二 雄徳山の砦


「あれが、巨椋おぐら池だ」


 小舟の舳先に立つ櫛比古くしひこが、夕暮れの平原を指さした。

 急に山が開けて、小舟は平原の中を緩やかに進んでいる。櫛比古の指さす方向には枯れ色の葦原があるだけで、池らしいものは見えない。夕日色に染まった葦の穂が、ゆらゆらと風に揺れているだけだ。

 そこが池だと分かったのは、川の流れのまま葦原を抜けた時だった。


「本当だ……大きな池だ!」


 急に広がった水面にアカルは驚きの声を上げたが、再び疲れたように膝を抱えた。


 與呂伎よろぎを出て淡海あわうみを南へ下り、南岸にある勢多せたの里で宿を借りたのは昨日のことだ。今朝は早くから、山中を蛇行する川をひたすら下った。

 たった数日で巨椋池まで来られたのは、船を漕いだ與呂伎の武人たちのおかげだ。しかし、蛇行する川に酔ったのか、アカルは船尾に座り込んでぐったりと膝を抱えている。


「もう少しで対岸に着く。雄徳山の砦までは、俺が担いで登ってやる」


 與呂伎の武人に交じって舟を漕いでいた兼谷は、顔色の悪いアカルに気遣わしげな目を向けた。

 背に深手を負ってからのアカルは、元気そうにしていても以前とはまるで違う。息切れこそなくなったが、疲れやすく体力がない。


「いいよ、自分で歩けるよ。兼谷の手を借りたら、後でネチネチ言われるからな」


 アカルは笑いながら体を起こした。軽口を叩いたことで、少し気力が戻ったようだった。


「ちっ、俺の親切を何だと思ってやがる」

 口の中でぼやくと、とんでもない答えが返ってきた。


「兼谷の親切は、水生比古さまの命令だからでしょ? それくらいわかってるよ」

「はぁ?」


 反論しようとして、寸前でやめた。アカルはもう兼谷の方など見ておらず、船縁から赤く染まった水面を眺めている。その横顔を、兼谷は眉をひそめたまま見つめた。


 アカルに初めて会ったのは、斐川ひかわの宮の広間だった。水生比古に対する不敬な態度に、猛烈に腹が立った。小娘に好き勝手をさせる水生比古にも、たぶん憤っていたのだろう。王族に対する不敬は万死に値する。そう信じて抜刀した。あの時の事は、今でも鮮明に覚えている。きっと、アカルもそうなのだろう。


 アカルの護衛として近くで暮らすようになって一年近く経つ。なのに、彼女にとって兼谷は、今でも自分を殺そうとした男のままなのだ。水生比古の命で仕方なく護衛をしていると思っている。確かに、そんな風に言い訳をしたこともあった。今更そうではないのだと言っても、きっと信じないだろう。

 出来る事なら、あの時の自分を消してしまいたかったが、そんな願いが叶う訳がない。

 舟をこぎながら、兼谷は嘆息した。



 半時ほどで、池の対岸にある大きな里にたどり着いた。

 すでに日は落ちて辺りは薄藍色に沈んでいたが、巨椋池の畔に広がる豊かな田畑を見ることは出来た。

 船着場の正面に集落があり、その向こうにこんもりとした低い山がある。この山が雄徳山で、山頂にある尹古麻いこま国の砦が櫛比古の目的地だった。


 木々に覆われた暗い山道を、一刻ほど黙々と歩く。切り開かれた広い山頂に着くと、いかにも砦らしい丸太を連ねた高い塀があり、正面には物見櫓のついた大きな楼門があった。

 内側に篝火が焚かれているのだろう。光を背にした楼門は黒く、堅固な雰囲気を醸し出していた。


 先触れを出していたので、櫛比古が着くとすぐに門扉が開いた。

 砦の中はたくさんの武人が忙しく行き来していたが、高床の建物がぐるりと四方を囲んだ奥の宮に通されると、急に静かになった。


長洲彦ながすひこさまからは、こちらでしばしお待ちいただくように、との返答を承っております」


 砦には、櫛比古が送った急使が待っていて、すでに尹古麻王から返事をもらっていた。


「しばらく、ここで待つことになるかも知れんな。」



 櫛比古が予想した通り、翌日の夕刻になっても、長洲彦は姿を現さなかった。

 奥宮の高楼から夕陽を見ようと櫛比古が言うので、アカルと兼谷は彼の後について行った。丸一日ゆっくり休んだので、みな梯子を上る足取りは軽い。

 雄徳山は丘といっても良いほど低い山だが、周りが平坦な土地なので遥か遠くまで見渡せた。


「南に山の連なりがあるだろう。あの山の向こうに尹古麻の都、火燧ひきりの宮がある。私は一度しか行った事はないが、山に囲まれた美しい国だ。さらに南へ行くと、この巨椋池よりも大きな鳥見とみ池がある」


 櫛比古の指さす方向には山並みが見えたが、その山裾からこちらへ向かう騎馬の群れは見えない。あと一刻もすれば日が落ちる。今日はもう、待ち人は来ないだろう。


「その火燧の宮まで、こちらから出向く事は出来ないのですか?」

 兼谷の問いに、櫛比古はかぶりを振った。


「招かれなければ無理だな。長洲彦には、とても大切な要件だと伝えてある。私が雄徳山に入ったことも伝わっているだろう。待てと言われたら待つしかない」


 友の身を案じているだろうが、櫛比古は冷静だった。


「櫛比古さま、この川の先にあるのは湖ですか?」


 アカルが、夕日に染まった西方を指さした。

 巨椋池に流れ込んだ三つの大きな川は、ここから一つの川となって西方へ流れ出ている。その向こうには、確かに大きな水辺が見えた。


「あれは河地湖かわちこだ。大きな内海で、瀬戸内に繋がっている」

「瀬戸内……」


 吐息のようなつぶやきが、アカルの口から洩れる。目は遠い河地湖に注がれたままだ。


「そなたらは、ゆっくりしているといい」


 櫛比古が高楼から下りて行っても、アカルは手摺にもたれて遥か遠い内海を眺めている。


「おい、下りないのか?」


 兼谷はアカルの肩に手をかけた。ハッとするほど細い肩から、兼谷はすぐに手を放した。


「もう少しここにいるよ。先に戻ってて」


 肩越しに振り返り、アカルは笑った。愁いを帯びたその笑顔を見て、何を考えているのかわかってしまった。


「お前……また鷹弥のことを考えていたのか」


 いつものように、思いきり馬鹿にしてやるつもりだった。けれど、素直に頷くアカルを見て、兼谷は言葉を続けることが出来なくなった。

 遠くにいる男を想い続けるアカルを見る度、苛立ちを覚える。早く忘れてしまえば良いのに。その方がずっと楽なのに。

 アカルを見ていると、智至ちたるにいた頃の自分を思い出す。


 姫比きびから戻った兼谷を待っていたのは、懐妊した白珠姫だった。アカルを殺せと命じた事などすっかり忘れたように、日に日に大きくなるお腹を大事に抱え、明るく笑っていた。

 彼女は兼谷の存在すら忘れていた。そのことに気づいた時は、愕然とした。今までの自分は何だったのだろう。彼女の気まぐれに使われただけなのか。

 一刻も早く、忘れてしまいたかった。けれど、斐川の宮にいる限りそれは難しい。彼女の良く通る高い声が響く度に、胸の奥が炎で焙られるように痛かった────だから、水生比古がアカルの護衛を夜玖やくに命じた時、自分に行かせてくれと懇願した。


 岩の里での生活は、兼谷の心を自然と癒してくれた。

 再び白珠姫の声を聞いた時、自分がどう感じるのかはわからない。だが、今の兼谷は、もう彼女の面影を追ってはいない。

 アカルにも、自由になって欲しかった。

 ここにはいない相手に、自分を突き放した相手に、ずっと囚われている必要はない。痛む胸を抱えたまま想い続けて、何になると言うのだ────考えるほどに、兼谷の苛立ちは降り積もってゆく。


「いつまでそうしてるつもりだ? どんなにお前が想っても、そいつは戻って来ないんだろう?」

 傷つける覚悟で、兼谷はアカルに詰め寄った。

「側にいてくれない男を、ずっと待つのか?」


「別に、待ってる訳じゃない」


 アカルは横を向いた。眉間には深い皺が刻まれ、引き結んだ唇は不満そうに歪んでいる。


「無理すんなよ」

「してないよ!」


 横を向いたアカルの頬に、兼谷は手を伸ばした。

 驚いたアカルが、眉をひそめてこちらを見る。


「そんな奴のことなんか、早く忘れろ。俺なら、ずっとお前の側に居てやるのに……」


 囁くようにそう言うと、アカルは一瞬ぽかんとしてから、再び眉をひそめた。


「どうしたの? 白珠姫のことを忘れたいなら、他をあたってよ。私は、鷹弥を忘れたい訳じゃないんだ」


 アカルは口を尖らせる。

 そう言うだろうと、半ば予想はしていた。アカルの気持ちは固い。何を言っても揺るぎもしない。


「お前って、つくづく哀れな奴だな」

 兼谷はため息を吐きながら、アカルの頬を思い切りつまんだ。

「仕方がない、俺の胸を貸してやる。好きなだけ泣け」


 背中を引き寄せ、自分の胸にアカルの頭を押しつけた。


「いいよ、泣かないって!」

 アカルは兼谷の胸を押し戻し、不満げな顔で彼を見上げた。

「あんたが変なこと言うから、涙も引っ込んじゃったよ」


「何だよ、俺のせいかよ?」


 兼谷はアカルから手を放し、両手を腰にあてた。怒って元気が出たのか、アカルの顔から憂いは消えている。それで満足することにした。


 いつの間にか日は沈み、西の空からも色が消えている。彼方に広がる河地湖も、薄青色の中に沈み、大地との境は見えなくなっていた。


  

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