三 黒蜘蛛
「うわっ、何だこれ?」
アカルの腹に巻き付いた白い
慌てふためいていると、ぐいっと縄が上へ引かれた。
体が高速で上昇する。あっという間に天井近くまで持ち上げられ、そこで止まった。ふわりと宙を漂うような浮遊感に包まれる。
(どうしよう……)
白い縄から逃れたくても、粘着質の縄にこれ以上触れば、本当に身動きが出来なくなってしまう。自由な右手で衣の衿を握りしめたまま、アカルは成す術もなく視線を彷徨わせた。
アカルを捕らえている白い縄は、天井の角から伸びている。その源を確かめようと目を凝らすと、薄暗い影の中に黒い塊が見えた。
それは黒い毛に覆われた怪物だった。天井と壁の柱に頭を下にしてぶら下がり、上になった尻から白い糸を出している。体の左右についた沢山の足が、ざわざわと蠢きながらその糸を操っている。家や森の中にいる蜘蛛に極似しているが、とても虫と呼べる大きさではなかった。
「蜘蛛の神……いや、
そう思った途端、禍縄が振り子のように揺れだした。白い縄に引かれて、アカルの体が大蜘蛛の本体に近づいてゆく。冷たい汗が全身から吹き出した。
「うわっ……」
下向きになった大きな顎が、アカルを喰らおうとグワッと開く。鋭い牙のついたあの大きな上顎にかかれば、アカルの体などひと溜りもないだろう。
顎のすぐ上に並んだ黒くて丸い四つの目が、てらてらと不気味に光っている。
その目を見た瞬間、ゾクリと
アカルの体は蜘蛛の糸に縛られ、片手も粘着質の糸に搦め捕られている。このままでは、逃げることも反撃することも出来そうにない。
アカルの全身から、血の気が引いてゆく。
目を背けたかった。けれど、どんなに恐ろしくても、敵から目を逸らすことは出来ない。それは、自分から命を手放すことと同じだからだ。
(諦めたら……だめだ)
最後の一瞬まで、命を手放すことなど考えない。まだ生きていたい。
アカルは歯を食いしばった。
(もう一度、鷹弥に会うまでは……死ねない!)
振り子のように揺れながら、アカルは大蜘蛛を睨み続けた。すると、黒い毛に覆われた蜘蛛の体に、一点だけ白い所があることに気がついた。それは、蜘蛛の大きさに比してあまりにも小さかったが、黒光りする丸い目の上に張り付いた細い布のようだった。
(この妖は、
そう思ってよく見ると、細い布に描かれた文様には覚えがあった。山猫の王や、
(依利比古は、この座敷牢に結界を張ったと言っていた。ならば、ただの妖では結界を破れないはずだ)
ここは、
左右に揺れる糸に吊られて、体が大蜘蛛に近づいてゆく。
ぐわっと蜘蛛の口が開き、上顎の牙がアカル目掛けて勢いよく下りてくる。
「くっ……」
アカルは体を捻るようにして両足を上げると、下りてくる蜘蛛の上顎を思い切り蹴った。
運よく蜘蛛の
(蹴るんじゃ駄目だ。上へ飛ばないと!)
一か八か、アカルは呪符に狙いを定めた。
近づいて来る蜘蛛の顎を見つめながら、震える体に力を入れて、思い切り体を反らす。牙のある上顎が下りてくるその瞬間に、反動をつけて蜘蛛の目玉の上に飛び上がる。
「やった!」
黒いざわざわする毛の上に着地したアカルは、そのまま自由な右手を伸ばした────その瞬間、全身が震えた。
(……届かない!)
指一本分ほどのほんの僅かな距離が、アカルの指先と呪符の間に横たわっている。
「ううっ!」
力を込めて、肩から指先まで必死に伸ばしてみるが、それでも届かない。
「おい! 自由になりたくはないのか! お前を縛っている呪符を取ってやるって言ってるのに!」
叫んだ瞬間、ガクンと体が下へ引っ張られた。慌てて蜘蛛の黒い毛をつかむが、手の中でずるりと滑ってしまう。
上から繋がれていた蜘蛛の糸はいつの間にか消えていて、アカルの体を縛る白い縄の先は、下へと垂れ下がっている。その縄が、ズルズルと下へ引っ張られていく。
(こいつ……話が通じないのか?)
アカルを引きずり下ろす為に、蜘蛛が糸を巻き取るように食べ、獲物を口に引きずり込む姿が脳裏に浮かぶ。
このままでは、糸と一緒にアカルも蜘蛛に食べられてしまう。
「い、嫌だっ! お前なんかに……食べられてたまるもんか!」
食べることしか頭にない蜘蛛の妖に向かって、アカルは声を張り上げた。
〇 〇
依利比古は大屋敷に戻っていた。
大屋敷は河口の都、
アカルに追い出される形で座敷牢を後にした依利比古は、どうにも納得のいかない気持ちで一杯だった。アカルを牢に入れたのは自分で、生殺与奪の権利は自分にある。普通の娘ならば、恐れおののいて依利比古の命令を聞くはずなのに、アカルは依利比古に出て行けと言った。
「力が無いと言いながら、何と不遜な……」
依利比古は、その美しい顔には不似合いな
「朱瑠と私には、不思議な
そう呟いて短い息を吐き、依利比古は辺りを見回した。
その時、裏庭の端にある
「────どうしよう! 牢屋にいるお姉ちゃんが……た、食べられちゃうよ!」
粥を届けに行った少女が戻って来たのだろう。聞き取れた言葉に疑問は湧いたが、依利比古はすぐさま刀をつかんで身を起こした。
「結界があると言っておいたのに、あの娘、何をしでかしたのだ?」
薬湯で眠らせておいたアカルにそんな体力があるはずがない。頭ではそう思っていたが油断は禁物だ。古の巫女の力は、常識では推し量れない。
依利比古が牢屋敷の前まで駆けつけた時、カッと目を焼くような光が閃いた。
「なっ、なんだ今の?」
「うわぁ! ひぇっ」
戸口を守っていた二人の兵士が、声を上げながら足踏みをはじめる。
「どうした、何があった?」
依利比古が声をかけても、兵士たちは下を見たままあたふたしている。
(蛇か?)
下を向いた時はそう思った。黒いものが地面を這っているよう見えたからだ。しかし、蛇のように見えたものは、どうやら小さな虫のようだった。沢山の黒い虫がぞろぞろと連なり、牢屋敷の中から次々と這い出て来る。
「蜘蛛が、こんな真冬に?」
依利比古は眉をひそめて、兵士たちに向き直った。
「中はどうなっている?」
「は、特に異常はありません。炊屋の下女が落とした粥がそのままですが……中に入られますか?」
「入る」
兵士に戸を開けさせて、依利比古は中に入った。
薄暗い土間には割れた器と粥がぶちまけられていたが、蜘蛛はどこにもいなかった。ただ、座敷牢の中にアカルが倒れていた。血の気を失った顔は青白く、苦悶の表情を浮かべている。
依利比古は
息があることにホッとして額に手を触れる。アカルの肌は驚くほど冷たかった。
「手焙り火鉢と……毛皮をあるだけ持って来い」
「は、はい!」
二人の兵士が弾かれたように駆けて行くのを見送って、依利比古はアカルに視線を戻した。死人のような顔色をしたアカルが、これ以上体温を失わないように、依利比古は床に
「まったく、何故このようなことになる……」
生まれてこの方、看病などというものをした覚えは無いし、された記憶もない。神殿に居た幼い頃も、都萬国に引き取られてからも、偉大な日の巫女に仕えていた時だって、そんな温かいものとは縁がなかった。
「だが、お前に死なれては困るのだ」
少しでも温めようとアカルの体を抱き寄せた時、依利比古はアカルの手に目を止めた。腕は力を失ってだらりと垂れているのに、何故か右手だけきつく握りしめている。
無理やり手を開かせると、細長い布切れが出て来た。その布には、見覚えのある文様が描かれていた。
「これは……
依利比古の瞳が、冷たい色を帯びる。
「
宙に向かって声をかけると、どこからか白い小鳥が飛んできた。
『あれぇ? この娘、もうやられちゃったの?』
「お前、十世に何を言った?」
『何って……いろいろだよ。アカルのお陰でボクは解放されたけど、依利比古さまの味方だよって話とか、アカルは、西伯の千代姫の呪いを解いた巫女だよって話とか……ダメだった?』
悪びれることも無く
「もういい、行け」
『はぁい』
小鳥はパタパタと飛び立って空中で消えてゆく。
依利比古はもう一度ため息をついた。
気まぐれな
「依利比古さま、お持ちしました!」
兵士が手焙り火鉢と毛皮を持って戻って来た。
「中へ入れろ」
十世がアカルに敵対心を持ってしまったのは歓迎出来ないが、今はそんなことを考えている場合ではない。
依利比古は毛皮でアカルの体を包み込んだ。
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