第5話


 一週間が経ち、水曜日が巡ってきた。


 あれからみなとは家に戻って来ていない。連絡もなく、行彦ゆきひこは意気消沈していた。そんな彼を気遣ってか、みやこも今日ばかりは来る気配がなかった。


 行彦はひとりになった我が家をソファからぼんやり眺めていた。途方もない広さを感じた。まるでからっぽの檻のなかに自分の抜け殻だけが取り残されたようだ。心は冷たい鉄格子から連れ去られ、孤独と後悔だけが支配している。


 行彦は立ち上がると、リビングを抜けて寝室の扉を開けた。数ヶ月ぶりに入る湊の部屋だ。整然としていて、以前見たときとまったく変わりなかった。主がいないこと以外は。


 彼女がどれほど大きな存在だったのか、今更ながら痛感する。くしてからしか本当の価値に気付けない自分が赦せず、涙で喉を詰まらせた。


 そうやって記憶の渦に身を投じベッドに腰かけていた行彦は、ふと顔を上げた。棚に並ぶ本と本の間から紙切れがはみ出している。彼は手を伸ばしてそれが何かを確認した。映画の半券だ。それは高校時代、湊と初めて観たものだった。


 そして行彦は気付く。その棚にあるのはすべて思い出の品だということを。頬のすり傷を拭いたハンカチ、壊れたヘアクリップ、学ランの第二ボタン、そんな残しておいても扱いに困るものばかりだ。さらには手作りのアルバムまで出てきた。まだ高校生だった二人が写真から彼に笑いかけてくる。


 考えるよりも先に、行彦はスマホを取り出し電話をかけた。コール音が繰り返されるたび、虚脱感が胸の奥から熱を奪っていく。もう手遅れかもしれない。今さら声を上げたって、どれほど言葉を紡いだって、彼女の耳には届かないかもしれない。それでもこの想いだけは伝えなきゃと思った。だからどうか繋がってくれ――。


 音が途切れ、湊が通話口に出た。短い沈黙。「はい」とひと言だけ聞こえる。

 行彦は感情に押し潰されないよう必死に、想いを形にした。


 「昔からがむしゃらに頑張ってるお前が好きだった。やりたいことを見つけて、一生懸命な姿に憧れてすらいた。でも一緒に暮らしてからは、そんなお前がなんだか遠くに感じたんだ……家に帰るたび、湊が変わっていくような気がして、置いていかれるんじゃないかって思った。寂しくて、不安で、俺はただ……ただお前に嫌われるのが恐かったんだ」


 もう涙は抑えられなかった。視界がぼやけて喉も焼けるように痛い。湊は黙って聞いている。情けないと嘲笑あざわらうでも卑怯ひきょうだと非難するでもない。あの時と同じだ。だから恐い。行彦は太腿ふとももに拳を押しつけて、崩れ落ちそうになるのを堪える。


 「駄目な俺に愛想を尽かして離れていくんじゃないかって、ずっとビビってた。だったらいっそ、浮気をして自分から嫌われたらいいって思ったんだ。そうすればぜんぶ浮気のせいにできるって。でもそんなわけなかった。だって、こんなにも辛いんだ。こんなにも、苦しいんだ!自分が傷付きたくないからってお前を傷付けて、ずっと後悔しかしてない」


 過ちを詫びているのか、同情を引こうとしているのか、もはや自分でも分からなかった。感情に翻弄される無様な道化だ。素直に謝ることもできない行彦は、いつだって遠廻りでしか大事なものに気付けない。


 「湊は信じてたのに。変わっても、俺のこと信じてくれていたのに……」


 「変わらないよ」


 ようやく届いた湊の声は、とても優しいものだった。


 「何も変わったりなんかしないよ。私は私のまま、ずっと行彦のことが好き。だから――」


 仲直りしよ。


 その言葉が救いだった。



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