十一 命の梯子


 中庭に置かれた水甕を、みな沈痛な思いで見つめていた。

 特に十世とよの顔は蒼ざめていて、彼女の深い嘆きが伝わって来た。


「申し訳ありません…………私にもっと力があれば、先の日の巫女さまほどの霊力があれば、長洲彦ながすひこさまを犠牲になど……」


 水甕の前にくずおれた十世の頬を涙が伝う。

 アカルは十世の傍らに膝をつくと、彼女の肩に手をかけた。


「確かに、私たちの力は足りなかった。でも、みんなの力を合わせたからこそ暗御神くらおかみを封印することが出来たんだ。もう誰も奴に喰われる心配はない。あとは長洲彦さまを早く解放してあげられるように頑張ろう」


「……朱瑠」


 十世は涙にぬれた顔を上げた。顔はまだ青白いが、嘆きの色は薄くなっている。


宵芽よいめから聞いた神話だと、暗御神は火の神炫毘古かがびこの血から生まれた事になっていた。でも、あれは泡間か……もしくは泡間と繋がっている別の世の生き物だ。泡間へ帰せればいいけど、またこっちに戻って来ないとも言えないからね」


 今はまだ封印しておくしかない。

 いつか蛇神を倒す方法を見つけるか、己の霊力をもっと高めるまで、長洲彦の献身に感謝するしかない。


「そう……あ、だから、暗御神に霊剣は効かないって言ったのね?」


「うん。たぶん、霊力を纏った他の武器と効き目は変わらないと思う。霊剣が効くのはむしろ炫毘古の方だ。かつて人だった彼は、あの剣で殺されたことをきっと覚えてる」


 矢速として生きていた彼が、もし暗御神を引き入れたせいで父親に殺されていたとしたら────自分の血を吸った霊剣に怯えるのではないだろうか。


「炫毘古は、人だったの?」


「そう。彼は人だった。異能があったばかりに、幼くして亡くなったんだ。依利比古いりひこには、さっき謁見の間で伝えて来た。彼はもう、炫毘古の言いなりにはならないよ」


「よかった……」


 十世の頬を再び涙が伝ったが、それは嘆きではなく、喜びと安堵の涙だった。




 長洲彦と暗御神を封印した水甕は、蓋を固定するために縄を巻かれた。さらにその上から何重にも呪符を張られ、解決策が見つかるまでの間、美和山に祀られることになった。

 しかし、これで終わりではない。暗御神よりも厄介な相手がまだ残っている。


「私は炫毘古かがびこを探す。水甕のこと、よろしく頼む」


 アカルがそう言うと、宵芽がパッと手を上げた。


「あ、あたしも一緒に探す! ここに来る時に、暗御神に乗った炫毘古を見たんだ!」

「そうよ、みんなで探しましょう」


 十世はそう言ったが、巫女たちは疲れ切っている。平気な顔をしているが、十世も宵芽も、もう限界のはずだ。


「十世たちは水甕を守ってくれればいいよ。ずっと暗御神を封じてたんだ。みんな疲れてるでしょ。今の戦いで霊力も尽きたんじゃない? 私はまだ大丈夫だから」


「何言ってるのよ! 朱瑠だって腕をやられたじゃない! ほら、左腕、力が入らないじゃない。私の右手と同じだわ! それに、炫毘古は一人で勝てる相手ではないでしょ!」


 十世はだらりと垂れ下がったアカルの腕に触れ、帯布で吊った自分の右手を突き出した。


「わかってるよ。でも、炫毘古とは因縁があるんだ。見つけたら必ず合図を送る。その時は力を貸してくれ。とにかく、十世たちは少し休んで────長青ちょうせい! 十世を頼みます!」


 アカルが後ろを向くと、庭木の影から長身の男が姿を現した。

 十世は驚いて目を瞬くと、急に慌てふためいた。


「ちょ、長青! あなた、どうしてそんな所に?」

「私があなた様から目を離すとでも思ったのですか?」


 無表情な上に平坦な口調だが、長青の言葉には十世に対する想いが溢れている。

 アカルは安心してにっこり笑った。


「じゃあ、十世と水甕を頼んだよ」



 〇     〇



 中庭から離れ、広々した渡殿に戻ったところでアカルは立ち止まった。炫毘古を探すとは言ったが、どこにいるのか見当もつかない。

 王宮の表側と奥宮を繋いでいるらしい渡殿に立ち、気配を探っていると、後ろから山吹が追いかけて来た。


「炫毘古とやらは、恐らく奥におるぞ。依利比古さまとそやつに因縁があるのならば、きっと奥におる」

「山吹……あんたは十世の傍にいてくれなきゃ」

「長青殿がおられるから大丈夫じゃ。それより、私も途中まで一緒に行くぞ」

「え?」

「お前は炫毘古を探しに行くのじゃろう? 私は依利比古さまを探しに行く」

「何だよそれ……」


 アカルは文句を言おうとしたが、山吹の依利比古愛の深さを思い出した。きっと何を言っても無駄だろう。


「くれぐれも、用心してよね」


 アカルは山吹の提案通り、奥宮に向かって歩き出す。

 ふいに、視界が暗転した。眩暈めまいがして、カクンと膝から力が抜けてゆく。


「朱瑠、お前大丈夫か?」


 山吹に支えられながら、アカルはその場にしゃがみこんだ。彼女のお陰で転倒は免れたが、眩暈とともに不快感が胸にせり上がる。咄嗟に両手で口を覆った。


「ごめん!」


 慌てて渡殿から下り、庭木の茂みに隠れて嘔吐した。

 食べ物を口にしたのは朝方で、出せるものはほとんど無かったが、胸の不快感は少し収まった。

 ホッと息を吐いて、吐瀉物の上に土をかけていると山吹がやって来た。胡乱な表情でアカルを見下ろしている。


「お前、腹に子でもいるのか?」

「え?」


 山吹を見上げて、アカルはぽかんと口を開けた。

 突然の吐き気と眩暈。確かに子を身籠った女がそういった不快感に悩まされるのも知っていたが────。


「いや、そんな訳……」


 恐る恐る腹に手を当てる。鷹弥と睦み合ったあの夜から、まだ十日ほどしか経っていない。岩の里で妊婦たちから話は聞いていたが、こういった兆候が表れるのはもっと後だった気がする。

 ふと、あの夜に見た不思議な月光が脳裏に浮かんだ。御簾の隙間から差し込んできたキラキラと光る月光。

 いつだったか、依利比古が愛良あいら姫の腹に子が宿るのを見たと言っていた。もしもあの月光が命の光だったとしたら────。


(鷹弥の子が……いるのか?)


 喜びと同時に、不安の波が押し寄せる。

 まだ戦いは終わっていない。炫毘古を冥府に送るまでは休んでいる暇などないのに。


「────大丈夫。何でもないんだ」

「本当か? 悪阻つわりというのは、体を厭えという赤子からの伝言じゃと言うぞ?」

「なるほど……伝言か……」

「私はな、朱瑠。依利比古さまが心配でここまで来たのだが、血を流しながら姿を消したお前の事も心配だったのだぞ」


 山吹の言葉はとても温かった。それでもアカルは首を振るしかなかった。


「大丈夫。ここから先は手分けして探そう」


 渡殿へ戻り、奥宮に向かって歩き出す。

 この辺りにいた者たちはもう避難したのか、渡殿から見える場所には人気ひとけがない。それは開け放たれた扉をくぐり、王族の私室がある奥宮に入っても同じだった。

 広い渡殿は無くなり、宮を囲むように回廊が分かれた。


「私はこっちへ行く。山吹は向こうを探してくれ。気をつけてね」

「お前もじゃぞ」


 山吹と別れると、アカルは下腹に手を添えて走り出した。

 本当に鷹弥の子がいるのだろうか。もしも本当にいるなら、この先何があっても生きていけるような気がした。


(お願いだから……流れてしまわないでくれ。何があっても、しっかり私のお腹につかまっててくれ。全部終わったら、必ず大切にすると誓うから!)


 アカルはぐっと唇と結びそれだけを願った。

  

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