第8話 蛇の目の黒猫
ガタタンごととんと汽車は行く。行先も知らないまま。夕闇の虹はすっかり空に溶けて消えた。
母を探すと決意を表したナナヱの眼差しにタズトは息を飲んだ。夕日の逆光で陰るナナヱの瞳は青く輝いて見えた。三羽烏に生まれながらのぜんまいを差し出した時のように揺らぎない光を宿すナナヱに惹き付けられた。
ふっと、辺りが暗くなる。汽車がトンネルに入った。たちまち、石炭の煙にふたりは巻かれてしまった。
「げほげほべほっ!早く中に入ろ…ごほっ」とナナヱ。
「げっほ!そうだな…ごほっごほっ」とタズト。
だが、その車両の鉄扉は開かない。
「え?これ普通の汽車だよね?げっほげっほ」
むせこむナナヱを差し置いて、袖で鼻と口を塞いだタズトは冷静に懐からピンを取り出した。
「貨物車両なんだろ」
タズトは鍵穴にピンを差し込むとおもむろに解錠作業に入った。
「ちょ、それって泥棒がやってる事じゃ…」
「説教するなら勝手にどうぞ。ここで一生煙に巻かれてろ」
窘められてナナヱは首を竦めた。長く続くトンネルでますます黒煙がナナヱ達を巻き込む。
「うう…タズ…早く…」
「うるせえ、黙れ」
ピンを3本使ってようやく鍵が開き、ふたりは車両の中に入って急いで扉を閉める。
「ぶはぁーっ!苦しかっ…ば!?」
中に入るなりナナヱの口を、タズトがいきなり塞ぐ。
「うぶっ…いきなり何っ…」
「何か、いる」
張り詰めた顔になるタズト。中は青いランプだけで薄暗く、列車の振動に揺れていた。揺れる灯火の下に何かがいた。ナナヱは目をこらす。
車両の奥に黒猫が警戒心むき出しにその毛を逆立たせ、うずくまっていた。普通の黒猫ではない。ふたりより巨大で、左目から白い蛇が這い出ている黒猫だった。右目は痛みの色、赤い瞳。
列車が走る音よりも低く唸る大きな黒猫は、侵入者のを睨みつけ、子どもの頭を貫通するほどに長い牙を向けて威嚇する。白い蛇も赤い目で舌を覗かせる。
ナナヱは悲鳴があがりそうになるのを必死に堪えた。声を出せば、その牙で、隠された爪で、首が飛ぶ。確実に殺される。この蛇の目の猛獣はもう自分達を射すくめている。狩られるのはこちらだ。
膠着状態が続く内にナナヱは黒猫が目と牙はこちらに向いているものの、こちらに体を向けていないことに気づいた。もしも本当に狩るつもりなら、飛びかかる体勢に入るはずだった。体を壁に押し付けるようにうずくまり、逆立って太くなった長いしっぽを体に巻き付けるその様は、まるで脅えている子猫…さらに、この大きな黒猫の体が、小刻みに、かく、かく、きし、きし、と震えている。ねじが切れる寸前だ。見ればねじ穴はしっぽの付け根だが、引っ掻いたような傷にまみれ、ねじ穴の周辺が禿げ、血に滲んでいた。
「ねじ穴が…」
「ぜんまいを奪われてるんだ…」タズトが呟いた「あいつ、ねじ切れしないように自分でねじ穴を傷つけているんだ」
「そんな…」
ナナヱは歯の隙間から悲しみをこぼすようにささやく。
「野生動物のぜんまいを奪う手口は密猟者がよくやる手口だ。ねじ切れしたら永遠に動かないからな。オレ達はどうやらアコギな列車に乗ってしまったみたいだな…」
皮肉に顔を歪ませるタズトの横を通り、ナナヱは黒猫の前に出る。
「おい、ナナヱ…!?」
ナナヱは黒猫の目、黒猫から生えた蛇の目を見つめる。どちらも互いを見据え、白蛇と黒猫は睨みつけ、ナナヱはただただ逸らさず見つめた。
「痛いよね…」ナナヱは黒猫に話しかけ、さらに1歩歩み寄る。
黒猫は体を壁に寄せ、耳を下げ、フシャーッと牙を向く。来るな、というように。
「ひどいことされたよね…ごめんね…」
また1歩近づくナナヱに、黒猫はシャッと腕を振るった。薄暗い闇に白い爪が光を描いてナナヱの前髪をかすった。タズトが咄嗟にナナヱの腕を引いたために、前髪をかすっただけですんだが、完全に相手は近づくもの全てに敵愾心を抱いていた。
「バカ、下がれよ」
「待って。もう少し…」
「死ぬぞ…?」
「…いいから、もう少し待ってて」
静かにだが強くナナヱはタズトの手を解いた。三羽烏の前にぜんまいを差し出した時と同じだとタズトはそれ以上は口出しも手出しもしなかった。
ナナヱは黒猫の威嚇に怯える恐怖心を抑えつけながら、子どもをなだめすかすように優しく話しかけた。距離を保ち、静かに、目を離さず。
「ずっと痛かったよね…大丈夫だよ。私達、何もしないから…あなたを傷つけないから…」
根気よく、忍耐強く、ナナヱは話しかけていく。
車内の壁や床は、黒猫がねじ穴を傷つけるために打ち付け暴れたのか血で滲み、凄まじい力で鉄の板が凹んでいる。ぜんまいを奪われねじ切れ寸前で限界状態の危険な猛獣を前に、ナナヱは動じないよう黒猫の敵愾心に対して忍耐で戦った。
「大丈夫だよ…私達があなたのぜんまいを取り返すから…だから、怖がらなくていいんだよ…」
ナナヱの穏やかで優しい呼びかけは夜深く続いていく。時間の知らせは、天井と壁の境目を沿った細長い窓に映る闇が教えてくれる。時折、鉄道信号機の赤や緑、黄色の光が通り過ぎていく。
やがてナナヱに悪意がないと感じたのか、黒猫の唸り声が聞こえなくなっていった。
白い蛇の頭が鎌首を下げて、少しだけナナヱに近づく。
ナナヱは手の甲を上に、蛇の前にそっと差し出した。
蛇の舌が届くか届かないかの距離で、猫がのそりと腰をあげた。
黒猫も、ナナヱの手より大きな鼻を恐る恐る近づけ、ふんふんと嗅ぎ、ぺろりとざらつく舌で少し舐めた。
「わ…」
思わず弾みかける喜びを抑えてナナヱは指先を伸ばして黒猫の顎に寄せると、黒猫はそのまま顎をナナヱの手に押し付けた。それだけでもう倒れそうなくらいの力がかかったが、ナナヱは黒猫の顎を撫でた。汽車の音に負けないくらいの爆音で、ぐぉろろろろ、ぐぉろろろろろと喉が鳴る。猫も蛇もとろんと目を閉じる。
「落ち着いた?疲れたよね…眠ってていいよ…ちゃんと起こすから…」
ナナヱは両手で黒猫の喉を撫で、鼻筋を撫で、蛇も顎を撫でてやった。黒猫はすっかり張り詰めていた神経をゆるませて、そのままごろんと横に寝転び、ごろごろ喉を鳴らしながら眠った。蛇も後退しながら猫の左目の中にしまわれた。やがて、ねじが切れて呼吸が止まった。
ナナヱは巨大な黒猫の体をさすり続けた。見守っていたタズトはようやく、大きく息をついた。一難去ってまた一難だった。
「…すごいな、お前。こんな猛獣手懐けるなんて」
素直に言葉が出るタズト。
「手懐けてないよ。私達がここにいる事を許してくれただけ」ナナヱはさらりと言った。
「許す?」
「孤児院でもね、子ども達の多くは初めて出会った私達に怯えていたの。皆と同じねじで巻かれて目覚めたらまったく知らない人達に囲まれて、今日からここが家で、皆が家族だよって言っても、受け入れられなくて…怖がって、怯えて、何をするかわからない私達に時には傷つけて…でも1番傷ついてるのは、ぜんまいを失って家族を失ってひとりぼっちになったその子自身なの。だから、そのさみしさの中に私達がいる事を許してもらうことから始めるの。私達もひとりだけど、楽しくやっていこうってね…」
「…さみしいのは自分だけじゃない、ひとりじゃないってか。ご立派な綺麗事だな」
タズトの皮肉に、ナナヱは首を傾げた。
「うーん、ひとくくりにするとそれなんだけど…これが簡単じゃあないんだよね…さっきだって、タズトがいなかったら…って思うと…」
ナナヱを敵と見なした黒猫の爪の一閃にナナヱはゾッとした。
「…なんか、意外な事言うなあ、お前。いい子ちゃんで育ってきたわけじゃないんだな」
「本当にいい子だったら、私、300円盗まれるほどマヌケじゃなかったよ」
「確かにな」
「そこは否定してよーう」
ふてくされるナナヱにタズトは思わずくくくと笑った。
ねじが切れた黒猫はナナヱ達に寄り添うように寝転んでいたため、ふたりは黒猫の腹に背中を預けた。温かでもふもふの猫っ毛に埋もれるうちにふたりはいつの間にか眠りに落ちていった。
夜を、汽車はただ、ガタタン、ゴトトンと駆けていった。
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