三角定規はペンより強し
朝は、まだいい。
道にはたくさんのサラリーマンや中高生がいるし、何より太陽の日差しが怖さを和らげてくれる。
でも、問題は夕方だ。
日の沈みかけた夕方に家に帰ろうとして道を歩いていると、どこからともなく聞こえるのだ……あの声が。
「こんばんは〜。アキラく〜ん」
どこか人を小馬鹿にしたような言い方が、どうしようもなくゾワゾワする。
女が何者かは知らないが、きっと僕のことを子供扱いしているのだ。「子供」といっても、僕をそのまま「小学六年生の男子」として見ているわけではない。おそらく奴にとって僕という人間は、まだおしめも取れないような、かわいい赤ん坊と同じなのだろう……人前で恥ずかしげもなく絶叫し、顔を歪めて泣き喚き、大便や小便をとめどなく漏らし、混乱して庇護を求め、裸のまま醜態を晒す、無様な大きい赤ん坊。
声の調子から、それがひしひしと伝わってくる。
「アキラく〜〜〜ん。ねえ〜〜〜ってば〜〜〜〜〜〜〜〜」
後ろを振り返るのは、何日めかでやめていた。振り返ったところで、いつも誰の姿も見ることができないからだ。でもそこにいる。それだけはわかる。でも、仕留めるすべなどわからない。僕は服の中にそっと隠し持った三角定規のケースに触れた。最初はペンを入れていたが、定規の平たい部分で平手打ちのように相手を叩くことができる分、三角定規の方が強いと気づいた。それからはずっと、三角定規がお守りだ。
「アキラく〜〜〜〜〜〜〜ん。こっちを向いてよ〜〜〜〜〜」
僕はふと気づく。もしかしたら、最初の頃に僕があいつの声に反応していたことで、あいつを調子に乗らせてしまったのかもしれない。ストーカーは、たとえ嫌がられたとしても「相手に反応された」ということ自体を嬉しく感じるものなので、無視した方がいい、と前にテレビで言っていた。だとしたら、聞こえないふりをしていた方がいいのかも。
そう思った矢先だった。
「うけけケケケッけけけけけ」
この世のものとは思えない奇怪な笑い声を上げた男のバイクが、数メートル先の曲がり角から飛び出てきた。
「うけけケケケッけけっけケケケけけ」
目は完全にイっている。頭を左右にぐわんぐわん揺らして走ってくるものだから、ヘルメットがごとん! とアスファルトに落っこちた。そしてバイクは僕の目と鼻の先の塀に突っ込んだ。そのまま頭ごと落ちてしまったのだ。
「ア・キ・ラ・く〜〜〜〜〜ん。こっち、見てえ〜〜〜〜〜……」
ポタポタとガソリンに混じって赤い液体を滴らせるバイクの残骸を見ながら、僕は呆然と考えていた。どうしてなんだよ。どうしてなんだよ。これまでだって散々辛い目に遭ってきたのに。背が小さいというだけで、同じ男子からはいじめに限りなく近い幼稚なイジリをされ、女子からは露骨に笑われて嫌われた。でも僕は聞いたのだ。背が伸びれば世界が変わると。背さえ伸びれば、人生を薔薇色にしてくれるモテ期が来ると。
でもモテ期なんて来ないじゃないか。
来たのは限りなく頭のおかしい、わけのわからない幽霊みたいな女だけだ。
「いや、だ……」
僕は小さく小さく呟いた。
このまま、せっかく身長が伸びたのに、何もいい思いをしないで死んでいくなんて、絶対に、
嫌だ。
「うわああああああああああああーーーーーー!」
僕は心の中で思い切り叫び、通学路を全速力で駆け出した。
背中でランドセルがガタガタとうるさく跳ねた。気にするものか。僕は絶対こんなところで死にたくない。だって中学に行ったら彼女を作るんだから。可愛くて優しい、料理上手な彼女を。僕の話をちゃんと聞いてくれて、僕が褒めたらはにかんで照れ笑いを浮かべる、そんな素敵な女の子と恋をするんだ。そして一緒の高校に進んで、一緒の大学に入って、それから——
「あああああーーーーー。あああああああああああーーーーーーーーー」
はたと僕は気が付いた。
そういえばさっきから、ランドセルの中で教科書がぶつかる音と荒い呼吸以外に、何か別の音がすぐ近くから聞こえる。何か、叫び声のような。
「あああああああ! あああー!!!!!!」
僕はゆっくりと首を回し、横を見た。
黒いセーラー服を身に纏った、僕よりほんの少し小さいセミロングヘアの女の子が、僕の横にぴったりくっついて勢いよく走っていた。フォームは綺麗だった。陸上選手よろしく腕を直角に曲げて、手のひらも指を合わせてピンと伸ばしている。体は正面に向かって走り続けているのに、顔だけは90度曲がって、真横の僕のことをずっと見つめていた。口元が焼けただれていた。顎は溶け落ちてなくなっていた。それでも叫び声を上げ続けていた。何かを伝えたいかのように。唾とも血ともつかないべっちょりしたものが僕の顔中にかかった。僕は三角定規を取り出した。
「ああああっ、あ、あ゛!!!!」
女の子の爛れた頬を二等辺三角形で力の限り殴りつけ、今にも風で飛んでいきそうな眼球に30度の角を突き刺した。頭が真っ白になりながらも、彼女の体がべちゃっとアスファルトに崩れ落ちたことはわかった。
僕は走り続けた。
走って走って、走り続けた。
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