第10話
みなきの絶叫をきっかけとして、鈍麻していた真尋の頭が急回転を始める。
見慣れたショッピングモール、打ちっぱなしがいつもに増して冷たさを感じるコンクリート立体駐車場。騒ぎの衝撃を受けてあちらこちらにひび割れが生じ、モール内からは相変わらず老若男女の断末魔が響いてきている。
まるで異世界、あるいはゲームの中のような光景にひとつ、真尋にとって切実な【
見覚えのある古びたジャケットと、洒落たジーンズを身につけた死体。
力の抜けた手から虚しく零れ落ちたのは、血塗れになった車のキー。
こつん、と真尋の足先がなにかを蹴った。
慎司の身体にあるはずの首が、少し離れた真尋のすぐ足元に落ちている。同時にみなきの悲鳴も契機となって、鈍っていた真尋の頭が回転を再開させる。
慎司の身体にあるはずの首は、少し離れた真尋のすぐ足元に落ちていた。もちろん、あの小鬼の仕業だ。切り口は粗く、骨も肉も皮も『切れた』というよりは『千切れた』と表現した方が正しい痛々しさ。慎司の黒い瞳は瞳孔を全開にして輝きを失い、曇ったビー玉のように静寂を極めている。
彼が死に際になにを思っていたのかは、十七年の時を共にしてきた弟の真尋ですら想像できない。しかし愛する女性を守りきった、という安堵感のようなものを纏わせているような穏やかさだった。
真尋の心臓は早鐘のように煩く響く。口内が異様に渇き、呼吸も乱れる。
ここから先、一人じゃ動けそうにないみなきを見捨てて、たった独りで無事に家へ帰るべきだ――――頭のなかで、誰かがそう叫んでいた。
その声に、真尋も当然のように賛同している。自分は慎司なようにあの化け物へ勇敢に立ち向かう力も勇気もない。そうするべきだったんだ。
しかし。
嘆きの絶叫を漏らしたみなきは、そのまま意識を失う。
「みなき姉ちゃんっ!」
糸が切れたように倒れる彼女の肢体を吸い寄せられるように真尋が支え、コンクリートへの激突を防いだ。しかしみなきの手足はぐったりと力が抜けていて、意識はしばらく戻りそうにない。
意識のない大人の身体を抱える真尋、身軽な上に化け物のような速さの小鬼。どちらに分があるかは、一目瞭然だった。
案の定、小鬼は「余計な手間をかけさせやがって」と血反吐とともに悪態を吐きながら今度こそと、真尋とみなきへ一直線。
真尋に与えられた時間は、ほんの数秒。
慎司を
意識のない大人の女性を抱えるだけの筋力と、抱えて走るだけの体力は、真尋にはない。
重みが、真尋の右腕にずしりと伸し掛る。それは【生命】〈決断〉か。
こんなとき、
――――
もはや先ほどの警告の声も、限られた時間さえも、真尋の頭から抹消されている。
己の無力さ、不甲斐なさ。
――――
などと、これほど強く願った日はない。
ずっと見てきて、追いかけてきたあの背中。彼ほどの、否それ以上の強さがあれば、きっと。
なんだっていい。悪魔でも鬼でも、なにに祈ったって構わない。
強烈な【力】が欲しい、と。
「!? なっ……」
ゆらり、と。
首のない死体が揺れ動き、みなきを抱える真尋と、小鬼の間に立ちはだかった。かくしゃくとした動作ではないものの、それは明らかに真尋とみなきの盾になろうとする仕草そのもの。
「兄貴……だよ、な……?」
死人に口なし。
死体が答えることはないものの、よろめく首なしは小鬼と戦わんと拳を構える。だが、そこに。
「たかが
いつの間にやら女の子がふたり、真尋たちのすぐ隣に立っていた。まるで猫のような気配のなさと足音のなさだ。
この辺や真尋の自宅付近では見たことのないデザインだが、ふたりとも学生服を纏っている。
なんの変哲もない、黒と赤のセーラー服。
しかし彼女たちは揃って、両手に刀を握っていた。鞘に収まったそれらは、骨董品やなんかに詳しくない真尋でもかなりの業物だとわかるほどだ。
物々しいというよりは、なんだか華奢で宝石のような美しさすら感じられる。
いや、それよりなにより。
――――『
どこかで聞き覚えがあったような、なかったような。真尋が中途半端な記憶に首をひねりながら探っているうちに、少女たちの登場で小鬼の興奮は増したようだ。
「なんだおめェら!?
獲物を横取りするなとか、これだからおめェらとは気が合わねぇとか、キーキー喚いて暴れている小鬼を。
「五月蝿い」
艶やかで長い黒髪の少女は刀を抜くことなく、しかしそのひと言が刃かのように。
小鬼の矮小な身体は真っ二つに斬られ、二度と喚くことは叶わなくなった。
「厄介、だわ」
件の少女が、眉根を寄せて呟いた。明らかに慎司を見て、だ。
もう一人の少女が、彼女の言質を咎めるように「雫」と呼びつけた。艶やかな金髪が利発そうで、もし相対したら押し負けそうだ、とぼんやり真尋は呆れ顔を浮かべた。
その厳しさに溢れた声と、対するマイペースな声はふたりの関係性を示しているようだ、と真尋はぼんやり観察している。
どうも彼の予想は大方当たっているようで、
「わかってる」
呟いた黒髪の乙女は腰に据えた愛刀を握り、小鬼を一刀両断。慎司があれだけ苦戦していた相手を、ほんのコンマ零秒で、だ。そして次に目を向けたのは――――
「お、おいっ……ソイツを、俺の兄貴をどうする気だよ!?」
彼女が刃を向けるのは、首のない動く死体――――慎司だ。
慎司は敵を探して右往左往している。首がないのだから、視力というものもないのかもしれない。
そんな彼を少し放置して、金髪の少女が真尋を一瞥して舌打ちを交えた。
「あぁ、キミが
言うが早いか。金髪の少女の言葉を、黒髪の少女が無理矢理の形で引き継いだ。
「哀れな憐れな――――
やがて首なしの死体は、糸が切れた人形のように頽れる。今度こそ生命が尽きたのか、
彼女たちのいう『
もっと言うならあの恐ろしい小鬼の存在やら今日のこの騒ぎから含めなくてはならないが、どうもその総ての鍵を握るのは――――この場においては、ふたりの少女らしい。
安全な場所の確保にしろ、状況の理解にしろ……戦い方にしろ。
いまはどこへ向かうのかわからない彼女たちの後を追った方が、賢明なのかもしれない。
そう判断したのも、つかの間。
彼女たちはあろうことか慎司の死体を、それぞれ腰に据えた刀で
「なにする気だよ!?」
これには真尋も黙っていられず、彼女たちの行為を止めに入った。
すると。
「あなた、自殺志願者?」
黒髪の少女の刀が触れられてもいないのに鈍く光り、必要とあらば真尋ごと慎司を貫くという、強い意志を示していた。金髪の少女も同様に、真尋への殺意を隠す気はなく手許は愛刀へ。
ごく一般のなかでも一際気の弱い部類だと自覚のある真尋は、しかしそれでも精いっぱいの勇気を振り絞った。
「だ……だってソイツは、俺の兄貴だし……っ!」
「それで?」
真尋の言わんとしている、至極真っ当な人間としての意見を、金髪の少女は芯まで言わせることなく一刀両断。
それどころかあからさまに嘆息し、
「言っておくけど、それは放っておくと誰彼構わず襲いかかるわよ。キミがまさに殺されかけた
指差す方角には、黒っぽい鮮血と内臓らしきものを撒き散らした元小鬼が斃れている。斬り倒されたばかりだからか、身体的ショックでまだ痙攣を起こしていた。
真っ二つになった小鬼のおぞましい顔にぞっとしながらも、「で、でもっ!」と真尋はたどたどしい反論を始めようとする。しかしその反論を予期したのであろうか、金髪の少女は吐き捨てた。
「
彼女の言葉の意味。
その総てを理解できる知識は真尋にはない。しかし兄の生命が終わったということだけは――――理解が及んだ。
かといってそれで、彼女たちに兄の遺体の尊厳までをも殺させるなどという結末を……納得できるはずもない。
神妙な面持ちの真尋に対して、金髪の少女が彼女なりに冗談めかして、
「それとも最愛のお兄様にぐっちゃぐちゃに食い殺される趣味をお持ちのヒト? その
「そういうわけじゃ……っ!」
「じゃあ下手に口出ししないで」
先ほどとは違って、黒髪の乙女は愛刀を抜いていた。
すらりと細長い刀身は、まるで氷そのもので作られたような透明感と繊細さが器用に同居している。
「
黒髪の乙女は氷の刀身に左の人差し指をすらりと這わせ、皮膚のごく薄い表面が裂けた。そうして少女自身の血液を刀に吸わせると、透明だった刀身は鞘の方から剣先にかけて紅色に染まり、硬度すらも増したように見える。
「なんの力もないあなたに、なにができるの?」
刀身と同じ紅色に染まった瞳で、黒髪の乙女は問う。
「……っ!」
――――なんの力もない俺に……この場でできることは。
ない。
慎司のように運動神経がよくて、頭が切れるわけではない。
見知らぬ少女たちのように武器があって、小鬼たちに対する知識があるわけでもない。
首なし死体になった慎司を救う術を、持っているわけでもない。
真尋にできることは、彼女たちの
真尋は間抜けな負け犬のように、この場から離脱するしかないのだ。
だが。
「あら」
金髪の少女が不思議そうに声を上げた。
首がなくなっても動き続ける慎司の身体は、やはり真尋とみなきを求めているようだった。なくなった目と鼻と耳の代わりに、腕をあちらこちらへ伸ばしている。
「このコ、やっぱりまだ意識があるのかしら?」
真尋は、みなきは無事なのか……居場所を確認するような仕草。
それは生前の姿となんら変わりのない、優しい慎司そのものだった。
「兄貴……っ!」
もういいよ、俺たちは兄貴のお陰で救われたんだよ――――。
その声はもう、彼に届かない。笑顔を見ることも、見せることも、冗談を言い合うこともできない。
みなきとの結婚式だって――――叶わなくなってしまったのだから。
しかしそれでも、『高遠慎司』の意識はそこにあった。
〈人間〉の定義を『意識の有無』で決めるとしたら、彼は間違いなく未だ人間。
「だとしても――――彼を生かすことは罪です」
彼女の殺気に気圧されたのだろうか、駐車場のコンクリートがひび割れた。血液を吸った刀もまた、獲物を前に悦んでいるようだ。
間違いなく、このままでは慎司の命はない。
とうに首がない身体で動いているのがおかしな事態ではあるが、その状態の回復という見込みすら消されることだろう。
首を元に繋いで人間としての生活に戻る方法も無いからこそ、彼女たちは慎司を殺そうとしている。
――――だったら。
「待ってくれ」
慎司の心臓へ真っ直ぐ向かおうとした刃を、真尋のひと言が止めた。
どのくらいかはわからない沈黙が、この場を支配する。
そして。
「――――俺に、殺させてくれ」
罪を背負うことが怖いわけではない。
その罪と向き合うことこそに恐怖を感じ、そして背けることさえも恐れるのだ。
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