十五 武早(たけはや)
三代前の
敵対する
北の伊那国が、南の南那国に向けて動けば、東の智至国が攻める。生まれたての南那国を守るために、その同盟が必要だったことはアカルにも理解できた。ただ、利が明らかな南那国とは違い、当時の智至国の思惑は不明だ。
それでも、書庫への出入りを許されたアカルは、薬草園の世話が終わると毎日書庫へ行き、古い記述を探した。もちろん、
「山猿のくせに、書が読めるとは驚きだな」
木簡の山から役に立ちそうなものを探しながら、兼谷が
「渡海人の字は、ばば様に教わったんだ。周りの国々とは、これから関わりが増える。そうなった時に、同じ字が読めないと困るからってさ」
「あの婆さんか。なるほどな」
うへッと顔を歪めて、兼谷が頷く。
「本当に助かったよ。古の民は【あわうた文字】を使うけど、外の世界じゃ通用しないからね」
アカルは木簡に目を通しながら、兼谷の軽口に答えた。けれど、文字を追う目はどこか上の空だった。
櫛比古から武早の名を聞いた時、懐かしいような不思議な痛みが胸に込み上げた。それはもう、どこかへ消えてしまったけれど、気がつくと、武早のことばかり考えている。
(この気持ちは、何なのだろう?)
もう何日も考えているのに、わからない。このままでは、魔物の正体を探す仕事に集中できそうもない。
アカルは木簡から顔を上げて、隣の棚の前に立つ兼谷を見上げた。
「ねぇ兼谷。あんたは武早王のことを、どれくらい知ってるの?」
そう訊くと、兼谷は手を止めてアカルの方へ首をひねった。
「俺らの世代は、子供の頃に聞く英雄譚といえば、武早王のことばかりだったな。けど、それほど詳しい訳じゃない。誰もが知る程度だ」
誰もが知る英雄。櫛比古が語った祖父像も、まさしくその通りだった。
五歳で婿入りしてきた武早は、幼くしてその才能を開花させ、初陣では、長年鉾を交えて来た宿敵、
「確かに、英雄だったんだろうね。渡海人の王は、王の息子が次の王になるのに、武早は入り婿で王になったんでしょ?」
「ああ、それな。英雄譚には出てこないが、それに関しちゃあ、ゴタゴタはあったらしいぞ」
「そうなの?」
「王には息子もいたし、甥もいた。そいつらにしたら、他国の王子に、王位を搔っ攫われたようなもんだからな」
能力のある者を長に戴く
「まさか、内乱にでもなったのか?」
「いや。それはなかったらしい。絶対の力を持つ王が、世継ぎは武早だと言い張った
んだ。だが、不満を抱えた王子やその側近たちは、国を出て行ったらしい」
「ああ、そういう事か。嫌だね。だから最初から王なんか決めなきゃいいのに」
アカルが肩をすくめると、兼谷は木簡の先でアカルの頭を小突いた。
「猿山の長を決めるのとは違うんだ。大きな国に支配者がいるのは必然なんだ」
「そうかなぁ?」
確か二年前にも、
本当にそうなのだろうか。試してみたわけではないのに、不可能だと決めつけているのではないか。そう思ったが、多くの人が関わると、己の利ばかり追求する者が増え、公平な話し合いが出来なくなることは、何となく想像できた。
はぁっ、とアカルは嘆息した。
(武早のことは一旦忘れよう。この木簡の山から、
毎日書庫に通い、かなりの木簡に目を通したが、それでも
アカルたちが書庫に入り浸っているうちに、いつの間にか夏は過ぎ、朝夕は涼風が吹く季節になっていた。この王宮が、山に近い高台にあるせいかもしれないが、朝は驚くほど気温が下がり、冬の気配が忍び寄っている。
(冬になる前にカタをつけたいな。ばば様の先視の件も、わかるといいんだけど……)
木簡を見つめたまま、つい別の事を考えてしまう。
アカルがため息を漏らした時、櫛比古が書庫に入って来た。
「少し休憩したらどうだ? 根を詰めても、集中しなければ効率が悪いぞ」
まるで、アカルの心を見透かしたようなことを言う。
「回廊に茶の用意をしてある」
そう言って、櫛比古は踵を返す。
アカルと兼谷は顔を見合わせてから、木簡を元の場所に置き、櫛比古の後に続いた。
書庫を囲む回廊の東側、淡海を見下ろせる一画に、茶器の乗った高御膳が用意されていた。櫛比古が回廊に座ったので、アカルたちもそれに倣った。
「ここからの眺めは、私の平宮の次にいいんだ」
高台から見る淡海は、確かに美しい。すでに空の青は薄くなり、たなびく雲には僅かに朱が差している。書庫に居過ぎて気づかなかったが、いつの間にか日が短くなっていたのだ。もうすぐ山の影に陽が沈む刻限だろう。
空と同じく、湖面も夕日色に染まり始めている。ここからは淡海のはるか遠くまで見渡せるが、対岸は見えない。
「この淡海の向こうにも、国があるのですか?」
「もちろんだよ。左手の北海沿岸には
「……尹古麻?」
その国の名には、聞き覚えがあった。たぶん
「どうした? 尹古麻に何かあるのか?」
茶をすすっていた兼谷が、首を傾げる。
「いや、何でもな────」
「あっ……思い出した! 尹古麻の使者を、
あの時は珠美を助ける事で頭が一杯で、大したことではないと思っていた。すっかり忘れていたから、
「依利比古は、春になったら姫比へ向かうと言っていたんだ。もう一年以上前の話だ。今頃はどこにいるか分からない。何がどう関係するのかわからないけど、嫌な予感がする……」
「なるほど……」
アカルの不安が伝染したように、櫛比古の表情も曇っていた。
「尹古麻の
「それじゃ尹古麻は……武早に王位を奪われた王子が作った国なのですか?」
アカルは呆然とした。聞いたばかりの歴史が、急に血肉を持って目の前に現れたようだった。
「良く分からないんですが、その尹古麻に、どうして都萬国の人間がいるんでしょうか?」
兼谷の質問に、櫛比古は重々しく頷いた。
「長洲彦の義弟が、筑紫から来た男だということは聞いたことがある。だが、まさか都萬の王族にゆかりの者とは────」
ハッとしたように櫛比古は立ち上がった。声を上げて近習の者を呼びつけると、尹古麻へ急使を差し向けるよう言いつける。
「櫛比古さま?」
兼谷が声を掛けると、櫛比古は振り返った。普段と変わらぬ顔だが、憂いを帯びた目をしている。
「岩のばば様の先視は、尹古麻のことかも知れん。長洲彦には
「行きます!」
何かに突き動かされるようにアカルは答えた。考える
もしも運命の神が居るのなら、今はその手のひらに乗ってもいい。岩の巫女の予言を回避するためなら、アカルはどんな危地にでも飛び込む覚悟だった。
「では、俺も、お供させて頂きます」
少し間をおいて、兼谷が恭しく頭を垂れた。
第八章 尹古麻国 ──慟哭── に続く
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