二 毒虫


 金海国の城は、小高い丘の上にある、石造りの城壁に囲まれた堅固で優雅な建物だった。明るいうちに到着できたので、西伯さいはくの使節団はみな異国の城に見惚れた。

 アカルの知る八洲やしまの家や宮殿はみな木造りで、ここまで石をふんだんに使った建物を見るのは初めてだった。


「すごいな。これなら火矢も防げる」


 すぐ横を歩く夜玖やくも、感心したようにつぶやいている。

 いかにも武人らしい感想だったが、アカルは思わず頷いてしまった。

 大陸は長いあいだ激しい戦をしてきたというから、攻撃に使うほこや剣という武具が発達すると同時に、自然と防御の意識も高まったのだろう。戦で一番怖いのは、国を焼かれることだ。


 アカルは八神やがみの里を焼いたあの炎の夢を思い出した。

 火はすべてを焼き尽くす。人も里も思い出も、何もかも灰にしてしまう。すべてを焼かれたら、きっと戦う気力も失くすだろう。


「朱瑠、おい!」


 ハッと我に返って見上げると、夜玖が気まずそうに顎をしゃくった。そこには侍女が一人、不機嫌な顔で立っていた。


「ちょっと朱瑠! 夜までに千代姫さまのお支度を済ませなきゃいけないのよ。グズグズしないでちょうだい!」


 青葉あおばがここぞとばかりに文句を言ってくる。

 千代姫付きの侍女の中で上から三番目の青葉は、いわゆる役付きでない平の侍女をまとめるのが役目だった。


「すみません」


 アカルは素直に頭を下げて侍女たちに続いた。

 夜に開かれる宴は、千代姫の到着を祝うものであると同時に婚姻の宴でもある。

千代姫にとっては自分の一生をかけた勝負の場でもある。ぼんやりしている暇はなかった。




 日が暮れた頃、城壁内の一番大きな建物で婚姻の宴が行われた。

 回廊に囲まれた大広間は、中も外も明かりがふんだんに灯されている。

 金海の王や王子たちが居並ぶ一段高い宴席の中央では、第一王子サハと千代姫が並んで座り、重臣たちの祝福を受けている。


 千代姫付きの侍女たちは、姫の傍につく上位の二名を除いて壁際に並び、夜玖たち武官も、金海の武官と共に怪しい者がいないか目を配らせている。


 婚姻の宴は和やかに進んでいった。

 日が落ちるとまだ肌寒い日もあるが、この日は暖かく、開け放たれた窓からは心地の良い風が吹いてくる。

 まさに婚姻に相応しい春の宵だったが、当然のように妨害があると思い込んでいたアカルは、少し拍子抜けした。


(西伯では呪い殺そうとしたくせに、案外あきらめが良いのかな。まぁ、その方がいいけど)


 千代姫の覚悟を、誰にも邪魔されたくはなかった。

 アカルが広間を見わたすと、王族が並ぶ席の端に一つだけあった空席は、まだ空いたままだった。


(祝いの宴を欠席するなら、最初から席を設けなければいいのに)


 席の並びから見ても、空白の末席は王子か王女のものだ。

 もちろん、政略結婚にすべての人が賛同することは難しい。千代姫に否定的な人も居るだろう。わかってはいても、思わず眉をひそめて空席を見つめてしまう。

 千代姫は健気に笑顔を振りまいているが、心の中は不安と緊張で一杯のはずだ。


(これ以上、あの人を傷つけないでくれ……)


 アカルの心配をほぐすように、広間の中を優しい風が通り抜けてゆく。

 心地よい風に誘われるように後方に視線を移すと、重臣たちが背にした窓の向こうに、白い霞のようなものが見えた。


(何だろう?)


 それは、まるで半透明の小さな雲のようだ。

 アカルがじっと見ていると、やがて霞は風に乗り、開かれた窓から広間へ入ってくる。風に散らされることもなく、形を保ったまま、ゆっくりと広間の中を移動してゆく。このままなら、王族の宴席の中央に到達してしまう。


 ドクンと体中の血が波打った。

 得体のしれない気配がする。邪悪な気配ではないが、どうも嫌な感じがする。

 アカルは思わず、壁際の侍女の列から身を乗り出した。

 

(まずいな)


 躊躇している時間はなかった。

 アカルは夜玖に目配せをすると、金海の重臣が居並ぶ宴席に向かって駆け出した。


「わっ!」

「なんだなんだ?」

「千代姫さまの侍女か?」


 訝しむ声があちこちから上がる。しかし、そんなことは気にしていられない。移動する小さな霞から目を逸らさず、アカルは走った。

 近くまで行くと、霞の前に赤黒い虫が飛んでいるのが見えた。赤くて丸い体に星を浮かべたその虫は、ゆっくりと真っ直ぐに飛んでいるが、細い足の先には、何か黒いものがついている。

 アカルは飛び上がりながら両手を振り上げた。


 パシン!


 両手で霞と虫を仕留めた時には、広間中の人間がアカルに注目していた。


「すみません、虫が入ってきます。窓を閉めて下さい」

 平然と言い放ったところで、後ろからグイッと青葉に引っ張られた。


「あんた、何やってんのよ。千代姫さまに恥をかかす気?」


「でも、千代姫さまが虫に刺されたらいけないでしょ?」

 虫を挟んだ両手を青葉の方へ近づけようとした時、ズキンと手のひらが痛んだ。


「な、なに? どうしたの?」

「毒……のある虫だったみたい」


 震える手を開いてみると、アカルの手のひらは、まるで火傷でもしたように赤黒く爛れていた。潰れた虫の死骸はあったが、白い霞はなくなっている。


「は、早く手を洗って来なさいよ。ここはいいから」


 顔をそむける青葉に頷いて、アカルは出口に向かった。途中、広間の端に立つ夜玖に近づく。


「仕留めたのか?」

 夜玖の小声に、アカルは頷く。


「窓が全部閉まってるか確認して。私は外に出るけど、虫一匹通すなよ」


「わかった」


 夜玖が頷くのを確認してから、アカルはそっと大広間を出た。そのままぐるっと大広間を囲む廊下を歩いてみるが、どこからも怪しい気配はしない。

 手のひらの焼けるような痛みは、さらに酷くなっている。

 アカルは炊屋かしきやの裏へ急ぎ、湧水で手を洗った。


「痛っ……」


 衣の懐に手を入れて、携帯しているはずの薬草を探すが見つからない。

 着替えをしたときに忘れて来たのだと思い出し、がっくりと頭を垂れた時、目の前に手が差し出された。


「火傷か? これを使うと良い」


 差し出された手のひらの上には、白い貝殻が乗っていた。中に緑色の軟膏のようなものが入っている。驚いて顔を上げると、すぐ横に大きな人が立っていた。暗くて顔は見えないが、背の高い男だ。


「あ、ありがとう」


 アカルがお礼を言って貝殻入りの軟膏を受け取ると、男はふわりと踵を返して去って行った。彼の去った後には、甘いような異国の香りが残っていた。


 〇     〇


 侍女のおかしな行動があったものの、婚姻の宴の一夜目は無事に終わった。

 千代姫は中庭を囲む部屋に戻ってくつろいでいる。


「ねぇ朱瑠、さっきのは何だったの?」


 千代姫は薬湯を飲み干すと、部屋の隅に控えるアカルの、布の巻かれた手をじっと見つめた。部屋には、千代姫とアカルの他に誰もいない。


「虫が紛れ込んだので、叩いてしまいました」

 アカルはとぼけることに決めていた。旅の疲れと婚姻の緊張で一杯の千代姫に、余計な心配はかけたくない。


「ただの虫ではなかったのでしょう?」


「毒虫だったようです。手のひらが少し爛れただけです」


「それも呪いなの? 私は知りたいのよ、話してちょうだい!」


 千代姫は真剣な目でアカルを見つめる。余計な心配をさせたくないというアカルの気づかいは、どうやら逆効果だったようだ。


「呪いとは違います。奴らの目的はこの婚姻を阻むことだったのだから、これは単なる嫌がらせですね。でも、あなたはこの程度の嫌がらせに怯えたりしないでしょ?」


 アカルがじっと見つめると、千代姫はようやく笑みを浮かべた。


「そうね。この程度で怯えてはいられないわね。ありがとう朱瑠。もう下がっていいわ」


「では、失礼します」


 千代姫の部屋を出て、中庭を囲む回廊を歩いていると、夜玖がやって来た。


「で、さっきのは何だったんだ? 俺には何も見えなかったが、呪いなのか?」


「違うよ」

 千代姫とは違って、夜玖は目に視えない物事を毛嫌いしている。説明するのも面倒臭い。


西伯さいはくのは、呪者の手先にされた神の仕業だったけど、さっきのは神でも妖でもなくただの虫だった。でも、何かに操られてるみたいだったな」


 あの虫や霞のようなものについて、アカルもはっきりと答えが出ている訳ではない。


「もしかして……魂乗せかな?」


「たまのせ? 何だそれは?」


「ばば様から聞いたことがあるんだ。昔、動物に自分の魂の一部を乗せることが出来る巫女がいたんだって。うん、きっとそうだ。あの霞みたいなものは魂の尾だったんだな」


 アカルがすっきりした顔で見上げると、夜玖は鼻に三本筋を刻んで胡乱な目をしていた。


「じゃあ、なんだ、お前が潰した虫には、どこぞの巫女の魂が乗ってたって言うのか?」


「たぶんね。だって、あの虫は何かの毒を持って飛んでたんだよ」

 そう言ってアカルは手に巻いた布を広げ、赤黒く爛れた手のひらを夜玖に見せた。

「火傷虫でも、こんなにはならないでしょ?」


「あ……ああ。酷いな、大丈夫なのか?」

 夜玖は眉をひそめた。


「うん。もう痛みはだいぶ引いた」

 アカルは隠すようにもう一度布を巻いた。


「跡が残ったりしないか? お前だって、ほら、まだ若い娘なんだし……」


「あはは……大丈夫だよ。千代姫じゃなくて良かったな」

 真面目な顔で自分のことを心配する夜玖が可笑しくて、アカルは笑った。


「まあな。もしも姫の顔にその毒を撒かれたら悲劇だった。よくやったな朱瑠」


 まだ心配そうな顔をしていたが、夜玖は大きな手でアカルの頭を撫でてくれた。

 アカルは何だか恥ずかしくなって、ひょいと頭をよけた。


「ねぇ、あの虫が持ってた毒はこの程度だよ。酷く爛れるけど、人の命を取るようなものじゃない。夜玖たちの敵は、もう千代姫の命を取ろうとは思ってないんじゃないか?」


「ああ……そうだな。奴らの目的は、千代姫が金海に到着した時点で失敗に終わっている。だが、姫に火傷の跡を負わせることで、夫婦仲を壊すことは出来る。それが同盟に影を落とすことも有り得る」


 夜玖の言葉にアカルはムッとした。


「千代姫はそんなに弱くはない! あの人は自分の生涯をこの同盟に懸けてるんだ」


「ああ、そうだな。祝いの宴はまだ何日も続くそうだ。気を抜くなよ朱瑠」

 夜玖はアカルの怒りをやんわりとかわした。


「……わかってるよ」

 不満顔のまま、アカルはしぶしぶ頷いた。

  

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