第2話
人間は立ち入らないであろう山奥、木の葉をさくさく踏んで約一時間、やっとたどり着いた湖畔。あたりは妖精が陣取っているような静けさに、ぽつりとわたしは立ち止まった。鬱蒼と繁っていた木々や木の葉が一枚も落ちていない湖は大きな鏡のようで小さく身震いした。
何故わたしが一人でこんな所にいるのかというと、答えは簡単。迷子だ。いつも通り裏山で薬草を摘んだ帰り道。近道の森を抜けるはずがいつの間にか一時間歩いて湖に出た。いつもは気をつけて道を間違えないようにしていたのだが、どこかで気が抜けてしまったのだろうか。幻想的なこの風景に脳内が静かに揺れる。
ふと、何かの気配を感じた。小さい湖の向こうに何かがいる。近眼なわたしはよく見えなくて、目を細めてみるが小さな影しかわからなかった。あれは、ユニコーンだ。処女を好むという伝説の生き物。角は高値で売買されているという。こんな近くにいるとは、出会えるとは、と生き物好きなわたしは畏怖も感じつつ感動していた。己の世界に入っていたため、近づく気配は微塵も感じなかった。
「君は……誰だい?」
いつの間にか二メートル程離れた所に、ウェーブのかかった金糸の髪をサイドの耳の下で三つ編みにした美女が現れた。否、声色的に男性だろうか。浮世離れした容姿のその人は、こてん、と首を傾げてこちらの反応を待った。陽の光を反射して煌めく髪に思わず見とれそうになり、慌てて挨拶をした。
「す、すみません……あの、迷子です……」
恥ずかしくなってきて段々尻すぼみになる言葉にもその人はうんうんと頷いてくれた。伝わったのか伝わっていないのか、「とりあえずお茶でもしようか」と木々に囲まれた小屋を指さした。なんとも浮世離れした人だ。自分も夢を見ているようで、自然に頷いて、薄く微笑んだその人は「おいで」というように手招きした。
湖が見えるくらい近いのに文字通り木々に囲まれているので、印象といえば突然質素な小屋が出てきたイメージだ。かすかに甘い香りと、煙突から煙が出ていることから、誰かがいるのかもしれない。唐突な訪問に驚かれないだろうか。追い出される前に森からの出口を聞かないと。
「帰ったよ。ただいま」
「おかえりなさ……どちら様ですか?」
案の定の反応だ。
「迷子らしいよ」
「それは仕方ないですね。どうぞ、今パウンドケーキが焼きあがったんです。如何ですか?」
質素なキッチンから顔を出した少女が予想を遥かに超えたフレンドリーさでくらくらとするが、ひとまず勧められた椅子に座った。一見ただの切り株に見えるが、よく見ると計算されたかのようにピカピカでとても座りやすい。更に勧められたパウンドケーキを出されて、あわあわとフォークを受け取る。こういう時、どうすれば分からない。好意を向けられてもうまく返せない。長年暮らしたナナには言えることでも、ナナと離れたらお礼ひとつも言えないこのザマだ。
「お砂糖は三つでいいかい?」
びくりとした。この人、透視能力でも持っているんだろうか。
金糸の男性が手持ち無沙汰というようにミルクティーを入れはじめ、小屋にいた、肩まで伸ばしたキューティクルサラサラの少女はテーブルに出しっぱなしの食器類を片付けている。ふと、疑問というか、質問が浮かんで、ようやっと声を出した。
「あの……さっき湖の向こう側に何かがいたんです。もしかしてユニコーン……とかですかね……?」
半信半疑を装って聞いてみると予想をバカにしたような返答が帰ってきた。
「ああ、それ、僕だよ」
「この人ですね」
至極当たり前のようにコーヒーをすする青年(ユニコーン)と、今更何を、といった二人に唖然としてしまった。
「大丈夫。君の心はわかるよ。知られたくなかったら教えてね」
柔らかそうな金糸を揺らして青年は微笑んだ。読心術も心得ているのか。伝説の生き物はすごいな。と、もうひとつ疑問が生まれた。少女についてだ。わたしと同じか少し下くらいの歳の少女だ。ユニコーンと同居してるだなんて、酒場で話したら大盛り上がりだろう。なんてふわふわ考えてしまっていたら、
「それは駄目だね。そうしたら皆こぞってここに来てしまうじゃないか。僕は皆殺しなんてしたくないよ」
元来ユニコーンの気性は荒い。今はふわふわおっとりとしているが、皆殺し出来るくらいは強いのだろう。そういう青年に、少女は苦笑いをして、
「皆が来る前に森に仕掛けをして来ないようにしますよ」
それもやや物騒な気がするが。ぼんやり思いながらパウンドケーキをいただくと、口の中に広がる南瓜のねっとりとした甘さに、この少女、侮れないと思った。出されたミルクティーが飲みやすく冷めてきた頃、パウンドケーキに手を付け始めた青年がピクリと顔を上げた。少女が青年の名前らしき言葉を心配そうに言っても、警戒はとけない。やがて椅子から立ち上がると、「ちょっと出かけてくるね」と背中で微笑んで小屋を出ていった。少女と顔を合わせて、わたしはどうしたんだろうと思ったが、少女は顔を離して狭いリビングを器用に車椅子で移動してタンスをゴソゴソと漁り出した。
「汚れて帰ってきますから、あの人」
その通りだった。数十分後に帰ってきた青年は少し土にまみれ、至るところに血液がついていた。メイドのように少女がタオルを渡すと、
「大丈夫だよ、全部返り血だから」
笑えることじゃない。なのにわたしはほっとしてしまった。わたし達がお茶を飲んでいる間に失われた命があるというのに。
着替えセットを手にバスルームへ連行された青年を見送って、また椅子に座った。
「……いつもああなんですよ。縄張りに入る者には容赦がない」
少女が「お茶、おかわりいりますか?」と言い、思わず「はい」と答える。そこそこお腹いっぱいなんだけれども。
「でもあなたは攻撃しなかった。それどころかここに連れてきた。あなたが魔法使いだからでしょうね」
その瞳には羨望が確かに混ざっていた。この少女は魔法使いではない。となると、
「……私も魔法使いになりたかったなあ」
魔法使いは所謂ランダムで生まれる。そして長生きだ。少女と青年を見ていると、お互いがお互いを必要としているようだ。しかし、それはタイムリミット付きの幸福。青年は変わらないが、少女は変わっていく。いつまで一緒にいられるのか。それが少女にとっての唯一の絶望なのだろう。
朝、クルミ入りのパンを焼く。香り豊かなコーヒーを淹れて、同居人の起床を待つ。それが如何に幸せな事なのか、少女はわかっているようだった。
世の中には「人間が魔法使いになる呪い」があるという。もちろんデマだが。デマの癖して対価が大きい。何を失うか分からない。この少女も、手を出してやいないか心配になった。
「結果はありましたよ」
脳内を読まれたのかと、ドキリと心臓が跳ねた。
「あなたは……呪いを行ったんですか?」
あっけらかんと言われた言葉に、震える声で参戦する。
「もちろんです。何年も前に」
心配していたことが的中しすぎて内臓が死にそうだ。少女は続けて、
「効果はあったんですよ。少しだけですが、読心術が扱えられるようになりました」
どこか誇らしげに語る少女の目は人間の目じゃなかった。どこかで見たことがある。ああ、そうだ、学校で魔法の話をしている時の、魔法使いに憧れていた子の目だ。この世から離れて、魔法使いになればなんでも出来ると信じきっている目。わたしも幼い頃、ナナを見ているだけの時はそう思っていた。本当は、そんな完璧なものではないのに。
ナナも、魔法は完璧ではないと言っていた。信じきってはならないと。わたしはその意味がよくわからない。ただ、人間として生まれたからには、魔法使いとして生まれたからには、そのまま生きていくのが自然の摂理だと思う。夢は夢のままで。夢を追った結果、足を失った少女は未だに夢を見ているようだが、わたしには何も言えない。わたしも、願っているからだ。ナナとの日々を。
パウンドケーキとミルクティーを飲み干したあと、唐突にナナに会いたくなった。親しげな二人組に感化されたのだろうか。プチホームシックになっていると、バスルームから青年が出てきた。何故か口元に笑みを浮かべて。
「お迎えが来たみたいだよ」
少女がくるくると車椅子で玄関扉まで行った。同じくして、コンコンとノック音が聞こえた。
「お迎えですね」
「こんばんは。お迎えに上がりましたよ、シャーロット」
ナナだ。ナナはいつでも望む時に現れてくれる。お茶のお礼を言うために振り返ると少女は微笑んでいたが、青年はバスルームの扉の前から動かず、どこか引きつった顔で手を振ってくれた。やはり魔法使いとはいえ男性は嫌なのだろう。ナナが殺されなくて良かった。まぁナナなら負けることはないだろうけれど。
「お世話になりました」
「いいえ。あ、もし良かったらこれ受け取ってもらえますか?昨日作りすぎてしまって」
「……パウンドケーキ?」
「レモンケーキです。中にクリームチーズが入ってるので美味しいですよ」
にっこり、と笑んだ少女とは裏腹にだんだん眉間にシワが寄っていく青年。もう行かないとヤバそうだ。
「ありがたく頂戴いたします。それでは、失礼しますね」
ナナも感じ取ったのか、静かに扉を閉めた。扉を閉めると夜空の暗さに吃驚した。こんなに遅くなっていたのか。
「何か言うなら今のうちですよ」
「遅くなってごめんなさい」
心配したんですよ。と森の夜風がナナの長い前髪をほのかに揺らす。いつもはバレッタできちんと行儀よく纏まっている髪が少々崩れている。
「心配した?」
「当たり前でしょう」
少し、ほんの少しだけ叱るように言うナナだが、優しさが強くて少し嬉しくなってしまう。
大聖堂前の広場の件から、ナナは過保護になった。そこまでわたしにとってトラウマになっていると思っているのか、大聖堂で時空の歪みに入り込んだ事を心配しているのか、はたまた何かを隠しているのか。ひとまず、
「ナナはヒーローだね」
困った時には駆けつけてくれる、わたしのヒーロー。
「私が悪い人だったらどうするんです?」
声色は少しからかうような音だったが、如何せん顔が見えない。
「そうしたら、わたしも悪い人になる。もしくは、もう悪い人なのかもしれないし」
「ふふ。悪い人同士ですね」
古い車椅子と金糸が脳内にちらつく。愛とは、悪であるのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます