十五 武早(たけはや)


 三代前の智至ちたる王。水生比古みおひこの曽祖父にあたる武早たけはやは、南那なな国の王子だった。

 敵対する伊那いな国を牽制するために、南那国と智至国との間で同盟が結ばれた時、彼はその証として智至国へ婿入りした。当時五歳の幼子は、言わば人質のようなものだった。


 北の伊那国が、南の南那国に向けて動けば、東の智至国が攻める。生まれたての南那国を守るために、その同盟が必要だったことはアカルにも理解できた。ただ、利が明らかな南那国とは違い、当時の智至国の思惑は不明だ。


 櫛比古くしひこが保管している古い木簡は、武早王が記したものが一番古いらしく、当然ながら、五歳当時の国の情勢などを書き記したものはないだろう。

 それでも、書庫への出入りを許されたアカルは、薬草園の世話が終わると毎日書庫へ行き、古い記述を探した。もちろん、兼谷かなやも一緒に。


「山猿のくせに、書が読めるとは驚きだな」

 木簡の山から役に立ちそうなものを探しながら、兼谷が揶揄からかう。


「渡海人の字は、ばば様に教わったんだ。周りの国々とは、これから関わりが増える。そうなった時に、同じ字が読めないと困るからってさ」


「あの婆さんか。なるほどな」

 うへッと顔を歪めて、兼谷が頷く。


「本当に助かったよ。古の民は【あわうた文字】を使うけど、外の世界じゃ通用しないからね」


 アカルは木簡に目を通しながら、兼谷の軽口に答えた。けれど、文字を追う目はどこか上の空だった。

 櫛比古から武早の名を聞いた時、懐かしいような不思議な痛みが胸に込み上げた。それはもう、どこかへ消えてしまったけれど、気がつくと、武早のことばかり考えている。


(この気持ちは、何なのだろう?)


 もう何日も考えているのに、わからない。このままでは、魔物の正体を探す仕事に集中できそうもない。

 アカルは木簡から顔を上げて、隣の棚の前に立つ兼谷を見上げた。


「ねぇ兼谷。あんたは武早王のことを、どれくらい知ってるの?」


 そう訊くと、兼谷は手を止めてアカルの方へ首をひねった。


「俺らの世代は、子供の頃に聞く英雄譚といえば、武早王のことばかりだったな。けど、それほど詳しい訳じゃない。誰もが知る程度だ」


 誰もが知る英雄。櫛比古が語った祖父像も、まさしくその通りだった。

 五歳で婿入りしてきた武早は、幼くしてその才能を開花させ、初陣では、長年鉾を交えて来た宿敵、高志こうし国の船を沈めた。その功績が認められ、彼は智至の世継ぎの王子となった。


「確かに、英雄だったんだろうね。渡海人の王は、王の息子が次の王になるのに、武早は入り婿で王になったんでしょ?」


「ああ、それな。英雄譚には出てこないが、それに関しちゃあ、ゴタゴタはあったらしいぞ」


「そうなの?」


「王には息子もいたし、甥もいた。そいつらにしたら、他国の王子に、王位を搔っ攫われたようなもんだからな」


 能力のある者を長に戴くいにしえの民とは違い、渡海人がつくった国では、王族というのは特別な存在だ。自分のものだと思っていた王位が、別の国から来た男に奪われたら────王子の不満は容易く想像できる。


「まさか、内乱にでもなったのか?」


「いや。それはなかったらしい。絶対の力を持つ王が、世継ぎは武早だと言い張った

んだ。だが、不満を抱えた王子やその側近たちは、国を出て行ったらしい」


「ああ、そういう事か。嫌だね。だから最初から王なんか決めなきゃいいのに」


 アカルが肩をすくめると、兼谷は木簡の先でアカルの頭を小突いた。


「猿山の長を決めるのとは違うんだ。大きな国に支配者がいるのは必然なんだ」

「そうかなぁ?」


 確か二年前にも、水生比古みおひこから同じような事を言われた。小さな里では可能な事も、大きな国では不可能だと、彼は言った。

 本当にそうなのだろうか。試してみたわけではないのに、不可能だと決めつけているのではないか。そう思ったが、多くの人が関わると、己の利ばかり追求する者が増え、公平な話し合いが出来なくなることは、何となく想像できた。


 はぁっ、とアカルは嘆息した。


(武早のことは一旦忘れよう。この木簡の山から、尹渡いと国の火の神伝説に関する記述を探さなきゃ……)


 毎日書庫に通い、かなりの木簡に目を通したが、それでも與呂伎よろぎの書庫にある木簡のほんの一部に過ぎない。櫛比古も仕事の合間に手伝ってくれてはいるが、いつになったら目的の書簡にたどり着けるかは、もはや運次第としか言いようがない。或いは、そんな書簡はなかったと確認することになるかも知れない。どちらにしても、今は探すしかないということだ。


 アカルたちが書庫に入り浸っているうちに、いつの間にか夏は過ぎ、朝夕は涼風が吹く季節になっていた。この王宮が、山に近い高台にあるせいかもしれないが、朝は驚くほど気温が下がり、冬の気配が忍び寄っている。


(冬になる前にカタをつけたいな。ばば様の先視の件も、わかるといいんだけど……)


 木簡を見つめたまま、つい別の事を考えてしまう。

 アカルがため息を漏らした時、櫛比古が書庫に入って来た。


「少し休憩したらどうだ? 根を詰めても、集中しなければ効率が悪いぞ」


 まるで、アカルの心を見透かしたようなことを言う。


「回廊に茶の用意をしてある」

 そう言って、櫛比古は踵を返す。


 アカルと兼谷は顔を見合わせてから、木簡を元の場所に置き、櫛比古の後に続いた。

 書庫を囲む回廊の東側、淡海を見下ろせる一画に、茶器の乗った高御膳が用意されていた。櫛比古が回廊に座ったので、アカルたちもそれに倣った。


「ここからの眺めは、私の平宮の次にいいんだ」


 高台から見る淡海は、確かに美しい。すでに空の青は薄くなり、たなびく雲には僅かに朱が差している。書庫に居過ぎて気づかなかったが、いつの間にか日が短くなっていたのだ。もうすぐ山の影に陽が沈む刻限だろう。

 空と同じく、湖面も夕日色に染まり始めている。ここからは淡海のはるか遠くまで見渡せるが、対岸は見えない。


「この淡海の向こうにも、国があるのですか?」


 與呂伎よろぎに来て随分経つというのに、アカルは今初めて、この海のように広大な湖の先が気になった。


「もちろんだよ。左手の北海沿岸には高志こうし国、東の対岸には多雅たが国がある。淡海の南から更に南下すれば、尹古麻いこま国がある。どの国とも仲良くやっているよ」


「……尹古麻?」


 その国の名には、聞き覚えがあった。たぶん姫比きびに居た時に聞いたのだろう。冬至の祝いの時には、瀬戸内の国々からたくさんの使者が来ていたから、直接関わらない北宮の下働きにも、他国の名を聞く機会があったのだろう。その記憶の残滓だ────そう思うのに、何かが頭に引っかかる。


「どうした? 尹古麻に何かあるのか?」

 茶をすすっていた兼谷が、首を傾げる。


「いや、何でもな────」


 かぶりを振った瞬間、姫比きびの南宮の一室が頭の中に閃いた。御簾をくぐって退室する壮年の男の姿と、それに重なるように、依利比古の声が頭に響く。


「あっ……思い出した! 尹古麻の使者を、依利比古いりひこは自分の叔父だと言ったんだ!」


 あの時は珠美を助ける事で頭が一杯で、大したことではないと思っていた。すっかり忘れていたから、水生比古みおひこにも報告していない。依利比古の生い立ちを知る今なら、依利比古の叔父が、あの武輝たけてる王の兄弟だとわかる。


「依利比古は、春になったら姫比へ向かうと言っていたんだ。もう一年以上前の話だ。今頃はどこにいるか分からない。何がどう関係するのかわからないけど、嫌な予感がする……」


「なるほど……」

 アカルの不安が伝染したように、櫛比古の表情も曇っていた。


「尹古麻の国主くにぬし長洲彦ながすひこは私の友人だ。我が祖父、武早が王位を得た時に、彼の曾祖父は智至を出て行った。同じ祖を持つ一族ながら、和解できたのは私の代になってからなのだ」


「それじゃ尹古麻は……武早に王位を奪われた王子が作った国なのですか?」


 アカルは呆然とした。聞いたばかりの歴史が、急に血肉を持って目の前に現れたようだった。


「良く分からないんですが、その尹古麻に、どうして都萬国の人間がいるんでしょうか?」


 兼谷の質問に、櫛比古は重々しく頷いた。


「長洲彦の義弟が、筑紫から来た男だということは聞いたことがある。だが、まさか都萬の王族にゆかりの者とは────」


 ハッとしたように櫛比古は立ち上がった。声を上げて近習の者を呼びつけると、尹古麻へ急使を差し向けるよう言いつける。


「櫛比古さま?」


 兼谷が声を掛けると、櫛比古は振り返った。普段と変わらぬ顔だが、憂いを帯びた目をしている。


「岩のばば様の先視は、尹古麻のことかも知れん。長洲彦には巨椋池おぐらいけの畔にある、雄徳山の砦で会いたいと急使を出したが、私は返事を待つつもりはない。明日の朝、船で巨椋池へ向かう。そなたらはどうする?」


「行きます!」


 何かに突き動かされるようにアカルは答えた。考えるいとまもなかった。

 もしも運命の神が居るのなら、今はその手のひらに乗ってもいい。岩の巫女の予言を回避するためなら、アカルはどんな危地にでも飛び込む覚悟だった。


「では、俺も、お供させて頂きます」


 少し間をおいて、兼谷が恭しく頭を垂れた。


                 第八章 尹古麻国 ──慟哭── に続く

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