ナイトメア・ムーン

青木はじめ

第1話

 荘厳な大聖堂という立派な建築物を背に、結婚式が行われている。買い物袋を両手で持ち、ボーッと背後の華やかな音を聞いていると、ふとどこからか『シャーロット』と、知っているのか知らないのかわからない声がわたしの名を呼んだ。振り向くと見える、フラワーシャワーを浴びた新郎新婦はいかにも幸せそうで、花のティーンエイジャー真っ盛りなわたしは見とれてしまったが、次の瞬間ふとなんとなくひかれるように床を見た。少し離れた場所の新郎新婦を中心に、放射状にお洒落なマスキングテープを張り巡らしたようにそれは広がっていた。何の演出だろう。目を凝らして見ると等間隔に何かが書かれていた。筆記体の単語。名前だ。そう認識した瞬間、広場が生き物になった如く血が巡るように放射状に張り巡らされたテープが光を帯び、近くに立ち拍手をしていた女性の首が飛んだ。あちこちで悲鳴が生まれる。ぽろぽろと無機物のように次々と首が飛び、全身の血がひいて呆然と立ち尽くすわたしの視界に生首が映り込んできたところで、視界が闇におおわれた。

「さぁ、お祭りはおしまいですよ」

 

 この世界には魔法がある。同じように、呪いや祝福も。

「随分と派手で用意周到な呪いでしたね」

 養父であるこの男性はなんともアダルティで年齢不詳な魔法使いである。人間の家に魔法使いとして生まれてしまい、真冬の空の下捨てられたわたしを拾い育ててくれた人だ。噂では千年以上生きているのだとか。聞いてみても危うげな笑みを浮かべるだけで答えてはくれなかった。確実に千年は生きている。その滑らかで柔らかい声に、疑問をぶつける。

「どうして結婚式で呪いなんて?」

 昔からわたしは「どうして」「どうして」と好奇心を隠せない子だったらしく、今でも自分で考えて調べてもわからないことはすぐ養父に「どうして」とねだるように聞く。自覚はしていてもなかなか直らない。

「さて。しかし美しくはないですね」

 夕食後のワインを、ワイングラスを揺らして呟く姿はとても優雅で色っぽい。こんなお色気星人に育てられたのにどうして自分は「色気」の「い」もないんだろうかと先程までの疑問を吹き飛ばして、むむ、と頭を捻った。冷えたカフェオレが半分程入ったコップを軽く揺らしてみると、正面から小さくくすくすと笑い声が聞こえた。

「あなたには、呪いはまだ早いかもしれませんね」

 子供扱いのように言う台詞も、口元に笑みを浮かべた姿はとても恐ろしくて、深い安心を覚えた。

 残酷な光景を目にしたわたしは暫く動けず、自力で家まで帰った記憶がない。きっと、養父であるナナが連れて帰ってきてくれたのであろう。本当に、お祭りはもうおしまいだと吹き飛んだ人間の首。思い出すと喉まで込み上げるものがあり、無意識に喉に手を当てる。それを見たナナはカタンと小さく音を立てて椅子から立ち上がり、細長くしなやかな指でわたしを立ち上がらせ、

「もう寝なさい、シャーロット。疲れたでしょう」

 ナナは優しい魔法使いだ。名前ひとつ口にするだけで、甘いマシュマロを溶かしたようにあたたかい。

 そうやってわたしを寝室へと誘うナナを振り返ると、今度は母親のような笑みで、

「私は暫く起きていますから」

 と、優しくベッドへ促した。

 ぎし、とベッドが軋む。一人分の重さでは小さく鳴るだけだったが、まるでベッドに「おかえり」と言われているようで、思わず「ただいま」と呟いた。

 目を瞑ると浮かぶのは赤みを帯びた放射状のライン。この街では、呪いは刑罰にはならない。魔法使いと人間が半々で生きているこの世界はとても危うい。昼間の事件も朝になれば新聞に載るだろう。ナナがつけてくれたベッドサイドのランプを指を振って消す。魔法は学べば快適だ。だが、生きるには難しい。ナナは今は大聖堂のシンボルの大きな時計の技師をやっているが、昔は魔法を武器に警備をしていたらしい。人間から、魔法使いを守るために。明日になればまた、朝市で白い目に晒されながら買い物をすることになるだろう。脳内でまた、生首が転がる。不思議なくらいに冷静な自分だと思っていたが、やはりショッキングだったらしい。血と脂の臭い。戸惑い怯えた人々。鉄が充満したような広場にあちこちから聞こえる悲鳴。わたしは喉が張り付いたように声が出なかった。あの時ナナが目を塞いでいてくれなかったらと思うと、体がぶるりと震えた。

 暫く布団に入り深呼吸を繰り返していたが、全く眠れそうにないので一度起き上がろうと身を起こすとほのかに香る甘い香り。

「おや、やはり起きていましたか」

 控えめなノック音の後に入ってきたナナは淡いピンク地にチェック柄のストールを纏い、マグカップを持って薄暗い部屋へ入ってきた。いつもはバレッタで纏めている長い髪を横に流した姿はとても中性的だ。これまたお色気。開け放たれた扉からリビングの灯りが入ってきて少し眩しい。灯りとあたたかな匂い、ナナの緩くウェーブのかかった艶のある髪。そんな小さな存在に心底ほっとしてしまった。

「昼間は大変だったでしょう。もしや眠れないのでは、と思いましてね」

 気の利くナナはさぞモテていただろう。今はわたしを優先にしているため仕事以外の時間をわたしに費やしてくれているが、わたしと出会うまでは相当モテていたと彼の古い友人が言っていたのを思い出した。皆、ナナの事が大好きだと。

 指先で部屋の電気をつけると、サイドボードにマグカップを置いて、机の椅子をベッドに引き寄せぽすんと座った。

「少し、お話しましょうか」

 わたしもナナが大好きだ。

 

「おはようございます、シャーロット。これ、暖炉にくべてくれます?」

 未だぼんやりとする瞼を擦りながらリビングへ入ると、テーブルの椅子に腰掛けコーヒーを片手にナナがテーブルに珍しく無造作に置かれたものを指さした。新聞だ。目に入った瞬間、燃やせと言われた意味がわかった。

『魔法使いの呪い発動。魔法使いは隔離するべき』

 魔法使いとしてまだ十六年しか生きていない自分でも、ぐっと悔しさや悲しみがこみ上げてくる。気の遠くなるような時を生きてきたナナにとっては腸が煮えくり返るどころじゃないだろう。魔法は悪いものでは無いのに。呪いだって、最初は祝福から生まれたという。違う、と叫びたい。でも、力が足りない。魔法使いとして生まれたからには、力を磨き技を身に付けて『魔法使い』として生きていくしかない。わたしはまだまだ未熟な魔法使いだ。普段は家事をして、仕事から帰ってきたナナから魔法を学んでいる。人間から見ても、魔法使いから見てもまだ、子供だ。だから新聞を暖炉に放り込むくらいしか出来ない。ナナくらい長生きで強い魔法使いならば少しはこの世界を住みやすく出来るかもしれない。しかし、ナナは「少し不便な方がいい」と魔法はあまり使わないし、ガスや電気も使いすぎないようにしている。インターネットもあまり好きではないらしいが、顔が広いため情報で困ったことは無い。「不便」を愛する彼だが、なんだかんだ便利な生活を送っている。

 パチパチと新聞が爆ぜる音に芳醇なコーヒーの香りのハーモニーがやけに落ち着く。春先の朝はまだ寒いため、椅子をずずずと暖炉の前まで引きずり陣取ると、ナナがカップを置く音が後ろから聞こえてきた。

「シャーロット、砂糖は?」

「三つ」

 コーヒーは飲めないが、ナナ特製ミルクたっぷりカフェオレは大好きだ。起床後と就寝前はホットミルクかカフェオレと決めている。少し気分屋なわたしのオーダーにもナナはにこやかに「承知しました」と用意してくれる。先程ナナは「不便」を愛すると言ったが、料理等をする時は魔法を使う時が多い。時計の点検をする際魔法で透視をするため、腕を鈍らせないようにとかなんとか言っていたが、ようは面倒臭いから慣れている魔法を使っているのだとわたしは思う。

 くるくると螺旋を描くようにコーヒーとミルクがカップに入っていく。最後に細かなお砂糖がサラサラと光を帯びながらカップにするする溶けて、はい、完成。椅子をテーブルまで戻して、目の前に置かれたカップを手に取る。

「ありがとう、ナナ。……あっっち」

「熱いから気を付けなさいといつも言っているでしょう……」

 呆れながらも眼差しは優しく、やっぱりこの人モテるな、と思いながらカップに口をつけると刺激的な熱さにカップを落としそうになり、とうとう「こら」と注意されてしまった。魔法で冷ませばよかった。

 昨晩仕込んでおいたフレンチトーストを食べて、短い食休みをしてからナナは仕事へ向かった。

「ちゃんと戸締りするんですよ、出かけなくても。知らぬ訪問には出なくていいですからね。あと、火の扱いも……」

 ナナは少々過保護だ。出かける度に同じことを説明書のように言う。そんなナナも好きだが、わたしも思春期。時々複雑な気分になる。

「わかってるよナナ。ナナこそ気をつけて、いってらっしゃい」

「……ええ。いってきます」

 遠目に見える大聖堂へ向かうすらりとした背中を見送ると、自由の時間だ。普段は主に魔法のドリル(ナナお手製)をちまちまこなしている。時々薬草をブレンドしてフレーバーティーを作ったりしているが、出来栄えは聞かないでほしい。ナナは毎度おいしいと微笑んでくれるけれど、結果はわかっている。慰めなんて要らない。さて、今日は何をしようか。

「あ……ハーブが足りない」

 ハーブはナナが好きだ。料理に使ったり、お茶にいれたり。わたしはハーブティーは苦手なのでナナしか飲まないが、新鮮なハーブが手に入った時にはナナに振る舞う。今日はナナが喜びそうだと無意識に口角が上がる。灰になった新聞の内容に心臓が変に脈うったが、ナナの笑顔のために、わたしは家を出た。

 案の定、街は昨日の事件の噂話があちらこちらで話されていた。新婦が祈りを失敗して起きただとか、因縁のある人間を排除したくてやっただとか、基本物々しい話ばかりが聞こえてきた。早く帰りたい。早く、ナナに会いたい。途端に一人ぼっちになったみたいでほんの少し寂しく感じていると、ハスキーボイスのマダムに声をかけられた。

「いらっしゃい、シャーロット。今日は何を買いに?」

 いつも通りの声にほっと胸を撫で下ろす。昨日の広場が視界に入らないように体勢を変えて、返事をした。

「ハーブ七種をお願いします」

「了解!ちょっと待っててな」

 そこらの男性より男らしいと評判の恰幅のいいマダムの明るさに助けられている人はわたしだけではないと思う。人間でも魔法使いでも分け隔てなく接してくれる、貴重な存在だ。

 ハーブセットを待っている間、ぼーっとしていると、ふと嫌な気配を感じた。既視感がある。魔法使いを軽蔑する視線だ。決して大きくはないが小さくもないこの街で、魔法使いは限られた人数しかいない。だから魔法使いだとバレないかと思いきや、法律で「魔法使いは決められたローブを身につけること」という迷惑極まりないルールが決まっているので、身なりでバレてしまう。チクチクと刺さる空気に、わたしはフードを深く被った。

「はい、お待ち」

「ありがとうございます。おつりはいらないです」

「まいど!またおいで」

 フードをまた深く被り直して家路へ帰っていく。そうだ、今すぐハーブティーを作ってナナに持っていこう。ナナに、会いたい。いつの間にか涙目になっていた足を大きく踏み出して足早に石畳を蹴った。急かすような風がわたしにまとわりつくように舞った。

 大聖堂へ行くまでは、あの広場を通らなければならない。出来たてのハーブティーが入った水筒を入れたバスケットを握りしめ、ごくりと唾を飲み込む。しかし、広場を目にして、思わずきょとんとしてしまった。あの放射状のテープも無ければ、血の跡一滴すら無い。掃除して綺麗にしたようにも見えない。まるで、「なかったこと」のようだ。コツコツと買ってもらったばかりの靴が鳴る。大聖堂は、すぐそこにある。目の前に細かな彫刻が刻まれた扉がわたしを遮った。小さく「お邪魔します」と呟き、ギィィと軋む音をたてて大聖堂の扉を開く。ホールは一面輝くくらいに綺麗に掃除が行き届いてるようで床が鏡のようだ。中にも様々な彫刻や絵画が飾られているため、未熟な自分は入っていいのかと少し怖気付いてしまう。ナナはすぐ奥の大時計の近くにいるはずだ。入口から真正面に佇んでいる大時計は何年前からあるかわからない程古く、手入れも難しいため魔法使いが手入れや修理を行っている。その時計だが、なんだかいつもと様子が違う気がする。まず周りに誰もいない。それに少しだけ、喉が詰まるような空気感。誰かがわたしを呼んでいる?かすかに歪んだような世界。それはまるで水中で迷子になったようで、慌ててナナの名前を呼んだ。

「ナナ?……ナナ?」

 昨日の光景がフラッシュバックのように脳内を駆ける。目尻に涙が滲んできた。

 ふと、時計の横にあるサイドテーブルのようなものの上に置かれている三十センチ四方くらいの引き出しに目がいった。年季の入った木箱だ。引き出しは全部で三つ。表面に薄く何かが書かれている。目を細くして見ると、地名が書かれていることに気付いた。なんとなしに真ん中の引き出しを引くと、そこには赤い手のひらサイズの手帳のようなものが入っていた。それは古くかさついており少し日に焼けているように見えたが、そんなことより、表紙に書かれた単語に目を奪われた。表紙の真ん中には、「ナナ」という滑らかなよく見る筆跡の文字。次に小さく読めなかったが日付が書かれていた。誰もいない歪んだ世界に震える呼吸はそのままに、手帳を開くと、丁寧な字がぎっしり埋め尽くされていた。すぐにわかる。これはナナの字だ。はじめの方は業務日誌のような、昔警備していた頃の手帳なのかな、と思わせる文章だったが、ページを進めていくと、鼓動が早くなり、文字も神経質そうに、苛立ちを含み変わっていった。内容は、魔法使いと人間による争いに変わっていたからだ。わたしはこんな歴史は知らない。よく見たら時系列もおかしいし、途中から違う人がふざけて書き続けたんだろう、と手帳を閉じようとすると、一瞬見えた文章に、喉の奥がヒュッと鳴った。

『大聖堂前広場にて、魔法使いによる呪い執行』

 出来すぎた文章だ。まるで今朝の新聞の内容をそっくりそのまま写し取った記事のようなメモ書きに、インクの古さに、今更読めてしまった表紙の日付に、背筋がひやりとした。

 ナナは予言者だったのか?予言を得意とする魔法使いは、魔法使いの中でも数百人に一人くらいの確率だ。

 様々な感情がサラダボウルのようにごちゃまぜになる。ナナ。ナナはどこにいるの。とてつもなく寂しくなった。窓を見上げると空はセピア色で、今までいた空間ではないよう。生まれてきた世界に否定されたような、祝福されたような感覚。雪に埋もれた日に産まれた時のよう。水中で泳ぐ金魚が水槽の中にいると気付いたような、密閉感。早く逃げたいのに、指は手のひらの手帳を捲り続けた。

『巨大な魔力により、時空の歪みが発生。至急処置すべし』

 昔、遠い昔のナナ。わたしと出会うずっと前のナナ。大時計の針ががカチリと動き、ボーン、と大きな深い音を空間目いっぱいに響かせた。途端に、セピア色が窓から扉の隙間から入り込んできた。立ち尽くすわたしは慌てて指先に灯りを灯した。ぼんやり白い空気に包まれるわたしの周りにはセピア色が迫っている。絵に書いたような時空の歪みに、乾いた笑いが出そうで止めたことを後悔した。なんだか泣きそうだ。一人ぼっちの世界でじわりと滲んでくる視界に一筋の光。ナナの手帳が仄かに光っていた。

「……ナナ?」

 時計がまた低く深い音で鳴る。身構えてなんとなしに続けて鳴る音を数える。

 十三回。

 時が、完全に変わった合図だ。学校に入学してすぐに教わる合図。

 音の余韻が消える前にわたしは走り出した。光る手帳が教えてくれた(気がする)、ナナを探すために。ここにはわたしの知っているナナはいないかもしれない。否、きっといない。今が何年前かはわからない。けれど、きっとナナはいる。古ぼけた手帳が走れと言わんばかりに導いてくれる。あてもなしに走るわけにもいかないので、近くの部屋から覗いていくことにした。ガチャ、とドアノブが動く音も水中で聞いてるようで頭がおかしくなりそうだ。一階は事務室があったはずだが、部屋自体がなくなっていたため、二階へ駆けていく。二階は階段をあがって左手に吹き抜けの中庭があり、右手には部屋がいくつか並んでおり、小走りしながら指先を振って扉を開けて確認してはまた小走りして、を何度か繰り返したところで、妙な雰囲気の部屋に行き着いた。図書館のような、書類部屋のような、開けた場所には小さな丸いテーブルが置いてあり、至極薄いインクで魔法陣が書かれている。わけがわからないことばかりだ。わたしはただナナに会いに来ただけなのに。とうとう息切れした頬に涙が零れ、雫が魔法陣に落ちた。映画のようなその流れに、景色が変わるのではと、涙で帰れるのではないかと思ったが、風景はまるでわたしを嘲笑うかのように何も変わらなかった。しかし、ほんの少し、魔法陣がうっすら光ったのがわかった。涙の次は、と思い家にある果物ナイフを魔法で呼び寄せた。指先にナイフを当て引くと熱と痛みが走った。少し深く切りすぎただろうか。するすると滲み出てくる血液に、何故かドキドキしてしまう。程なくしてポトリと落とされた鮮血は魔法陣にぴたりと合ったのか、今度は強い光が生まれ、思わず腕で顔を覆った。血の匂いがする。

「まったく、おバカさん」

 懐かしい声がした。知っているようで知らないような。今は知ってるけど今は知らない声。じわじわ出ていた涙がぽろぽろと止まらない。いつの間にかセピア色は夕暮れの自然な色に変わっていて、階下からは人の気配がする。そして目の前には焦がれた魔法使いがいる。現在の、ナナ?

「……ナナ?」

「はい」

「ナナ?」

「なんでしょう?」

「ナナ」

「ふふ、どうされました?」

 どうされましたじゃないよこの野郎だなんて言ったら、お行儀が悪いと叱られてしまう。ナナに叱られるのは世話を焼いてもらっているようで悪い気はしないがやっぱり苦手だ。目が怖いし。止まらない涙と未だ垂れ流し状態の指先の血液に、ナナはまずしなやかな指先で涙を拭い、鮮血を主張する指先をあろうことかぱく、と口に入れた。他人の血なんて、気持ち悪くはないのだろうか。だなんてぼーっとしていたら脳天に何かが乗る感覚。頭を撫でられていることに気付くには少々時間がかかった。頭を上げるとそこには待ちに待った姿。とは言いきれない何かを背負ったナナだった。ナナのようで、ナナじゃない。誰だ?答えはひとつしかない。

「いつのナナですか……?」

 ふふ、と思わずといったようにナナは笑った。妖艶な笑みはわたしの知っているお色気星人だ。でも、何かが違う。

「あなたを待っていますよ、ずっと、ずっと」

 そう微笑む姿は毎日見ていた柔らかく優しいナナそのものだった。切れ長の目を細くしてキツネのようににっこりと笑う姿。ナナの後ろ髪は腰まで伸びていて、毎朝蝶々のバレッタで纏める姿が好きで、わたしも真似して髪を伸ばした。現在は肘くらいの長さだ。コーヒーは飲めないけれど、カフェオレなら飲めるようになった。時計の修理や点検は出来ないけれど、ハーブティーなら作れるようになった。全部全部、ナナと一緒にやってきた。ナナが待っていてくれたから、わたしは今ここにいる。涙の晴れた瞼を何度か瞬きすると、いつの間にかナナは消えていた。きっと、ずっと昔のナナ。わたしはわたしが生まれる前にナナに会っていたんだ。先程までの時間がいつだかはわからない。ただ、ナナが生きていた時間というだけで愛しさに似た何かで満たされる。まだ頭がさえない。涙も血も止まったけれど、思考も大聖堂へ来てから止まってしまったらしい。古い書物の並んだ棚達を何も考えずボーッと眺めていると背後から扉の開く音が聞こえた。

「シャーロット?どうしたんです?」

 首がもげそうなくらいのスピードで振り返った。ナナだ。ナナだ。振り返ったスピードそのままに駆け出す。さっきまでとは違う気持ちで。

「おっと。何事ですか?」

 くすくすと笑う温度が愛おしい。頭突きレベルの突進にも微笑んで受け止めてくれるナナ。この人のためにわたしは生きたい。大好きなナナ。ナナが昔何をしていようと、わたしはナナを好きでいることは変わらない。未だ手に持っている赤い古びた手帳を隠すように、ナナのお腹に両腕で巻きついた。。

「おやおや。甘えたさんですか」

 ナナはわたしを甘やかしてくれる。まるで大聖堂を駆け回って涙したことを最初から最後まで全部見ていたように。ぐりぐりとマーキングのようにナナの胸におでこを擦りつけながら、手に持った手帳を魔法で木箱に戻した。転移魔法はわたしが幼い頃ナナにねだって教わった初めてのまともな魔法だ。ナナはよく外でテーブルや椅子やティーセットを魔法で呼び寄せて優雅なティータイムをする。それがかっこよくて、真似をしたかったのだ。今では一番得意な魔法だ。それでも未熟なわたしは無機物相手にしか出来ないけれど。転移魔法を使ったことはナナにはわかってしまっているだろう。それでも何も言わないわたしとナナ。そんな関係が心地よかった。いつかは昔の事も話してくれることを祈って、ナナから離れた。

「あのね、ハーブを買ったからハーブティーを作ったの」

「それで、ここへ?」

 笑みを浮かべ話すナナはいつも通りだ。本当は手帳の事も聞きたい。けれども、今は聞いてはならない気がした。広場がやけに綺麗だった事も。

「広場、綺麗に片付いていたでしょう?」

 どきりと脈が大きく跳ねた。ナナはふふ、と笑い「顔に書いてありますよ」とわたしの頬を撫でた。こんなんだからモテるんだ。

「シャーロットはお利口さんですね」

「どうして?」

「物事には知るタイミングがあるとわかっている」

 口元に人差し指をあてて「しー」と内緒話するようにナナの朝焼け色の瞳が揺らめいた。

「お利口さんだとナナは喜ぶ?」

「ええ。どんなあなたも愛していますよ」

 と、堂々と言えるナナは何人の女の人を泣かせてきたのだろう。否、ナナの事だから悲しい涙は流させないであろうな。

「それより、こんなところにいないで外へ行きましょう。ここは埃臭いでしょう」

 珍しく急かすナナはよく見ると顔色がほんの少し悪い気がする。忙しいのだろうか。それなら、と

「ハーブティー差し入れに来ただけだからすぐ帰るよ」

 と言うとナナは少し目を見開いた。いつもはナナ、ナナ、と金魚のフンの如くついてまわるわたしがすぐ帰ると言ったからだろうか。額に手をあてられた。

「熱は無いですね」

「失礼だな。ナナが忙しそうだから帰ろうとしたのに。居座ってやろうか!」

「ふふ」

 ああ、ほっとする。ナナの声、優しく妖艶な瞳、意外と温かい手。まるで小さい頃から使っているお気に入りの毛布。たまに笑顔で怖い時もあるけれど、ナナは優しい。どこまでも優しい。お母さんってこんな感じなのかな、と呟いたら市場の看板娘に「違うよ!?」と大袈裟なくらい否定された。本物はもっと怖いらしい。そうか、わたしはどろどろに甘やかされているんだ、と知った帰り道はにやにやと口元が緩んで仕方なくなって、帰ってきたナナに「ご機嫌ですね」と言われて更にご機嫌になった。

 優しくて甘い。怖くて面白い。そんな魔法使い。非日常と隣合わせのこの世界。最後に見た手帳には『この世の限り。永遠とは』と書かれていた。ナナはこの世の終わりがわかるんだろうか。聞いたら教えてくれるだろうか。いや、聞かなくていい。いつかくる争いや終焉も、ナナと一緒にいられるなら本望だ。

 

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