第二章 金海国・智至国

●恋と陰謀●

一 千代姫の輿入れ


「見て見て、鳥よ! 陸が近いのだわ!」


 朗らかな千代姫の声につられて、船上の者たちがみな空を見上げる。

 薄青色に晴れた空を、白い鳥が滑るように飛んで行く。


 千代姫はとても明るい娘だ。この十日におよぶ渡海のあいだ、誰にでも気軽に声をかけ、侍女たちが敬遠するアカルにも分け隔てなく接してくれた。もちろん、呪いを解いたアカルに恩を感じてもいるのだろうが、その屈託の無さは生来のものだろう。


(お姫さまは、大はしゃぎだな)


 呆れてため息が漏れる。けれど、微笑ましく感じる。

 何もかもが自分とは正反対な千代姫を見ているのは、不思議なことに、とても面白かった。


「おい、異常はないか?」

 船べりにポツンと立っていたアカルに、夜玖やくが小声で問いかけてきた。


「大丈夫だ」

 横目で見上げながら答えると、夜玖は不満げに眉をひそめた。


「お前、もう少し侍女らしい言葉遣いはできんのか?」

 アカルが千代姫の護衛を任されている事は、夜玖と千代姫しか知らない。アカルは新入りの侍女見習いという立場だ。


「無理だ」


「こう言っちゃなんだが、お前、浮いてるぞ」


「わかってるよ」


 わかってはいるが、出来ないものは出来ないのだ。余計なことに気をつかい過ぎて、千代姫に近づく異変を感じ取れなかったら本末転倒ではないか。

 そんな思いを込めて夜玖を見上げたが、彼ははぁーっとわざとらしいため息を漏らしただけだった。


朱瑠あかる! こっちへ来て!」

 都合よく千代姫から声がかかる。


「はい」

 行儀よく返事をして、アカルは千代姫のそばへ向かった。 


 アカルが近づくと、千代姫の周りにいた侍女たちは自然と離れてゆく。

 仕事もろくに出来ないくせに、度々千代姫に声をかけられるアカルは、侍女たちから反感を持たれている。しかも当人には嫌味を言っても通じないので、侍女たちは溜まった鬱憤を発散する事も出来ない。


「ねえ、ほら見て。あの黒っぽいのは陸地じゃない? もうすぐ金海国に着くのかしら?」

 千代姫が船べりから船首の方を指さした。確かにうっすらと黒い影が見える。


「さっき胸形むなかたの人に地図を見せてもらったが、たぶんコサとかいう島だと思う。金海はその右です」


 金海と西伯さいはくの船団は、筑紫島の北東部に拠点を持つ胸形むなかたという海人族あまぞくの船が先導している。

 風や潮目を読むことが出来る胸形の案内役は、それぞれの船にも一人ずつ乗り込んでいる。彼らは肩の付け根から胸にかけて青黒い刺青いれずみをした厳つい男たちだが、この船旅のあいだ気さくに話をしてくれた。


「なら、どちらにしても夕刻には着くわね」

 口角を上げて微笑む千代姫は、瞳を輝かせて陸地を見つめている。



 千代姫は最初から前向きだった。

 アカルが思っていたほど、この同盟による婚姻を嫌がってはいない────と言うより、自ら進んで金海に嫁ぐと水生比古みおひこに進言したそうだ。

 その話を水生比古の口から聞いた時にはとても信じられなかったが、船旅を始めて千代姫の近くで過ごすうちにその思いも変化した。


「千代姫さまは、嫌じゃないのか?」


 沖ノ島に泊まった夜、警護のために同じ部屋で過ごしたアカルは、千代姫に問いかけた。


「金海に嫁ぐこと? 嫌じゃないわ。私が望んだことですもの」

 千代姫はそう言って笑った。


「私はね、水生比古さまのお役に立ちたいの。那の津の阿曇あずみ一族が、何百年ものあいだ大陸との交易をしてきたのはわかるけど、いまの筑紫を仕切ってるのはただの海人族じゃないわ。

 内乱を繰り返しながらも、大陸の鉄を武器に瀬戸内諸国にまで手を伸ばし、八洲やしまを支配しようとしている国なのよ。このままでは交易だけじゃなく、北海ほっかい沿岸諸国だって支配されてしまうわ。それを阻止するためなら、会ったことのない人に嫁ぐくらい平気よ」


 千代姫の言葉に、アカルは圧倒された。


(この人は……見ているものが違う)


 いくら小国の姫に生まれたとはいえ、自分と同じ年の少女が、これほど世の中の動静を知っていることに驚き、心が震えた。


「千代姫さまはすごいな。私は、外の世界のことなど何も知らなかったのに……」


「そんな事ないわ。朱瑠には私たちにはない力があるじゃない。それにね、私が世の中に興味を持ったのは、水生比古さまに恋をしたからなのよ」

 小さな声でそう言って、千代姫は頬を染める。


「恋? 水生比古さまに?」

 アカルは目を瞬いた。


「ええそう」


「いや、でも……水生比古さまは、あなたの養父では?」

 混乱するアカルの顔を見て、千代姫は笑った。


「そうよ。水生比古さまは私よりずっと年上で、たくさんの奥方がいらっしゃるわ。だから私は、奥方の一人になるよりも、水生比古さまのお役に立つ方を選んだの。朱瑠にはわからないでしょうね。でも、水生比古さまは私の命の恩人なの」


 千代姫はそう言って、うるんだ瞳を天井に向けた。


西伯さいはくがまだ一つになる前、小国同士が内乱をしていた頃に、私の国は敗れたの。両親が殺され、私も殺されるのだと思った時に、青影さまと一緒に駆けつけて仲裁に入ってくれたのが水生比古さまだった。あの時、私はまだ十歳だったけど、水生比古さまの凛々しいお姿は今でも忘れられないわ」


「そう……ですか」


 千代姫は、きっと波乱に満ちた少女時代をおくったのだろう。

 あの恐ろしい水生比古に恋する気持ちはわからないけれど、愛する人と国のために懸け橋になろうとしている千代姫の思いは、十分に理解できた。


(あなたの未来が幸せでありますように)

 アカルは心からそう祈った。




 俄かに船内が騒がしくなった。櫓をこぐ水主かこたちも、より力強く動き始める。

 船首の方を見ると、いつの間にか陸地が近づいていた。


(とうとう金海国に着くのか)


 八洲やしまの国々ですら地図でしか見たことがないというのに、ここから先は大陸という未知の世界だ。その土地に住まう神々も八洲とは違うだろう。


(さて、千代姫に向かう呪術がないか、しっかりと視なくては)


 アカルは心を引きしめた。

 不安定な海上だったせいか、それとも胸形むなかたの祀る海神の守護によるものか、渡海のあいだは何も起こらなかった。けれど、この大陸の端には阿曇一族に連なる同じ海人族の阿羅あら国がある。金海からも近い阿羅国からなら、千代姫を狙うことも十分にあり得る。


 船が陸に近づくにつれ、大きな河口が見えてきた。

 穏やかな流れの川を、船団が一列になって遡上してゆく。

 カーン カーン カーン

 船の到着を知らせる鐘が響き始めると、川を引き込んで作られた港に到着した。


「朱瑠! 手を握って」


 突然、千代姫がアカルの手を取った。

 港に釘付けになっていた視線を戻すと、千代姫が微かに震えていた。


「千代姫さま」

 アカルは千代姫の手を取って、両手で包み込んだ。


「あなたは、あの水生比古さまの娘だ。しかも自ら進んでここへ来た。大丈夫、あなたは立派に役目を果たせます。そのあとは、どうか自分の幸せを考えて過ごしてください」

 千代姫の手を押し戴くようにして、アカルは千代姫の未来を祈った。


「朱瑠……ありがとう」


 顔を上げると、千代姫はもう笑っていた。

 港から船の高さに合わせた可動式のきざはしがかけられ、立派な衣を着た一団が乗り込んできた。たぶん、千代姫の夫となる金海の王子とその臣下たちなのだろう。中央に立つ若者は、白い内衣の上に袖なしの青い長衣を着た、スラリと背の高い青年だった。黒い帯に立派な剣を帯びている。

 スッと立ち上がった千代姫が、笑顔で一団の前に進み出る。アカルたち侍女は千代姫の後ろに並び、一斉に頭を下げた。


智至ちたる国の千代姫さまですね。ようこそ我が金海にお越しくださいました。私は第一王子のサハと申します」

 サハ王子は華麗にお辞儀をすると、千代姫に手を差出した。


「サハさま。千代と申します」

 千代姫の手が伸びて、サハの手と重なる。


(ここから、交易のための同盟が始まるのか……)


 手を携えた二人の姿に、心が揺さぶられた。

 阿曇海人あずみあま族の筑紫と阿羅あら。それに対し、胸形海人むなかたあま族の力を借りた北海ほっかい諸国と金海。対立する二つの構図の一端に今自分は立っているのだと、アカルは実感した。

  

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