三 別れ


 夜明けとともに海でみそぎを済ませたアカルは、岩の巫女に言われたとおり、一番きれいな衣に袖を通した。

 染めていない白の上衣うわごろも細袴ほそばかまは、里の娘たちと一緒に苧麻からむしを刈るところから全部自分で作った衣だ。


 腰には蓼藍たであいで染めた青い帯を締め、その上に薄緑の絹の長衣を羽織る。これは岩の巫女から貰ったもので、野生の繭玉から作ったものだ。

 最後に、帯とお揃いの青い布を額が隠れるように巻き付けて、アカルの支度は整った。


『わしが呼ぶまで、入って来るんじゃないよ』


 岩の巫女の高殿に智至ちたるの使者を呼ぶほんの少し前、アカルは老巫女にそう言われて奥の部屋へと追い出された。奥の部屋と言っても葦簾よしずで仕切られただけの場所だ。話は筒抜けだし、姿だって見ようと思えば見える。

 アカルは仕方なく葦簾よしずのすぐそばに胡坐あぐらをかいた。


『いいかいアカル、智至ちたるの使者がお前を馬鹿にしても毅然としておいで。智至ちたるがどんなに大国でも、わしらは家来でも何でもないんだからね。堂々としてりゃいいのさ』

 老巫女はギョロリとした目玉を動かして、ニヤリと笑った。


(ばば様のやつ、いったい何をするつもりだ?)


 西伯さいはくへ行くと覚悟は決めたものの、不安は募るばかりだ。葦簾の裏で待ちながら、だんだんとアカルの顔が険しくなりはじめた頃、階を上る足音が聞こえて来た。


夜玖やくです」

 低い男の声がした。


「お入りなされ」


 岩の巫女のしわがれた声と共に、葦簾の戸を開けて大柄な人影が入って来た。

 人影は一礼したあと老巫女の前に座ったが、膝に置いた手はまるで威圧するかのように肘を張り、体もわざと前のめりにしているように見えた。


(まるで、熊と婆さまだな)


 葦簾よしず越しに見る夜玖やくという使者は、アカルには黒い影のようにしか見えなかった。その熊のような大きな影の前に、小さな老婆がちょこんと座っている。


「昨日の依頼、お受けいただけますか?」


「せっかちな男じゃな。まあ急いでいるのだから仕方がないね。依頼は受けるよ」


「ほ、本当ですか?」

 思いのほかあっさり承諾されて、肩透かしを食らったような声だった。


「ああ。だが、わしはこの通り高齢でね、西伯さいはくへは弟子を行かせることにした」


「弟子ですか? しかし、水生比古みおひこさまは岩の巫女様にと──」


「それなら依頼は受けられないが、良いのかい?」


「いえ……それは困ります」


「ならば良かろう。報酬はそちらの言う通り米でいいよ。わしの弟子の仕事が気に入ったら、もう少し色を付けてくれと水生比古みおひこさまに伝えておくれ。そうじゃな、真珠か翡翠がいいのぉ」


 老巫女のニンマリ顔が思い浮かんでしまい、笑いそうになった時、お呼びがかかった。


「アカル、入っておいで」


「はい」


 アカルは葦簾をよけて部屋に入ると、老巫女の斜め後ろに正座した。

 智至ちたるの使者に向かって丁寧に頭を下げてから、顔を上げてまじまじと夜玖の顔を見上げた。


 夜玖やくという智至の使者は、深青色の衣の上に革製の短甲を身に着けた立派な武人だった。髪は短く刈られ、浅黒い顔には短く揃えられた顎髭が生えている。目は冷たそうな三白眼だ。


(神経質そうな男だな)


 それが夜玖やくという男の印象だったが、一番気になったのはアカルに向けられるその眼差しだった。

 アカルが夜玖を値踏みしたように、夜玖もアカルを値踏みしていたのだろう。その結果、いかにも不服そうな眼差しでアカルを見ている。


(なるほど。ばば様が毅然としてろって言ったのは、これか)


 アカルは納得して、じっと夜玖を見返した。

 視線を外したのは夜玖の方だった。抗議するような目で老巫女を見る。


「この娘が弟子なのですか? まだほんの小娘ではないですか。それに……」


「確かに小娘じゃな。年は十五だ。名はアカル。お前さんたちの字で書くとこうだ」


 岩の巫女は、炭で【朱瑠】と書かれた木片を夜玖の前に差し出した。


「この娘は人の目には見えないものを見るし、神々とも話ができる。西伯さいはくの王女の病気が本当に呪いならば、その源を知ることが出来る筈じゃ」


「しかし──」


「この岩の里には、わしとこのアカル以外に神と話せる者はいない。不服なら帰るが良かろう」


「……わかりました。では、海が凪いでいるうちに出発したいのですが、よろしいですか?」

 夜玖は老巫女とアカルを見比べる。


「良いよ。アカルも準備は出来ているな?」


「はい、ばば様」

 アカルは奥の部屋に戻ると、葛籠つづらを抱えて戻って来た。


「では、俺は一足先に行って出港の準備をしています」


「ああ。水生比古みおひこさまによろしくな」

 岩の巫女はニンマリ笑って夜玖を追い出すと、アカルの手を取った。


「良いかい? お前の首にかかっている耀珠あかるたまはお前の命だ。一時たりとも外してはいけないよ。もし盗まれたり失くしたりしたら、お前の体は冥府めいふに引かれるかもしれないのだからね。くれぐれも肌身離さず持っているんだよ」


「わかってるよ、ばば様。じゃあ行くね」


「ああ、好きに生きるがいい」

 岩の巫女はそう言うと、小さな腕を伸ばしてアカルを抱きしめた。

「お前の人生なんだからね」


「……ばば様、ありがとう」

 きっと戻って来るよ。そう心の中でつぶやいた。

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