、その広さと優しさと温かさ、穏やかさに、救われた気がするんだ。


「『神の御名において、汝モレクの惑いし魂を救わん』」


 わずかに甲高い銃声が、荒れた校舎のなかに反響した。

 銀色の銃弾が、モレクの心臓を穿つ。

 ゆっくりと倒れる彼女の身体を、秋がしっかり受け止めた。

 少しずつ消えゆく意識のなかで、モレクはとても晴れやかな笑顔を秋に見せる。

「あ……りが、と……」

 モレクの感謝の言葉を受け取ったかのようのに、秋は傷だらけのコンボスキニオンを胸に抱きしめた。

 右手の神器は本日の役目を果たし、さらさらと粒子の細かい灰となって風に流れていく。

「主よ。我らの原罪を、どうかお許しください」

 空はいつも広く澄み渡り、魂迷いし子羊を見守っている。

 神はいつだって、あなたのすぐそばにいるのです。

 迷いし子羊の、内なるこころの声に耳を傾け、その魂を救うこと。

 それが神父とシスターに神より与えられた、永久なる使命————悪魔祓いである。

 ————時は二〇三三年十月。

 かつての技術大国日本は様々な現象と事件からその面積と人口を大きく減らし、機械とともに信仰が人々の中心となった。

 この世界は神様に見守られていて、しかし人間の心の弱りにつけ込んで、悪魔というものは地獄からやって来る。

 機械が台頭した世の中にあって、なおも変わらずアナログなものといえば、人間の心そのものであろう。

 ヒトと悪魔の声に耳を傾け、その両方を救うことができる神父は————おそらく、黒澤秋中級輔祭のほかにいない。

 戦闘能力が低い下級の修道士でありながら、しかし彼の実力を高く評価する者は多い。

 大空のように澄み渡り、海のように深い眼差しで、彼はどれほどの苦しみを目の当たりにしてきたのだろうか。


『その武器は神より賜りし宝物……神器ロザリオ

 《ロザリオ》は使用者の命————心臓を喰らうことで、その能力を十全に発揮し、迷いし魂を神のもとへ送り届ける。

 汝その身を、心臓を神に捧げ、神のためにその生命を賭して戦え。』

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