十三 矢速(やはや)


月弓つきゆみっ!」


 アカルは床から飛び起きると、パッと後ろへ下がった。


「……って、中身は炫毘古かがびこか。過去の幻視を見せたのはお前か?」


 泡間あわいから美和山へ飛ぼうとしたら、別のどこかへ引き込まれ、百年も前の筑紫を垣間見た。

 淋し気な男童おのわらわに出会い、自分の過去世にも迷い込んだ。海人あま族の頭領の娘波海なみと同化し、波海として生きた過去の記憶を得た。


(あの男童……矢速やはやは、あの後どうなったのだろう?)


 アカルが僅かに気を逸らせた時、炫毘古がフンと鼻を鳴らした。


「俺が見せたのは、豊比古とよひことお前の過去だけだ。なのに、余計なものまで見やがって」


 アカルを睨む炫毘古はとても不機嫌で、眉間には深い皺が刻まれている。


「余計な……もの?」


 アカルはハッと息を呑んだ。つまり、彼が見せるつもりの無い事までアカルは見たことになる。その言葉を聞いて、何かがすとんと収まったような気がした。小蛇と遊んでいた男童おのわらわは、たぶん炫毘古の過去なのだ。


「あんたは、矢速やはやなのか?」


 気づいたら、問いかけずにはいられなかった。

 しかし、答えを聞くよりも先に乱暴に腕をつかまれ、バンと叩きつけるように板壁に押しつけられた。

 アカルの両手首を掴み上げ、炫毘古は獰猛な顔で笑った。


「確かに、矢速と呼ばれていた事はある。だが今の俺は炫毘古だ。人だった頃の話は二度とするな!」


 黒かった瞳がクルリと白銀色に変わる。月の光のようなそれは、人とはかけ離れ過ぎて表情は読めない。


「なら、何故あの時代にこだわる? 依利比古いりひこにもあれを見せたんだろ? 本当は、知って欲しい事があるんじゃないのか?」


 人だった頃のことは話したくないと言いながら、依利比古にも自分にもわざわざ同じ過去を見せる。依利比古に近づいたのも、きっと彼が豊比古の生まれ変わりだからだ。


「お前に教えてやりたかったんだ。依利比古が何故お前を恨むのか、ずっと疑問だったろう?」


 炫毘古の答えを聞いて、アカルは肩をすくめた。


「それは二年も前の話だ。今更教えて貰っても何とも思わない」


 だから、炫毘古の言葉はきっと嘘だと直感した。

 波海の記憶を探っても、矢速のことは何もわからなかった。知っているのは、彼が幼くして死んだという豊比古の言葉だけだ。

 死してなおこの世に残り、炫毘古という名の魔物となったのは何故なのか────あの蛇が暗御神くらおかみならば、炊屋かしきやの惨劇がどうなったのかは容易に想像できるが、アカルは想像ではなく本当の事が知りたかった。


(もう一度、あの男童に会いに行きたい)


 嫌な予感がするのだ。彼が依利比古に近づいたのは、復讐ではないだろうか。

 アカルは過去視などした事はない。自分にそんな能力があると思わなかった。それでも男童の所に行けたのは、炫毘古の中に知って欲しいと言う願望があったからではないのか。


 アカルは掴まれた両手首に意識を集中した。手首を掴んでいるのは月弓の手だが、その体に宿っているのは間違いなく炫毘古の魂だ。触れ合った手から炫毘古の魂に意識を伸ばせば────。


「やめろっ!」


 意識を伸ばした途端、跳ね返された。掴まれていた手首は乱暴に振り払われ、アカルは床に倒れ込んだ。



 〇     〇



 宮の外から争う声が聞こえた。

 この離れ宮には、依利比古が許した者しか入れない。むろん、宮の周りに警護の兵は配置しているが、夕餉前のこの時間、宮の中には誰もいないはずだった。

 不審に思って文机の前から立ち上がり、庭に面した回廊に出る。回廊にも、庭にも人影はなかった。


 さっきまで薄曇りだった空は分厚い雲に覆われて、今にも雨が降りそうだ。

 気のせいかと踵を返そうとした時、再び声がした。回廊を歩いて角を曲がる。そこで、依利比古は立ち止まった。


 いるはずのない人間がそこにいた。仰向けに倒れたアカルと、床に膝をつき、片手で彼女の首を締め上げる白銀色の目をした炫毘古だ。

 何故二人がここにいるのかわからない。しかし、考える間もなく、依利比古は霊剣を抜き放った。


「────何をしている!」


 問いかけると同時に、炫毘古の喉元に剣先を突きつける。


「これは、依利比古さま」


 依利比古の顔を見上げながら、炫毘古は剣先から逃れるようにゆっくりと身を起こした。アカルの首からも手を放す。

 炫毘古の手から解放されたアカルは、起き上がって喉を押さえ、苦しそうに咳き込んでいる。アカルの無事な姿を確認してから、依利比古は再び炫毘古に顔を向けた。


「どうして朱瑠がここにいる? 何をしていた?」


「何って、ちょっとした暇つぶしだ。久しぶりに朱瑠が泡間あわいに現れたから、遊んでやっただけだ」


 炫毘古がそう言うと、依利比古は彼に向けていた剣を下ろした。問い詰めたところで、彼が本当のことを言うはずがない。アカルに訊いた方が良いだろう。そう思って見下ろすと、こちらを向いたアカルと目が合った。


「どうして炫毘古を斃さない!」


 以前と同じ言葉で、アカルは依利比古を問い詰めた。


「あんたが居るんだから、ここは大王おおきみの都なんでしょ? 魔物に喰われた人がいるんでしょ? あんたはこの期に及んで、まだ魔物の手を借りるつもりなの?」


 アカルの言葉が胸に突き刺さる。しかし、今の依利比古には、それを表に出さないだけの理性があった。


「そなたには関係ない」


 素っ気なく答える。

 最後に会った二年前よりも痩せて大人びたアカルの顔を、依利比古は静かに見返した。


「関係なくないよ!」


 アカルは尚も言い募ろうとしたが、その言葉を依利比古は遮った。


「どこから来たのか知らないが、死にたくなければ私が居るうちに去れ。他人のことより、自分の事を心配しろ────私はいずれ、北海諸国も手に入れる。高志こうし国の次は西伯さいはく智至ちたるへ攻め上る。そなたの里も逆らえば滅ぼすぞ」


 アカルの大きな目が驚いたように見開かれた。


「依利比古! いい加減に目を覚ましてよ……あんたは豊比古なんでしょ? 炫毘古は────」


 何かを言おうとしたアカルが、突然消えた。息を呑む依利比古の前で、白銀色の目が弧を描いた。


「依利比古、遊びの時間は終わりだ」


 不気味な呟きを残して、炫毘古もまた一瞬で消えてしまった。



 〇     〇



 矢速のことを依利比古に伝えようとした時、また視界が歪んだ。

 グルグルと歪みねじれる空間に放り込まれ、アカルは眩暈と頭痛に頭を抱えた。


 気がつくと、アカルは夜玖やくの屋敷に戻っていた。離れ宮の縁台の上に倒れていた。

 さっきまで居た場所は薄暗かったのに、こちらはまだ空が明るい。一瞬夢を見ていたのかと思ったが、身に纏っているのは旅装だ。ただし、宵芽よいめが宿ったトビだけがいなくなっていた。


「しまった……宵芽の無事を確かめてない」


 起き上がろうとしたが、体に力が入らなかった。削り花を作り過ぎた時のように、自分の霊力が空っぽになっているのがわかる。


(過去視に、力を使い過ぎたのか?)


 もう一度泡間へ戻ろうと感覚の手を伸ばそうとしても、途中で霧散してしまう。


(ごめん宵芽……必ず行くから)


 瞼が重くなり、意識が暗闇に吸い込まれる。


 眠りに落ちたアカルは、自分が波海であった時代の夢を見た。

 二つに分かれた祖国を出て、南に新しい国をつくったこと。そこで伴侶を得て、子を成したこと。やがて同盟の証として波海の手から奪われる運命の息子、武早たけはやの夢を────。


  

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