十二 北海の旅


「では頼んだぞ、アカル。気をつけてな」

「はい」


 夜明けと共に、アカルは老巫女の高殿で挨拶をすませた。

 葦簀の戸をくぐって外へ出ると、薄青い朝靄が漂うきざはしに、兼谷かなやが座っていた。


與呂伎よろぎへ行くんだって?」

 兼谷は肩越しに振り向いて、アカルを見上げている。


「うん。ばば様の使いなんだ。丁度いいから、兼谷も智至ちたるへ戻りなよ」


 兼谷にはこの半年、ずいぶんと世話になった。もうそろそろ、自由になって欲しい。


「戻る?」

 喜んでくれると思ったのに、兼谷は片方の眉を上げて変な顔をする。

「何を言ってやがる。お前、與呂伎へ行ったことがあるのか?」


「え、ないよ。でも、山を越えて東へ行けばいいんでしょ? 大きな湖の近くだって言うし、大丈夫だよ」


「馬鹿を言うな。お前、淡海あわうみの大きさを知らないだろ。大体、どうやって山を越えて行くんだ。まさか歩きじゃないだろうな?」


 兼谷の言い方にカチンときて、アカルは唇を尖らせた。


「違うよ。大角鹿おおつのじかに乗せてもらう。姫比きびへもそうやって行ったんだ」


「はーぁ。これだから山猿は……いいか、ここから東は山が深くなる。北海沿岸の人間なら、與呂伎へ行くのは海路と決まってる。急ぎの用があるなら尚更だろ!」


「ふぅーん」

 アカルは不貞腐れた。


「何だそのつらは? 俺が與呂伎まで連れて行ってやると言ってるんだ。もっとありがたがれ」


「別に頼んでないよ。兼谷こそさぁ、海路とか言ってるけど、船がないじゃん」


「馬鹿にするな。昨日のうちに里長に頼んで、小舟を譲ってもらってる。俺の準備に抜かりはない!」


 兼谷はどや顔で立ち上がると、さっさときざはしを下り、入り江に向かって歩き出す。アカルは仕方なく兼谷の後を追った。

 入り江に着くと、本当に水や食料をのせた小舟が用意されていた。その傍らに、シリトが立っている。


「里長さま!」

「アカル、話は聞いた。くれぐれも、気をつけて行くんだぞ」


 シリトは心配そうな顔で、アカルの頭を撫でる。


「はい。ばば様のこと、頼みます」

「ああ、大丈夫だ」


 アカルが小舟に乗り込むと、兼谷が小舟を海へと押し始める。シリトも後ろから小舟を押している。浜に乗り上げていた小舟が水に浮くと、兼谷は勢いをつけて小舟に乗り込んだ。


「行ってきまーす!」


 浜辺に残ったシリトに向かって大きく手を振る。岩の里を囲む山はまだ朝霧に白く煙っている。


 カァー カァー


 入り江の出口まで来た時、鴉の鳴き声が聞こえた。空を見上げると、朝靄の中から白い鴉が飛び出して来て、アカルの肩にとまった。


「鴉の王、見送りに来てくれたのか?」

 アカルは微笑んだが、白鴉はクワッと嘴を開く。


『心配だから、オレもついて行く』

「……来てくれるの? 與呂伎まで?」

『アカルは岩の里から出ると、ろくな目に合わないだろ』


 あははとアカルは笑った。ちらりと兼谷に視線を向けるが、むろん、兼谷に白鴉の言葉は聞こえていない。


「兼谷、彼は鴉の王だ。一緒に行きたいって」

「勝手にしろ」


 兼谷が力強く櫓を漕ぎはじめると、小舟はすぐに小さな入り江から外海に出た。

 海に突き出た岩の里の岬が、だんだんと遠く小さくなっていった。



 〇     〇



 小舟は入り江を出て東へ進んだ。

 アカルは右手に見える陸地を眺めた。兼谷が言ったように、ずっと山が続いている。海岸線も切り立った崖や、入り組んだ岩場が多く、浜辺のあるところは少なかった。

 暑い日中は、編み笠を被って舟を漕いだ。鴉の王は、気まぐれに小舟と陸とを行き来しては、休めそうな場所を探して来る。夜は白鴉の指示にしたがって、小さな浜や岩場に舟を引き上げて休んだ。川のある場所では川を遡り、川岸で休んだ。


 そんな旅を続けて数日、小舟は大きな河口の近くを通った。川の両岸は断崖になっていて、その崖の上には、更に遠くまで見渡せそうなやぐらが建っていた。


「あれは多罵那たばな国の水門だ。この川の奥には大きな湖があって、多罵那の軍船いくさぶねがたくさん停泊しているらしい。ここには近づかないのが得策だ」


 その言葉通り、兼谷はぐいぐい櫓を漕いで、多罵那の水門から遠ざかった。


「多罵那とは仲悪いの?」

 アカルが訊くと、兼谷は眉間に皺を寄せて空を仰いだ。


「悪い、という訳じゃない。今でこそ、多罵那の船も北海を行き来しているが、俺たちが子供の頃まではそうでもなかったんだ。山に囲まれ、開けた港もないから、国交もそれほどなかった。多罵那は瀬戸内にも出られるから、向こうの国々と仲良くやってたんじゃないか。だから智至は、多罵那を飛び越して、高志こうし国と国交を結んだ。その昔は、戦の相手と言えば高志国だったから、高志国を見張る意味でも、これから行く與呂伎の飛び地は、智至の重要な領地だったんだ」


「へぇー」


 アカルは感心した。今まで兼谷のことを、ただの武闘派武人としか思っていなかったが、さすがは智至の武人だ。それなりに知識は持っている。


「お前……いま、失礼なことを考えてただろう?」

 兼谷が鋭い目を向けて来たので、アカルはふるふるとかぶりを振った。


「違うよ。見直してたんだって」

「じゃあ、今までは見縊みくびっていたってことだな?」

 目つきの悪い三白眼が吊り上がる。


「違うって! 私も鴉の王も、兼谷のこと感心してたんだよ。ね、鴉の王!」

『ただの阿呆ではないらしいな』

 白鴉もコクリと頷く。


「チッ、山猿と鴉が、偉そうに!」

 兼谷はしばらくの間、ブツブツと文句を言っていた。



 それから更に数日後、大きな湾に入った。

 二つの川が注ぐ入り江には、小舟から中くらいの快速船まで、たくさんの船が停泊していて、その先の丘には大きな集落が見えた。物見櫓や大屋根の高殿を中心に、たくさんの建物が建ち並んでいる。川の周辺に広がる水田には、青々とした稲が風に穂を揺らしている。


「ここが與呂伎よろぎの玄関口、和久わくの里だ」

「もう與呂伎に着いたのか? 大きな湖は?」


「まだだ! 玄関口と言っただろうが。ここから川に沿って東へ行けば與呂伎だ。峠越えにはなるが、それほど高い山じゃない。二日もあれば着けるだろう」


 そわそわするアカルの頭を軽く小突くと、兼谷は小舟を浜に押し上げた。


「今夜はここに泊まりだ。里長に挨拶しに行く。運が良ければ馬が借りられるかもしれん」

「わかった」


 兼谷にならい、アカルも荷物を持って集落に向かった。

 大屋根の高殿が里長の住まいなのだろう。兼谷の歩みに迷いはない。所々で立ち止まっては、里人と会話を交わしている。何度か来たことがあるのだろう。

 里の大きな門まで来た時、門衛と言葉を交わした兼谷が、勢いよくアカルに振り返った。


「すごいぞ! 櫛比古くしひこさまから迎えが来ているらしい。さすがは水生比古みおひこさまの御父上だ。先読みの力で、今日ここへ客が来ると分かっておいでだったのだ。天気次第では、明日中に與呂伎へ着けるかも知れんぞ!」


 嬉々として話す兼谷を、アカルはぽかんと見上げた。


(そうか、櫛比古さまは、ばば様の弟子だったくらいだもの。霊力は水生比古さま以上かも知れないな)


「今夜は久しぶりに、屋根の下で眠れるな。お前もゆっくり休め」

「うん」


 アカルも何だかホッとして、にっこりと笑った。


  

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