第4話


 みなとへの後ろめたさはもちろんある。罪悪感は日に日に募っていき心苦しい思いもしていた。だが週に一度という限られた関係は、行彦ゆきひこの煩悩を刺激し、罪の意識をも押し退けてしまうのだった。


 優柔不断で決断力のない自分を卑下ひげすることが多々あった。その度に行彦は自責から逃れるように、一線を越えなければまだ何とかなるなどと無体な見解で自身を肯定していた。


 しかしそんな愚昧ぐまいな正当性もついに引き返せないところまできていた。彼の言うがまさに眼と鼻の先にあったのだ。


 七月初旬のある水曜日。


 夏の陽射しに追いやられるように行彦の元に辿り着いたみやこは、下着の線が透けるほどの汗を掻いていた。玄関で靴を脱ぎ捨てると、よたよたとシャワーを浴びに浴室に入っていった。


 その後、京はバスローブ姿でリビングに現れた。自前のものらしい。ずいぶん用意が良いんだなと初めは感心していた行彦も、やがてそのつやめく色香のとりこになっていた。


 「せんぱぁ~い」


 京は甘えた声を出しながら行彦の首に両腕を回す。


 背徳感に手繰り寄せられるように行彦はソファに腰を沈めた。いまや自制心は彼の尻に敷かれて役に立たない。


 膝立ちになってこちらを見つめる京。火照った彼女の体温が自分のなかに流れ込んでくるようだった。上気した顔、星くずを散らす濡れた髪、漂うフレグランスの香り、とろんとした眼――すべてが行彦を快楽にいざなおうとする。


 ローブから覗く胸の谷間を水滴が伝い落ちる。視線が吸い込まれる。意識が呑み込まれる。一線に、手をかけ……。


 ガチャリ、と扉の開く音がした。玄関からだ。そのすぐあとにの声がリビングに広がる。


 「ただいまー。もうまたやっちゃったわ、忘れ物。何回するんだって話よね。みやちゃんに頼もうと思ったんだけど、返事なくて――」


 言葉と足音が途切れたのはほとんど同じだった。張り詰めた空気にリビングが凍りつく。息が詰まる瞬間が永遠に引き延ばされたようだ。


 湊の生気のない視線が行彦を捉える。


 驚き慌てふためくか、容赦なく糾弾してくれたなら、行彦もこれほど怖気立つことはなかった。湊はとても落ち着いた様子で眼の前の状況をうかがっている。まるでこうなることを予感していたみたいに。


 「薄々は気付いてたの」湊が口を開いた。「行彦、みやちゃんの話題になるとすぐ話を逸らそうとしたから。あとは初めて行った店でも妙に慣れてたり、私と話してるのに眼だけは違うとこ向いてたり……だけど決定的だったのは


 それは京が生菓子を入れて持ってきた紙袋のことだ。あの夜、食事を終えて帰宅すると、湊はソファの下に自分が受け取ったのと同じ紙袋があるのを見つけたという。そこから行彦の最近の態度も考慮した結果、前々から疑っていた京との密会に確信を持ったらしかった。


 「それでもずっと訊かなかった、浮気してるのって。どうしてか分かる?」


 行彦は答えなかった。「信じてたから」という湊の言葉を受けても黙るばかりだった。口を開けば情けない言い訳しか出てこない気がしたからだ。京も何も言わない。ソファに座り直して、ただ俯くだけだ。


 やがて湊は二人に背を向けた。玄関を開けて部屋を出ていく。リビングには再び静寂が訪れる。


 喪失感だけが行彦の時間をむさぼり続けていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る