十二 矢速と豊比古
静まり返った奥宮を、
(────
アカルの声がまだ耳に残っている。
彼女の言葉は波のように、何度も繰り返し、依利比古の心に浮かび上がってくる。
ソナ王子の部下たちも、声を上げて人々を避難路へと誘導している。
打てる手を全て打った後、依利比古は混乱に紛れて自分の離れ宮へ戻った。誰もいない場所で炫毘古を呼び出し、話をしたかったからだ。
奥宮の中はガランとしていた。自分の離れ宮に着くまで、誰にも会わなかった。大王である自分を探しに来る者など一人もいない。
「
思わず嗤いが込み上げてくる。慌てふためきながら、一番最初に逃げてゆく妻の姿が目に浮かぶようだ。
思い返してみれば、幼い頃から自分の事を気にかけてくれる者は一人も居なかった。大王となった今でもそれは変わらない。誰一人として彼を追って来ないのが証拠だ。わかってはいても、改めて自覚すると、胸の奥がスッと冷えた。
(そう言えば……
遥か昔に思いを馳せながらため息をつく。
豊比古も、依利比古と同じように孤独だった。いつの世にあっても、自分は家族の縁が薄い。魂にそんな呪いをかけられたのだろうか。
謁見の間でアカルが語った昔話では、
(理不尽過ぎる────)
自分の離れ宮に戻ると、依利比古は庭に面した回廊に腰を下ろした。だんだんと怒りよりも虚無感の方が募り、体が重かった。
ぼんやりと外を眺めていると、呼びもしないのに明るい庭に闇が凝り、炫毘古が姿を現した。
依利比古は回廊に座ったまま動かなかった。
(もうどうでもいい……いっそ炫毘古に殺されてしまえば楽になるのだろうか?)
虚しさを胸に抱いたまま、依利比古は近づいて来る炫毘古を見つめた。
彼の姿は、かつて己の従者だった
(こいつが、本当に、矢速なのか?)
幼くして死んだ、顔も知らない、前の世の異母弟。
「────朱瑠が来ていたな。かつての許嫁が助けに来てくれて、さぞかし嬉しいのだろうな?」
邪悪な顔のまま、炫毘古は意外な言葉を口にした。途端に嗤いが込み上げてくる。
「嬉しいものか。あれは私を裏切った女だぞ!」
「はっ、まだそんなことを言っているのか? お前は救いようのない馬鹿だな。差し伸べられた手にも気づかないとは……まぁ、お前の事などどうでもいいか」
炫毘古はクツクツと喉を鳴らす。
「俺がわざわざ会いに来たのは、お前を殺す前に話がしたかったからだ。朱瑠が話した昔話の続きを、お前も知りたいだろう?」
「そうだな。お前が私に恨みを抱く、本当の理由が知りたい」
一度はどうでもいいと思ったが、疑問を残したまま死ぬわけにはいかない。
「本当の理由?」
炫毘古は鼻で笑った。
「そんなものはない────朱瑠が言った通り、俺を殺したのは父上だった。いつも怒られてばかりだったよ。俺にとって父上は親ではなく厳しい王だった。
父上に殺されたのは仕方がない。俺が魔物を引き入れたせいで、たくさんの宮人と、母上が喰われたのだからな。当然だ。────だが、俺だって、こんな人生を受け入れるのは嫌だった。俺は何のために生まれた? なぜ俺では駄目なんだ? なぜお前だけが愛される? この怒りをどこへぶつければよかった?」
炫毘古の瞳から涙が流れた。
月弓の体の前には、童だった頃の矢速が浮かび上がっている。
「俺は死んだが、冥府へは行けなかった。神殿の巫女に封印されてしまった蛇のことが心配だったからだ。俺は
「……山神?」
依利比古は眉をひそめた。
(山神とはどんな神だっただろう?)
神殿で生まれ、王子となってからも神殿に仕えていたというのに、その神のことを耳にした事が無かった。
「山神は、蛇の妖は本来大人しい生き物だと言った。人を喰らったのは、この
人の子が現世をおかしくする。だから、人は滅ぶべきだと山神は言った────蛇を助けたいなら手を貸せと言われて、俺は山神に力を貸すことにしたんだ」
炫毘古の目にもう涙はなかった。ニヤリと笑った瞳がクルリと白銀色に変わる。
「言っておくが、お前を贄に選んだのは俺ではないぞ! 山神が選んだのだ!
初めは、俺の怨みを晴らすためだと思った。
もちろんそれもあったのだろうが、一番の理由はお前が戦を起こしたからだ。
前の世で、自分が何をしたか覚えているだろう?
まぁ、今のお前も変わらぬな! お前は人の世に災厄を撒き散らす。だから山神に選ばれるんだ!」
ハハハハハっと、大きな声を上げて炫毘古は笑った。
「山神は人を見限った! 人の世はこれで仕舞いだ! だが、お前だけは俺の手で冥府に送ってやる!」
突然、炫毘古が両手を突き出した。
依利比古は動こうとしたが、片膝を立てた状態で体が硬直したまま動かない。
さっきまで、死んでもいいと思っていた筈なのに、いざ死を前にすると怖気づいてしまう。
(動け、動け、動けっ!)
炫毘古の両手のひらに渦巻く闇が見えても、依利比古は動けなかった。
(だめだ、動けない────)
死を覚悟した時だった。
横合いから飛び込んで来た誰かが、炫毘古に体当たりするのが見えた。
よろめいた炫毘古の手から噴出した闇色の霧は、依利比古から大きく逸れて庭木に当たった。緑の葉を茂らせていた庭木は、見る見るうちに燃え尽きた灰のように白くなり、一瞬で崩れ落ちていった。
冷たい汗が全身から吹き出し、頭の中が真っ白になる。
炫毘古の手が逸れなければ、自分が灰になっていた。
「よくも邪魔をしたなっ!」
猛々しい声で我に返ると、白い衣を着た女が炫毘古に羽交い絞めにされていた。
彼女は喉元に喰い込んだ腕から逃れようと、藻掻きながら苦しそうに顔を歪めている────。
(……朱瑠が、なぜここに?)
目を瞠る依利比古の前で、彼女は懐から簪のようなものを取り出すと、それを炫毘古の腕にグサリと突き立てた。
「うわぁ!」
うめき声を上げる炫毘古の腕からは、闇色の血が流れ出している。縛めを解かれ地面に投げ出されたアカルは、うずくまったままゲホゲホと咳込んでいる。
依利比古は我に返ると、霊剣を抜き放って回廊から庭に飛び降りた。
黒い血を流し苦悶の表情を浮かべる炫毘古に駆け寄り、剣を振りかぶる。
しかし、炫毘古はパッと飛び退いた。すかさず依利比古に手のひらを向ける。
彼の手からは、さっきと同じ渦巻く闇が放たれたが、今度は依利比古が飛び退いた。
「くそっ!」
白銀色の瞳に人間臭さを宿したまま、炫毘古は地団駄を踏んだ。アカルに刺された腕はまだ血を流している。
剣を構え、じりじりと間合いを測る依利比古に、再び炫毘古が手のひらを向けて来た。咄嗟に飛び退いた────が、炫毘古は急に方向を変え、うずくまるアカルに向かって闇を放った。
「朱瑠っ!」
依利比古の叫び声と同時に、アカルが動いた。一瞬前まで彼女がいた地面が、灰色に変わっている。
「炫毘古! 落ち着け! 話を聞け!」
背から剣を抜いたアカルが、身構えながら叫ぶ。その時初めて、彼女の左手がだらりと垂れていることに気がついた。
(怪我を……しているのか?)
力を失ったアカルの腕と、謁見の間で見た十世の腕が重なって見えた。
ここへ来るまでに傷を負ったのだ。恐らく暗御神と戦って負傷したのだろう。
「さっきの話は聞いた! けど、わからない! 山神はお前を使って何がしたいんだ!」
早く逃げればいいのに、アカルは恐れることもなく炫毘古に問いかけている。
(なぜ逃げない!)
今は問答をしている場合ではない。炫毘古はアカルの命も奪うつもりなのに。
依利比古は苛立ち、アカルと炫毘古の間に身を躍らせた。もう、彼を倒すことに躊躇いはない。肘を引き、素早く剣を繰り出す。
炫毘古の胴に突き刺さる筈だった剣は空を切り、後ろへ下がった炫毘古の手から渦巻く闇が駆け抜けた。咄嗟に身をよじったが、脇腹に強烈な熱さを感じた。
「依利比古っ!」
後ろからアカルの声が聞こえた。
ガクッと崩れた体勢を気力で立て直し、依利比古は剣を構えなおした。頭の隅に、灰となった己の脇腹が過ぎったが、余計な考えは振り払った。
まだ立てる。まだ剣を構えていられる。
一瞬でも気を逸らせば、待っているのは死だけだ。
(死にたくない……)
依利比古は、炫毘古を凝視したまま唇を噛みしめた。
(なぜ私は……魔物の手を借りてまで、大王の座を欲したのだろう? 私は、なんて愚かだったのだろう)
敵を前にして後悔の念が湧いてくる────いや、命が危うい今だからこそ、気づいたのかも知れない。
八洲統一はただの言い訳だった。本当は
依利比古は剣の柄をぎゅっと握りしめた。
(朱瑠の言うとおりだ。今ここで、奴を倒さねばならない。これは私の役目だ。魔物の力を借りて大王の座に就いた私が、自分の手で始末をつけねばならない────)
土を蹴って依利比古は走った。真正面から炫毘古に肉薄し、振りかぶった剣を躊躇なく打ち下ろした。刃が届くのが先か、渦巻く闇に命を奪われるのが先か────。
斬撃が閃いた瞬間、見えない衝撃に体ごと跳ね飛ばされた。
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