十一 白昼夢
光が眩しすぎて、人の姿は視えない。ただ騒然とした人の声だけが聞こえてくる。心がザワリと震える、不安を誘うような声だ。例えるなら、戦を前にした武人たちが上げる
次に視えたのは、知っている顔だった。その顔を実際に見たのは、彼がまだ少年であった頃だが、それからかなり年を重ねた顔になっている。その男が、涙を流していた。嗚咽を漏らさぬように口を押えたまま、滂沱の涙を流し続けている。
先に視た騒めきと関わる何かが、彼の身に起こったのだと、すぐにわかった。
(何が、あったのじゃ……クシヒコよ!)
岩の巫女は、思わず幻視の中の男に向けて問いかけた。
かつて、
あれから数十年の時が流れた。大人になった彼が、今は嘆き悲しみ、ただ力なく涙している。その理由が知りたくて、老巫女は眩い光を覗き込んだ。その先にある何かを、必死に視ようとした。
「────ばば様、ばば様?」
呼び声に邪魔されて、老巫女は目を開けた。
「こんな所でうたた寝ですか? いくら陽気が良いと言っても、風邪をひきますよ」
高殿の回廊に座り込んでいた岩の巫女を、里長のシリトが見下ろしている。
「うたた寝ではないわ。何と間の悪い!」
老巫女は忌々し気にチッと舌打ちする。
今まで見ていた白昼夢は、間違いなく
「何じゃ、何か用か?」
不機嫌丸出しに問いかけると、シリトは人差し指でポリポリと頭を掻いてから口を開いた。
「いや、用と言うか……カナヤはいつまでここに居るのか、お聞きしたくて」
「カナヤ? ああ、アカルの護衛か。気になるのか?」
「そりゃあそうです。俺は半端な気持ちで、アカルを妻にと申し出た訳ではありませんからね」
高殿の回廊からは、里の段々畑が良く見える。夏の日差しを浴びて、たくさんの里人が農作業をしている。その中にはもちろんアカルや兼谷の姿もある。
老巫女は、陽の光の中で働くアカルをじっと見つめた。このところ、瞳の中にあった暗さは影を潜め、本来の明るさを取り戻したように見える。迷いが吹っ切れたのだろう。
このままそっとしておいてやりたい気持ちと、それとは相反する感情が、老巫女の目を険しくする。
ややあって、老巫女は大きなため息をついた。
「シリトよ……お前、アカルのことは諦めてくれ」
「え?」
シリトは束の間、絶句する。
「まさか、あの
とんでもないシリトの思いつきに、老巫女は笑いながら首を振る。
「そうではない。やはり、運命に対抗するのは難しいという事じゃ」
「どういう意味ですか?」
首をひねるシリトを、老巫女は見上げた。
未来を視ても、伝えるか伝えないかは人の判断に委ねられる。正直なところ、老巫女はまだ迷っていた。
「ばば様?」
「わしはアカルが大事じゃ。あの子が危険な目に合わぬよう願っている。なのにわしは、再びあの子を、この里から外へ出そうとしている。きっと、それがわしの運命なのだろうさ。済まないねシリト。これからわしは、アカルに頼みごとをする。あの子は、断りはしないじゃろう」
この里に根を張り、外のことは忘れろと言ったのは己自身だった────それなのに。
老巫女はその萎びた口元に、自嘲の笑みを浮かべた。
その日の仕事が終わると、老巫女はアカルを高殿へ呼んだ。
夕暮れを見ながら二人で向かい合って夕餉をとり、里での暮らしや仕事のことなどを取りとめもなく話した。
「ねぇ、ばば様。そろそろ本題に入ってくれないか? まさか、また縁談話じゃないだろうな?」
呼びつけられた理由を勘ぐったアカルがそう切り出す。老巫女は仕方なさそうにため息をついた。
「そうじゃないさ。お前がまだ身を固めるつもりが無いのなら、ひとつ、わしの使いを頼まれてはくれないか?」
「使い?」
アカルが驚いたように訊き返す。
老巫女はゆっくりと頷いた。
「昼間、先視が降りて来たんじゃ。わしの弟子にそれを教えてやりたい。何かが起こる前に、防げるものなら防いでやりたいのじゃ」
「ばば様に、弟子がいたのか?」
「ああ。もう何十年も前の話さ。しかもそいつは、智至の
その名を聞いた途端、アカルは目を見開いた。
「櫛比古だって? その名前……水生比古さまから聞いたことがある。私はいずれ、櫛比古さまに会う事になるだろうって……そういう事か?」
アカルが問うと、老巫女は大きく頷いた。
「そういう事じゃ。今からお前に、わしが視たものを伝える」
老巫女がアカルの額に手をかざす。その瞬間、アカルの脳裏に、光の中から聞こえる声や悲しむ男の姿が映った。
「これは……戦なのか、ばば様?」
膝の上に乗ったアカルの手が、衣をぎゅっと握りしめる。
「わしもそう感じた。じゃが、場所まではわからぬ。櫛比古の友か、近い者が殺される。それにより、世に大きな流れが起こる気がするのじゃ」
「この先視を、私はどこへ持って行けばいい? 智至か?」
「いや。櫛比古は今、
「與呂伎か。わかった。明日の朝立つ」
アカルは立ち上がった。
それを目で追っていた老巫女は、やれやれ、と言うように
「お前が危ない目に合わないよう、早く身を固めさせようとしていたくせに、結局わしが、お前を運命の神の元へ戻してしまうのじゃな……だが、他の誰にも頼めないのだ」
そう言った老巫女は、いつもよりずっと年老いて見えた。
「ばば様……私に使いを頼んでくれてありがとう。私はずっと、自分を憐れんでばかりだった。十世や、依利比古や、魔物のことが気懸りだったのに、鷹弥のことばかり考えて、一歩を踏み出す勇気が出なかったんだ。ばば様のお陰で、ようやくその一歩を踏み出せるよ。必ず役目は果たすから、安心して」
「アカル、無茶はするでないぞ」
「うん。もうあんなヘマはしない。必ず無事に帰って来るよ」
アカルは老巫女を安心させるように、笑顔で高殿を後にした。
出発は、明日の夜明けだ。そうと決まれば、やることはたくさんある。アカルは急いで【
動きやすい衣や、旅に欠かせない携帯食は
「アカルちゃん、何をしているの?」
ごそごそと荷造りを始めたアカルを不審に思ったのだろう。イマリカが声を掛けて来た。
「ばば様の使いで出かけることになったんだ。明日からしばらく留守にするよ」
「え……元気になってきたばかりなのに、危険じゃないの?」
イマリカは不安そうに眉をひそめた。岩の里に戻ってからも、アカルは度々体調を崩した。今もまだ、元通りとは言えない。
「私は大丈夫。ばば様のことは頼んだよ」
「気をつけてね、アカルちゃん」
泣き出しそうなイマリカを、アカルはぎゅっと抱きしめた。
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