三 尹古麻(いこま)の国主
翌日の夕刻、
革の短甲を身に着けた十人ほどの小隊を引き連れて来た彼は、雄徳山砦の門をくぐった所で馬を降りた。
「
小隊の先頭で男が手を上げた。壮年の、背の高い偉丈夫だ。黒くて硬そうな髪は上半分だけ後ろに束ね、残りは肩の辺りで風に靡いている。太い首には碧玉で作られた勾玉の首飾りがある。年を重ねても現役の戦士の風格を漂わせる長洲彦は、
迎えに出ていた櫛比古が、一歩前に出た。長洲彦に答えるように軽く手を上げる。
「長洲彦殿、到着早々に悪いが話を……」
「おお、そうであったな。だが、夕餉くらい食べさせてくれ────おおい、奥の間に夕餉を持て」
櫛比古と連れ立って歩きながら、長洲彦は近習の者に用を言いつける。櫛比古の心配そうな顔に気づきもしない。
アカルと
「あれで、櫛比古さまの方が、十歳ほど年上なんだそうだ」
「へぇ、同じくらいかと思った」
櫛比古も、かつては剣を手にしていたのだろうが、今は文人に近い。長洲彦と並ぶと随分ほっそりして見える。
「長洲彦さまは、信じてくれるかな?」
豪快な気性の長洲彦は、
「さぁな。信じてもらうしかあるまい」
兼谷の言う通りだとは思うのに、一度芽生えた不安は大きくなるばかりだ。
奥の間には既に夕餉の準備が整えられていた。長洲彦は座に着くなり櫛比古に酒を注いだ。
「本当に久しぶりだな。会うのはいつ以来だろうか?」
長洲彦はこの再会をとても喜んでいて、櫛比古が口を挟む隙さえ与えてくれない。
「もっと早く来るつもりだったんだが、出がけにちょっとゴタゴタしてな。このように長く待たせてしまって、本当に申し訳ない」
ガシガシと頭を掻き、一気に酒をあおる。その隙を突いて、櫛比古が尋ねた。
「ご家族はお元気か? 身辺に何か変化はないか?」
「何だ何だ? わしの心配ならいらんぞ。家族もみな元気だ。おぬしの大事な話とはそんなことか?」
ガハハハッと豪快に笑い飛ばす。
櫛比古は憂い顔のまま嘆息した。長い付き合いの彼でも、長洲彦に先視の話を信じさせるのは、容易ではないらしい。
「長洲彦……そなたは笑うが、私は真面目に言っているのだ。私が師と仰ぐ
櫛比古は一気に話を核心まで持って行った。
長洲彦は神妙な顔でうぅむと唸ってから、ニカッと笑った。
「心配するな。尹古麻は大丈夫だ。おぬしは少々、心配性なところがあるからなぁ。さぁ飲め飲め」
まだ減っていない櫛比古の酒杯に、さらに酒を注ごうとする。
「しかし────」
「
長洲彦は、昔を懐かしむように目を細めた。
「もう二十年も前の話だが、国輝を初めて見た時、わしは信用できる男だと思った。
館に招き、話を聞いてみれば、遠い筑紫から来たと言う。しかも、兄に追放され、自ら新天地を求めてやって来たと言うじゃないか。わしはそれを聞いた時、我が曾祖父を思い出した────」
遠い目をする長洲彦につられ、櫛比古も遠い過去に想いを馳せた。
その時代、彼らの祖先は
「
櫛比古が呟くと、長洲彦は大きく頷いた。
「我が曾祖父は、おぬしと同じ與呂伎の領主になった。だが国主の座を奪われた腹立ちは収まらず、臣下を引き連れて出奔した。当時の鳥見には、在来の民に智至の民が入り込んで鳥見の里をつくっていた。山に囲まれた鳥見の里は、故郷とはまるで違っていたが、曾祖父はここで生きていくと決めたのだ」
長洲彦は、尹古麻の初代国主となった曾祖父を尊敬している。
「わしは国輝を見た時、まるで曾祖父が蘇ったような気がしたんだ。わしは、あやつを気に入っている。わしには子がおらぬから、甥の
誇らしげに胸を張り、長洲彦はそう言った。
そこまで断言されては、何も言えない。これ以上言い募ったところで、不和の種を蒔きに来たかと不審がられるのがオチだろう。
そうか、と頷き、櫛比古は視線を落とした。
夕闇の中庭に目を向けると、もみじが鮮やかな赤朽葉色に染まっていた。葉の根元に残る緑は、篝火の灯りが届かず黒く沈んでいる。もう冬が近い。あと数日もすれば、真っ赤なもみじも、ただの朽葉色に変わってしまうだろう。
櫛比古は、覚悟を決めたように顔を上げた。
「長洲彦……久しぶりに尹古麻の山を拝みたい。私を
どうだろう、と櫛比古は首を傾げた。先視の話など忘れたように、穏やかな笑みを浮かべる。しかし長洲彦は、大きなため息をついて肩を落とした。
「残念だが、今は無理だ。実は、鳥見池が氾濫しそうなのだ。大雨でもなければそうそう水が増えることはないんだが……今は増水の原因を探るべく、下流を見に行かせてる。明日にも報告が来るはずだ。わしも戻り次第、鳥見の里へ向かうつもりだ」
「そうか……忙しい所を呼びつけて、済まなかったな」
「いや、わしもおぬしに会いたかった。落ち着いたら使いを出すから、ぜひ来てくれ」
長洲彦の誘いに、櫛比古は静かに頷いた。
友を救いたい一心で巨椋池までやって来たが、その目的は果たせなかった。櫛比古は暗い面持ちで酒を
後ろに控えるアカルに、束の間視線を向ける。彼の目は、胸が痛くなるほど悲哀に満ちていた。
翌日。雄徳山の麓で、櫛比古と長洲彦は別れの挨拶をすませた。
長洲彦は馬上で大きく手を振り上げると、小隊を引き連れて帰って行った。
櫛比古は巨椋池に船を用意させながら、草原の中に消えてゆく騎馬の一団を長い間見送っていた。
「さて、私たちも出発しよう」
櫛比古は昨夜からずっと元気がない。悲しそうな微笑を浮かべているのが、とても痛々しい。
「どうにかならないの?」
アカルが兼谷を見上げると、兼谷は唇を歪めたまま小さく
「船で来た俺達には馬もない。尹古麻まで追って行くのは無理だ」
兼谷の言葉は、ひどく現実的なものだった。確かに、徒歩での移動は限界がある。仮に追って行ったところで、鳥見池の問題で長洲彦は忙しい。結局は門前払いされてしまうだろう。
「ほら、さっさと船に乗れ」
兼谷に頬をつねられて、アカルはしぶしぶ船着場へ向かった。
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