十三 矢速(やはや)
「
アカルは床から飛び起きると、パッと後ろへ下がった。
「……って、中身は
淋し気な
(あの男童……
アカルが僅かに気を逸らせた時、炫毘古がフンと鼻を鳴らした。
「俺が見せたのは、
アカルを睨む炫毘古はとても不機嫌で、眉間には深い皺が刻まれている。
「余計な……もの?」
アカルはハッと息を呑んだ。つまり、彼が見せるつもりの無い事までアカルは見たことになる。その言葉を聞いて、何かがすとんと収まったような気がした。小蛇と遊んでいた
「あんたは、
気づいたら、問いかけずにはいられなかった。
しかし、答えを聞くよりも先に乱暴に腕をつかまれ、バンと叩きつけるように板壁に押しつけられた。
アカルの両手首を掴み上げ、炫毘古は獰猛な顔で笑った。
「確かに、矢速と呼ばれていた事はある。だが今の俺は炫毘古だ。人だった頃の話は二度とするな!」
黒かった瞳がクルリと白銀色に変わる。月の光のようなそれは、人とはかけ離れ過ぎて表情は読めない。
「なら、何故あの時代にこだわる?
人だった頃のことは話したくないと言いながら、依利比古にも自分にもわざわざ同じ過去を見せる。依利比古に近づいたのも、きっと彼が豊比古の生まれ変わりだからだ。
「お前に教えてやりたかったんだ。依利比古が何故お前を恨むのか、ずっと疑問だったろう?」
炫毘古の答えを聞いて、アカルは肩をすくめた。
「それは二年も前の話だ。今更教えて貰っても何とも思わない」
だから、炫毘古の言葉はきっと嘘だと直感した。
波海の記憶を探っても、矢速のことは何もわからなかった。知っているのは、彼が幼くして死んだという豊比古の言葉だけだ。
死してなおこの世に残り、炫毘古という名の魔物となったのは何故なのか────あの蛇が
(もう一度、あの男童に会いに行きたい)
嫌な予感がするのだ。彼が依利比古に近づいたのは、復讐ではないだろうか。
アカルは過去視などした事はない。自分にそんな能力があると思わなかった。それでも男童の所に行けたのは、炫毘古の中に知って欲しいと言う願望があったからではないのか。
アカルは掴まれた両手首に意識を集中した。手首を掴んでいるのは月弓の手だが、その体に宿っているのは間違いなく炫毘古の魂だ。触れ合った手から炫毘古の魂に意識を伸ばせば────。
「やめろっ!」
意識を伸ばした途端、跳ね返された。掴まれていた手首は乱暴に振り払われ、アカルは床に倒れ込んだ。
〇 〇
宮の外から争う声が聞こえた。
この離れ宮には、依利比古が許した者しか入れない。むろん、宮の周りに警護の兵は配置しているが、夕餉前のこの時間、宮の中には誰もいないはずだった。
不審に思って文机の前から立ち上がり、庭に面した回廊に出る。回廊にも、庭にも人影はなかった。
さっきまで薄曇りだった空は分厚い雲に覆われて、今にも雨が降りそうだ。
気のせいかと踵を返そうとした時、再び声がした。回廊を歩いて角を曲がる。そこで、依利比古は立ち止まった。
いるはずのない人間がそこにいた。仰向けに倒れたアカルと、床に膝をつき、片手で彼女の首を締め上げる白銀色の目をした炫毘古だ。
何故二人がここにいるのかわからない。しかし、考える間もなく、依利比古は霊剣を抜き放った。
「────何をしている!」
問いかけると同時に、炫毘古の喉元に剣先を突きつける。
「これは、依利比古さま」
依利比古の顔を見上げながら、炫毘古は剣先から逃れるようにゆっくりと身を起こした。アカルの首からも手を放す。
炫毘古の手から解放されたアカルは、起き上がって喉を押さえ、苦しそうに咳き込んでいる。アカルの無事な姿を確認してから、依利比古は再び炫毘古に顔を向けた。
「どうして朱瑠がここにいる? 何をしていた?」
「何って、ちょっとした暇つぶしだ。久しぶりに朱瑠が
炫毘古がそう言うと、依利比古は彼に向けていた剣を下ろした。問い詰めたところで、彼が本当のことを言うはずがない。アカルに訊いた方が良いだろう。そう思って見下ろすと、こちらを向いたアカルと目が合った。
「どうして炫毘古を斃さない!」
以前と同じ言葉で、アカルは依利比古を問い詰めた。
「あんたが居るんだから、ここは
アカルの言葉が胸に突き刺さる。しかし、今の依利比古には、それを表に出さないだけの理性があった。
「そなたには関係ない」
素っ気なく答える。
最後に会った二年前よりも痩せて大人びたアカルの顔を、依利比古は静かに見返した。
「関係なくないよ!」
アカルは尚も言い募ろうとしたが、その言葉を依利比古は遮った。
「どこから来たのか知らないが、死にたくなければ私が居るうちに去れ。他人のことより、自分の事を心配しろ────私はいずれ、北海諸国も手に入れる。
アカルの大きな目が驚いたように見開かれた。
「依利比古! いい加減に目を覚ましてよ……あんたは豊比古なんでしょ? 炫毘古は────」
何かを言おうとしたアカルが、突然消えた。息を呑む依利比古の前で、白銀色の目が弧を描いた。
「依利比古、遊びの時間は終わりだ」
不気味な呟きを残して、炫毘古もまた一瞬で消えてしまった。
〇 〇
矢速のことを依利比古に伝えようとした時、また視界が歪んだ。
グルグルと歪みねじれる空間に放り込まれ、アカルは眩暈と頭痛に頭を抱えた。
気がつくと、アカルは
さっきまで居た場所は薄暗かったのに、こちらはまだ空が明るい。一瞬夢を見ていたのかと思ったが、身に纏っているのは旅装だ。ただし、
「しまった……宵芽の無事を確かめてない」
起き上がろうとしたが、体に力が入らなかった。削り花を作り過ぎた時のように、自分の霊力が空っぽになっているのがわかる。
(過去視に、力を使い過ぎたのか?)
もう一度泡間へ戻ろうと感覚の手を伸ばそうとしても、途中で霧散してしまう。
(ごめん宵芽……必ず行くから)
瞼が重くなり、意識が暗闇に吸い込まれる。
眠りに落ちたアカルは、自分が波海であった時代の夢を見た。
二つに分かれた祖国を出て、南に新しい国をつくったこと。そこで伴侶を得て、子を成したこと。やがて同盟の証として波海の手から奪われる運命の息子、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます