ロザリオ・サイン

雨霧パレット

第1話

 おびただしい血の飛沫と、鉄錆を手で触れたときのような、むわっと鼻にこびりつく不快な臭い。

 まるで人のものとは思えない、男と女の激しく狂った雄叫び。まさに阿鼻叫喚の煉獄。

 建築段階では優しい一家団欒のスペースであるはずだった広いリビングはいま、それら狂乱の宴で重く厚く覆われている。

 シンプルな趣味のいいシャンデリアの電球など、とっくの昔に寿命を迎えて、部屋を照らす物は外にある街灯と月くらい。だからなのか、この家はとても暗くて寒い気がする。

 端々には着回すだけ回して洗濯もしてない汚れと解れだらけの服に、何年も溜め込んだ生活ゴミと厚く積もった埃、害虫の死骸が散らばっている。

 蜘蛛の巣がそこら中にかかっていることなどは、瑣末なこととでも思えるほどに、この家は荒れ放題だった。

 あたり一面にいくつもの割れた酒瓶が転がって、撒菱のように静寂を保って侵入者を拒んでいた。

 併設されている立派な対面式キッチンは食べかすと油分が付いたまま乾いた皿と鍋、箸やゴミが片付ける者を黙って待っているようだ。

 しかしそのキッチンに立てる者は、この家にはもういない。

 カーテンは掛けてあるとは到底思えないほど、ボロボロに引き裂かれてレールにぶら下がっていた。

 母の手の中で猛り、踊り狂う包丁は父の血肉で染め上げられ、細かな刃こぼれを起こしている。

 ときおり血に混じって刃の欠片が飛散し、外の街灯に照らされてまるで新雪みたいにキラキラと輝いていた。

 かつて、すぐ近くのホームセンターまで一家揃って買いに行った穏やかな緑のカーペットは、包丁の破片と血で溢れている。たぶん踏めば、カーペットの繊維が吸いきれない血で靴下が濡れそぼり、散らばった破片でチクチクするだろう。

 抵抗する父の手の親指が第一関節から斬り落とされて宙を舞い、ポトリと虚しく、恐怖の震えすら忘れた幼い少年のすぐ側に落ちた。

 もうその当時の感触は思い出せないが、いまよりもっと幼い頃にはよく、この無骨なぶ厚い手に頭をくしゃくしゃに撫でられていた記憶がある。

 撫でてもらったのは、もう遠い過去のようなもの。

 事業に失敗してからは酒に浸って、暴れて、一人息子の名を呼ぶことすらしなくなった。

 まるでそう————悪魔が取り憑いたみたいに、父は変わってしまったのだ。

 手元に落ちた指の切れ端に、おそるおそる触れた。

 こんなにも無惨な光景なのに、まだあの頃にはあった父の温かさと優しさ、思いやりが残っている気がして、縋るように手繰り寄せる。

 父と母が惨忍に殺しあう様など、どこの子どもが見たがるというのか。

 両親が仲良く、子どもの自分にも優しい。

 ともに愛し、愛される温かい触れあい。

 それこそが誰しもが憧れる、理想的な家族像である。

 黒澤家はいまから三年ほど前までは、その理想像を地で行く豊かな家庭だった。

 しかし父の事業が失敗してからは、両親共に少しずつこころを冒されて、とうとう狂ってしまった。

 少年の面倒を見るどころではなくなり、父と母はいつも喧嘩していた。

 きっと父も母も、自分のことは愛してくれていないのだと————急に、淋しさがこみ上げる。

 少年の全身は不安と恐怖で震えあがり、立ち上がれそうにない。声も、誰かに助けを求めようにも、しゃくりあげることしかできなかった。

 母の、もはや骨そのものみたいな痩せ細った指が、床に伏せた父の脇腹を、その中身を抉って掻き出す。

 形のいい爪が無惨にも折れて、父の肉に深々と突き刺さる。

 父の腹は脂肪が少ない桃色の肉が醜く抉れて、骨と内臓が見え隠れしていた。

 それは一瞬のことだった。

 パァン!

 と、少年の知識では学校の運動会で先生が使う、スターターピストルのような耳をつんざく音が部屋中に響いた。

 父の肉を掻き出していた母の手には、四ミリほどの風穴が空いている。

「主よ。我らの原罪を、どうかお許しください」

 という日本語の文言から始まり、突入してきた黒づくめの男は、少年には解らない言語をつらつらと発音する。

 男の左手には眩く輝くパールとオニキスで編まれたロザリオ————コンボスキニオンを、右手には大きめのハンドガンが握られていて、そこから細い煙がゆらゆらと揺らめいていた。

 すでに部屋を支配していた血臭のほかに、つんとした火薬臭さが交ざる。

 男の滑らかな発音の文言に、母はもちろん重傷の父も、苦しみだして床に激しくのたうち回っている。

 なおも男は容赦なく文言を続け、締めくくりに母の胸にハンドガンの銃口を当てる。

 その様はまるで、ほんの目の前に敬愛する神がいて、供物を捧げるがごとき慈愛に満ちた色を帯びていた。

 銀色の銃身が、同じく銀でできた小さな銃弾を発射し、母の胸を穿つ。

 ほんの数ミリの穴であるはずだが、撃たれた母は身体を大きく捩り、くの字に曲げて静まった。

 男が母を殺したのかと思った少年は驚きで息を呑んだが、やがてなにかを吐き出したような母の呻き声が聴こえた瞬間、ほっと一息ついた。

「ルカ。父親はこと切れているようです」

 いつの間にか。

 男の服と意匠が同じ黒いロングスカートの女がいて、父の首にある大動脈の様子を測っていたようだ。

 冷淡とも冷静とも受けとれる耳障りのいいアルトボイスで、女は男に簡潔な報告をした。

「ふむ……まぁ、仕方ないわな。その怪我じゃあ、どちらにしろ長くもたないっしょ」

 女の報告に男はわずかに無精髭の生えた顎をぼそぼそとさすり、人が死んだという事実をさらりと受け入れた。こういった事態は日常茶飯事、とでもいうのだろうか。

 男の手に納まっていたはずのハンドガンは、不思議なことに粒子が滑らかな灰と化して消えゆくところだ。

 男は少年の父の亡骸が横たわるすぐ側に片膝をつき、左手に残ったコンボスキニオンを額に当て、しばし祈りを捧げていた。

 こうして改めて見ると、男の怪しげな黒服も女のスカートも、どうやら聖職者のものらしい。

 男に倣ってコンボスキニオンを両手で握って、楚々とした清廉そうな表情で黙祷した女は、再び男との会話を続行させる。

「子供はどうする気なんですか? まさか、また」

 ————ご自分で引き取る気ですか。教会は迷える子羊の手助けをする場ですが、孤児院ではありませんよ。

 と溜まっていた鬱憤とともにさんざん厳しく非難しようとしたのだが、男がそれをあくまでマイペースに遮った。

「確か、東北エリアに唯一の親類がいるって報告だよな?」

 男のやや頓狂な質問に、女はむっとしたまま答える。

「……えぇ、父親の姉夫婦がいると」

「じゃあ俺の出る幕はないでしょうね……っと。そうだそうだ」

 男は思い出して振り向き、少年に近づいた。

黒澤くろさわ……あきくん」

 あらかじめ調査していた少年の名を、男は努めて優しく呼ぶ。

 数年ぶりに名を呼ばれた少年は、しかし男を警戒して、千切れた父の指に縋るべく強く握りしめる。同時に母を守ろうとじりじりと後退あとじさるが、男が無意識に通せんぼしていて、とても近づけそうにない。

 このひと達は、敵? 味方?

 迷いのある瞳だ。

 男も少年のなかにある複雑な感情に聡く気づいて、粗暴で子供受けしない雰囲気だと自覚している顔をなるべく温かい笑みにする。

「大丈夫、もう心配ないよ。オジサンたちは、君を助けに来たんだ」

 少年はしばし、その男の引き攣った怪しい笑顔を、無遠慮に観察し続ける。

 男はなるべく少年の目線に合わせようと、大きな体躯で目一杯に屈んだ。その接近に、少年の痩せた肩が警戒で弾む。

 それでも男は、少年とどうにか会話しようと食いさがる。

 男からはわずかに鼻腔につんとくる、煙草のヤニの匂いがした。しかしそれは、いまは不思議と不快には思わない。

「秋くん。オジサンにはね、ご両親の本当の……こころの声が聴こえたんだ」

「こころの、声……?」

 少年が小さく、耳覚えのない言葉を聴いた時のように、不思議そうにおうむ返した。

 普段であれば『こころの声』なんて、そんな胡散臭い話はもう八歳になった少年なら信じないだろう。

 だけどなぜだろうか。

 いまだけは、この男の話を素直に受け入れられるような気がする。いや……

「お父さんも、お母さんも。ふたりとも、秋くんの心配ばかりだったよ。君はとても愛されているね」

 父と母の愛を、少年が信じていたかったのだ。

 やがて彼の人柄をわずかながら理解したのだろう。男が伸ばした手に、少年は縋った。

 彼の人差し指にちょこんと、少年の痩せ細った指が乗せられる。

 男の体温が、少年のこころをゆっくりと溶かすように。

 じわりじわりと、伝わっていく。

「よく、頑張ったな」

 父のように大きな手で、くしゃりと頭を撫でられた。この感触がとてもくすぐったくて気持ちいいのを、少年はようやっと思い出した。

 顔がくしゃくしゃになり、やがて……。

 少年の大きな夜空のような瞳に、星屑のような涙が溢れでる。


 これが少年————黒澤秋の、すべての始まりの日だった。

 流れ星に何度祈ろうと、あの日はもう絶対に帰ってこない。

 どうしようもなく小さくて弱い少年の僕には、郷愁も後悔もあるけれど、いくら泣こうが喚こうが帰れないのだ。

 月明かりが照らす道をひたすらに進み、その果てになにが待ち受けているのか。

 神様は教えちゃくれないから、弱虫な僕はただ、這ってでも前に進むだけ。

 どんなに暗い夜だって、いつかは明けるといまだけは信じている。

 きっとこの先には、僕が憧れた『僕』がいるんだと。

 癒えない傷を抱きしめて、なにもかもが不確かな道を歩んでいくんだ。

『罪人』が心臓を捧げて、その罪を贖おうと足掻くように。

 人びとが《ロザリオ》を掲げて、全知全能の神とやらに必死になって祈るように。

 茨であろうと沼であろうと、絶望の海だって、泳ぎきるんだ。


 ————誰かに愛される、そのために。

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