十二 大神岳の王
眩い光が消えると、池の底へ落ちたはずのアカルは、なぜか緑の野原に転がっていた。
「なんで? あれ……声が出る」
朝餉に入れられていた薬物のせいで麻痺していた体が、元に戻っていた。起き上がってみても、痛みも痺れもない。
ぽかんとしたまま座り込んでいると、草を踏む柔らかな足音が聞こえて来た。
『気がついたか』
声の方へ顔を向けると、少し離れた場所に大きな獣がいた。大きな口に恐ろしい牙がずらりと並んだ白銀の獣は、金色の瞳でこちらを見つめている。
アカルは眉をひそめた。
「もしかして、あなたが山の神?」
『いや、俺は狼の王だ。この
白い狼はアカルのすぐ側まで来ると、アカルの隣に座った。
向かい合ってみると、狼はアカルよりも背丈が大きかった。普通の狼の何倍もある大きな獣に怖気づき、アカルは思わず座ったまま後ろへ退いた。
『この姿は怖いか? ならばこれでどうだ?』
狼の王はポンッと白い煙のようになると、白髪に黒い衣の男の姿に変わった。
「ああ……そうか。鴉の王が言ってた大神岳の王は、あなたのことだったんだ」
『そうだ。よく来てくれたな』
狼の王は重々しくうなずいた。
ペラペラとよく喋る鴉の王のチャラチャラした姿とは違い、狼の王はたてがみのような白髪に、がっちりとした体の戦士のような姿をしていた。
「よく来てくれたって……危うく殺される所だったんだぞ!」
アカルはむくれた。
『済まなかったな。だが、どうしてもこの山の現状をお前に知って欲しかったんだ。体の毒は抜いておいたから安心してくれ』
戦士のような狼の王が本当に困っているのがわかったので、アカルはそれ以上文句を言うのをやめた。
「私に会いたいと聞いたけど、それって、私が贄にされかけた事と関係があるの?」
アカルは仕方なくそう尋ねた。
『そうだ。お前も感じただろうが、この山は危険な状態にある』
そう言って狼の王はうつむいた。
胡坐をかいた膝に乗った拳はぎゅっと握りしめられていて、狼の王がこの山をとても心配している事がわかった。
『お前は、山の神を知っているか?』
狼の王に視線を向けられて、アカルは首を振った。
「ばば様からは、山の神は大地の神でもあるって聞いたけど、よくは知らない」
狼の王はうなずいた。
『俺はこの山の王だ。この山と、山に住むすべての命を守ることが使命だが、地の底でつながる山の神は、すべての山の神であり、火の神であり、地底の神でもある。地底の神は、生き物の生死を司る幽界の神でもある』
アカルは池の底で見た赤黒いモノを思い出した。
あのゾッとする感覚は、幽界に対する恐れだったのかも知れない。
『その地底の神が、俄かに活性化している。おまえも、地鳴りや大地の揺れを感じただろう?』
「今朝のあれか?」
『そうだ。もう長いこと地の鎮めをしていない。かつての巫女たちは、万物の神と対話していたが、大陸の者と交わるにつれて日を崇めるようになって久しい。古からの聖域を守ってはいるが、忘れてしまっていることも多いのだ』
「なるほどね。忘れてるけど、とにかく山の神を鎮めなくちゃいけなくて、あの人たちは贄を捧げようとしたんだ」
アカルは納得したが、それでも思いきり不機嫌な顔で狼の王を睨みつけた。
「あなたはこの山の王なんでしょ? なら、どうして巫女たちに教えてやらないのさ」
狼の王は困ったような顔でアカルを見返す。
『あの巫女たちに俺の声は聞こえない。もちろん姿も見えない。だから、お前に来てもらったのだ』
「私だって、山の鎮め方なんか知らないぞ!」
『今から教える。お前にしか頼めないのだ。いつか、お前が困った時は、必ず助けると誓う。だから、力を貸してくれ』
狼の王は頭を下げた。
大きな体をした山の王が、額が地に触れるほど頭を下げたまま動かない。
「……わかったよ」
アカルは抵抗を諦めて、大きなため息をついた。
「で、山鎮めってどうやるのさ?」
『山の神を鎮めるには、地鎮めの珠を使う。地鎮めの珠とは──』
狼の王は、山の神を鎮める儀式について話し始めた。
〇 〇
大地の揺れはまだ続いていた。
不気味な地鳴りと共に、南の尾根の大岩が音を立てて崩れてゆく。
「あの小娘だけでは足りなかったのだ!」
地面にしがみつくように草を掴んだまま、巫女頭が声を上げた。
「神にもっと贄を捧げなくては……そうだ、
巫女頭の声に、地面に伏せていた若い巫女がビクリと肩を震わせた。
「もともと贄に選ばれていたのはお前だ。今こそ役目を果たすべき時なのだ。
小波!」
「は……はい」
小波は恐る恐る顔を上げた。
細面の陰気な顔に、今はありありと恐怖の色が浮かんでいる。
「前へ!」
巫女頭の声に弾かれたように、小波は立ち上がる。が、足が震えて一歩が踏み出せない。
「何を恐れるのだ。神の役に立てるは誉ぞ!」
「……はい」
返事は出来るのに、どうしても体が動かない。
「ええい、小波を池の縁へ!」
痺れを切らした巫女頭の命で、そばにいた巫女たちが小波を取り囲んだ。
たくさんの手に持ちあげられて、小波の体は自分の意志とは関係なく、池の近くまで運ばれてゆく。
小波は自分の最期を覚悟して、ぎゅっと目をつぶった。
暗くなった視界に、先刻池の中に落としたばかりの、
(ああ……私もあの子に、同じことをしたんだ。怖かったろう)
何も知らない若い巫女を、自分の代わりに神の贄にしてしまった。けれど、あの時の小波は、ほの暗い罪悪感と共に、アカルに感謝した────それなのに。
「神に贄を捧げよ!」
小波の体が後ろから押され、前髪の先が池の水に触れた。
「やめろ!」
あの娘の声が聞こえた気がした。
斜めになっていた体が、頭から池の中に沈んでゆく。
「手を伸ばせ!」
水に沈みながら小波が上を向くと、揺れる水面にあの娘の顔が見えた気がした。
(神よ……)
小波は夢中で手を伸ばした。
すると、誰かの手がしっかりと小波の手を掴んで、力強く引き上げてくれる。
ザバッと水しぶきを上げて、小波は池から救い上げられた。地面に下ろされた途端、身を切るような寒さが襲ってくる。
「大丈夫か?」
震えながら顔を上げると、小波の目の前に、白い獣に乗ったあの娘がいた。
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