いかれたいのち

桂 叶野

いかれたいのち

「でね、玲ちゃんがすっごいおっきい声で言うんだよ、『そんなん、さっさと寝ちゃえばいいじゃん!』って。そしたら周りの人たちがみーんなこっち見るの! あいつらまじでやべー、って顔して。ほんと、一緒にしてほしくないっていうかさあ……なあーんか、前から思ってたけど玲ちゃんってすぐそういう感じに落ち着くじゃん? ヤればいいじゃん! とか、抱いてもらいなよ! とか。玲ちゃんってなんていうか……ほら、アレなのかなあ、ねえ……ほらあ」

「“ビッチ”?」

「うん、それそれ。やだよねー。真っ昼間のファミレスで寝取れ! なんて言えるの、ほんと、地球上で玲ちゃんくらいだよ。あの子、そのうちパパ活のしすぎで死んじゃうと思う。刺されちゃわないか心配だよ」

「わはは、まあ玲はちょっとトンでっから。お前も気をつけろよ」

「うん、わかったー」

 だりー、と言いながら神田さんが寝返りをうつ。たわんだ網戸越しに流れ込んでくる夏の風は、今朝まで降り続いた雨のせいでバカみたいに重ったるい。窓の下の墓地では、一匹残らず気が狂ってしまったらしいセミたちが延々と鳴き喚いている。


 この、トイレとお風呂が一緒で、二口コンロの片方はなぜか火が点かず、居室の四隅は湿気でうねり、ときどき押し入れの引き戸が開かなくなるおんぼろアパートの中、私が一番に文句をつけたいのはそれらの要素ではなく、もちろん窓の外いっぱいに墓地が広がっていることでもなく、夏場になると朝から晩まで鳴き続けるセミのやかましさだった。

 契約したのが冬だったから、そんなことにはちっとも気づけなかったのだ。神田さんは「いい加減慣れろよ」としか言ってくれないけれど、そういう、不愉快な出来事に対して鈍磨になってしまったら、人間っていう生き物はいよいよ終わりなんじゃないかって、私は思う。

 セミの大合唱に負けず劣らず、この部屋の扇風機はからからと明らかに変な音を立てている。羽根が回転する速度が、ちょっとどころではなく“おかしい”のだ。速くなったり遅くなったりするわけじゃない、それならまだいい。日に日に遅くなっている。

 最大風量って表示されているけれど、どう考えてもこれは「そよ風」レベルの風量だ。どうせ壊れちゃってるんだろうなあ。クーラーを導入するお金がないのは当然のことだとして、いま扇風機を買ったら今月はもう第三のビールすら買えない。

 私はお酒を一切嗜まないからいいけれど、神田さんが十八時以降に補給する水分はアルコールだけなので、お酒を買えないということはつまり神田さんが脱水症状で死んでしまうかもしれないということだ。

 神田さんは世にも奇妙な体質らしく、夜に水やお茶を飲むと即死してしまうのだという。

「俺みたいな体質の奴らって案外多くてさあ、そういう奴らはいっつも酒で命繋いでんのな。わかる? わかんないか、お前、バカだもんな」

 アルコールは分解する過程でそれらが保有する水分よりも更に多くの水分を必要とする。私が知っている知識を優先すると、神田さんはお酒を飲めば飲むほど脱水症状を悪化させていくはずで、そもそも彼の日常的な飲酒量から考えれば彼は近い将来、肝硬変か何かを患って死んでしまうかもしれないはずなのだけれど、まあ神田さんの言うとおり私はバカだし、神田さんは私の常識では推し量れないような特異体質なのだから、私はエンゲル係数のことなんて考えず、素直に神田さんへお酒を提供し続ければいいだけのことなのだろう。


 神田さんは何でも知っている、すごい人だ。

 数年前、学校と、塾と、自宅を三角形に移動しているだけの毎日を過ごしていた私に、世の中の本当の形を教えてくれたのは神田さんの周りにいる人たちだったし、彼らはみな神田さんのことを、

「スッゲー奴」

 だと口を揃えて言った。

 神田さんの言うとおりにすることで私はたくさんの友だちを得たし、今まではニュース番組で揶揄されるばかりの、嘘みたいな本当の世界を体験することもできた。お化粧の仕方だって覚えたし、ちょっとエッチだけれどお洒落な服の選び方も知ったし、効率よい万引きの仕方も、失敗を繰り返しながらではあるが学ぶことができた。

 そのうえ、神田さんの紹介してくれる男性と、おいしいご飯を食べながら彼らが繰り出す自慢話を笑顔でへらへら「すっごおーい!」と聞いてあげる、プラスアルファ程度のことをすれば、私はいつだって複数枚のお札まで稼ぐことができるのだ。

 私は稼いだお金の三分の二を神田さんに渡しているが、もちろんこれは私の感謝の表れであって神田さんに搾取されているわけではない。人に何かをしてもらったら、具体的な形でお礼をするのが人間の道理。これも神田さんに教えてもらったことだった。


 今夜も私は神田さんに紹介してもらった男の人と会う。彼が経営する会社は、ナントカっていう海外製のエステ用品だかなんだかを売っているらしく、その商品は最近SNSでよく見かけるようになった。

「身なりは綺麗にして行けよ。いい匂いさせて、新しい下着つけて、ああ足の爪も綺麗に塗っとけ。まあ……赤だな。男は赤い爪が好きなんだよ」

 神田さんの知識はやっぱりすごい。私ごときの頭では、たかが食事会のために新しい下着をつけていこうなどという発想は一生生まれないし、ベージュのストッキングを穿き、爪先の隠れるパンプスを履いてしまえばペディキュアを塗ろうともまず思わない。

 末端まで気を配る人間は素晴らしい人間になれる、という話だろう。きっと神田さんはこうして何手も先の現実を読んできたからこそ、今の地位を得ることができたに違いない。


「ね、ね、できたできた。見て見て。この赤色、かわいい? 似合う?」

 神田さんが右手の親指と人差し指で丸を作る。

 背中を向けていても私のネイルが見える理由はよくわからないけれど、とにかく神田さんが丸印をくれたのだからこれはかわいい赤で、私にでも似合っている赤なのだ。

「ああそうだ、俺きょう外で飲んでくるんだけど」

「あれ? 約束してたの? 誰と?」

「うん、してた」

「誰と?」

「んー? あ、あとお前何時くらいに帰ってくる予定?」

「……終電前には解散だって言ってたかなあ? でももし盛り上がりすぎて逃しちゃったら、申し訳ないからホテルだけ取ってくれるって言ってた! それもお金、払ってくれるんだって。いい人だよねー。お金持ちってすごくない? 尊敬しちゃう」

「ふうーん。まあ、いい感じにやってきてね。俺の友だちなんだから」

 神田さんが右手を左右に振る。このお話はもうおしまいです、の合図だった。


 私は赤く染まった自らの足先を見る。ある程度乾きつつあるその塗料は、一部が皮膚に付着している。指の腹で軽くこすってやると、まるで割引シールが剥がれ落ちるみたいに若干の掠れを残しながら赤色が私の手に移動する。からからと安っぽい音を立てる扇風機の音も、この夏の暑さで頭をやられてしまったセミたちの大合唱も、どこか他人事のようだ。

 私は粉っぽい匂いのするボディクリームを腹回りに薄く塗りながら、神田さんが眠る布団の向こうにある、あの網戸が鉄格子だったらよかったのにな、と、やはり他人事のように思った。

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