夢は五臓の患い




 こうして僕は走り続けた。

 小学六年生の一年間、ずっと。


 あの女がやってきて、僕に色々と恐ろしいことをしてくるのは、平日の通学路でだけだった。学校や家にいる時や、同じ道を休日に通った時は、女が現れることはなかった。適当な理由をつけて学校を休むことも考えたが、周りから頭がおかしいと思われるのがいやで、そうしなかった。

 でもやっぱり両親だけは、僕の異変に気がついたようだった。僕は努めて普通に振舞っていたつもりだったが、やはり日に日にやつれていきながら、三角定規を異様なペースで新調している我が子の姿は、いくら鈍感なうちの親でも異常に感じるらしかった。


 卒業を間近に控えたある日、強引に連れて行かれた心療内科で言われたのは、僕が軽いノイローゼにかかっているということだった。


「やっぱり、思春期って色々と大変ですからね……。異性のことが気になったり、自分の体の変化に戸惑ったりするものです。アキラくんの場合も、きっと体の成長に心が追いついていないんだと思いますよ。まずは栄養をきちんととって、よく休んでくださいね」


 白衣姿でにこやかに微笑む心療内科の女の先生は、疲れ果てた僕の目には、地獄のことなんてまるで知らない無垢な天使のように見えた。先生、これは僕の精神がおかしいのが全部悪いんですか。僕が成長期で背が伸びたことに浮かれたのが、そんなに悪いことだったっていうんですか。

 モテ期を期待したことが、こんな責め苦を負わされるほどの大罪だったんですか。




 それから僕は、中学に上がった。




 地区に一つしかないその中学校には、地区内のいくつかの小学校の生徒が集まってきていたが、僕には「頭がおかしくなったヤバいやつ」というレッテルがすでに貼られていた。僕と同じ小学校だった者が、SNSなどで情報を流したのだろう。でも、僕は構わなかった。というか、それくらいのことでは怖さも悲しみも怒りも感じないほど麻痺してしまっていた。。未だに僕の通学路に存在し、ランドセルを背負った僕の背中に呼びかけてくる。こっちを見てほしいと。こっちを見て——、と。


 僕は授業ではあまり使わなくなった三角定規を、週三のペースで新しく買い続けている。


 両親は信じてくれなかった。僕が幽霊のような女に付きまとわれているということを。心療内科の医者がああ言ったせいで、全部ノイローゼのたわ言だと思われる。そのことを言おうとすれば、全部言い終わる前に、


「はいはい落ち着いて。さあ、パパとママと一緒にホットミルクでも飲みましょう」


 と優しさたっぷりにソファまで案内される。だからもう二度と他人は頼らない。



 おい、クソ女。

 お前が通学路にだけいるというのなら、せいぜい僕につきまとえばいい。

 今はただの中学生に過ぎない僕だって、いつかは学生じゃなくなる。通学路なんてどこにもなくなる。そうしたら、お前も一緒に消えてなくなるんだ。僕の青春の全てを道連れにしてでも、お前を殺してやるよ。

 それがお前の望みなんだろう。


 もし、通勤にまで付いてくる気なのだとしたら、その時は————


 


「ねえ、ちょっとそこの君!」




 放課後、そんなことを考えながら下駄箱で靴を履き替えていると、声をかけられた。見れば同じクラスの女子がいて、こちらにニコニコと笑いかけていた。

「えっと……何?」

「何、じゃないよ。私たち同じクラスでしょ? 名前はアキラくんだよね」

 急になんなのだろう。うっかり係の仕事でも忘れてしまっていたのかとも思ったが、頭の中で確認しても、やはり今日は特に仕事はない。

 すると女子は、少し顔を赤らめながらこう言った。


「ねえ、もしよかったら一緒に帰らない?」

「え?」


 女子の誘いに対する戸惑いと、それとは全く違う別の意味とで、心臓がドキリと跳ねる。もしあの通学路を、女子と一緒に歩いたら? ……今まで考えもしなかった。どうしたらいいのだろう。あの女はどう受け取るのだろう。いつも通り、惨い仕打ちをしてくるだけなのか。でももしかしたら、僕のことを諦めて去ってくれるかもしれない。ひょっとすると女子と一緒に帰ることだけが、あいつを追い払える唯一の方法なのかもしれない。でもどこにもそんな保証はない。ああ、一体どうしたらいいのだろう。恐ろしいことになる予感は拭えない。この子を死なせてしまう可能性だってある。でも、「もしかしたらうまくいくかも」という希望がどうしても捨てきれない。どうしたらいいのだろう。それにこの機会を逃したら、もう一緒に帰ろうなんて言ってくれる女子は一生現れないかもしれない。いや、そもそもこの誘いだって、本気なのかわからないじゃないか。頭のおかしい男子をからかって遊んでいるだけかもしれない。本当は陰でみんな見ていて、ドッキリ大成功、とばかりに突然通学路の途中で振り返るとそこには————血塗れの——じゃなくて、ああ。ああ。……ああ! 

 胃がキリキリと痛み出す。心臓がどきどきいってとても苦しい。




 僕は一体、どうしたら。







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成長期、モテ期、三角定規 名取 @sweepblack3

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