16-7
「よろしかったのですか、あいつをあのままにしておいて」
シモンがジョナサンに尋ねた。
彼女はジョナサンの乗る車椅子を押し続ける。
「誰のことだ」
ジョナサンは首を回し、シモンの顔を覗き見た。
彼女は睨んでいた。
まるでジョナサンを非難するように。
実際、そうなんだろう。彼は思った。
ジョナサンは視線を戻し、薄暗い地下通路の先を見た。
彼らは今、城内地下の避難経路を進んでいる。
湿気とかび臭いレンガの通路の先には、城の裏山に造られた、古びたトンネルへとつながっている。
「あいつにしてやれたことは何もない。残念ながらな」
独り言を呟くように、ジョナサンは暗がりに向かって言った。
「仮にあいつに手を差し伸べたとしても、今の俺たちじゃ、かえって足手まといだろうさ」
「ですが、これではまるで、見捨てたも同じではないですか」
彼女の声がわずかに大きくなった。
ハンドルを握るシモンの手に力が込められる。
「あまり大きな声を出すなよ。絞首台には上がりたかないだろ」
「……すみません」
シモンは背後を横目に見た。
王と貴族たちが、不安そうな顔で二人についてくる。
幸い、彼女の言葉は耳に入っている様子はなかった。
シモンは沈黙した。
口の端が何かを言いたそうに蠢いたが、結局言葉になることはなかった。
「今は貴族様方を逃すことに専念しろ。あいつの心配をするのは、それからだって遅かない。……そら、出口だぞ」
ジョナサンが指差す先に、光が見えた。
出口が近い。
「そう心配するな、あいつは易々と死ぬような奴じゃない」
ジョナサンは言った。
シモンを励ますつもりだったが、彼自身がそう思いたかったのかもしれない。
彼女の表情は相変わらず曇ったままだった。
それでも彼の気遣いを思って、シモンは口角をあげた。
痛々しい作り笑い。
空虚な言葉は会話に終わりをもたらし、闇の中に溶け込んだ。
・
王と来賓を失い、玉座の間は静かになった。
エリックは1人その場にたたずみながら、じっと扉の先を睨みつけた。
うまくいけば、あの男はここにたどり着くことなく、彼らの倒されるだろう。
そして間を置くことなく、兵士が階段を勢いよく駆け上がり、自分の下に報告に上がってくるであろう。
エリックは期待した。
反面、裏切られるだろうと覚悟した。
彼の思惑がうまく運べば、そもそもこんなことなど起きるはずもない。
今更期待などもったところで何になる。
エリックは剣の柄を強く握りしめた。
あれからどれほどの時間が経っただろう。
兵士はまだやってこない。
それほど長くは経っていないはずだ。
エリックは奥歯をかんだ。
どちらに転ぼうとも、自分がなすべきことに専念しろ。
戦いの音が止んだ。
終わったのだ。
どちらかが勝ち、どちらかが倒れた。
無意識に生唾を飲む。
不気味な静けさ、冷たい静寂。
かすかな足音が、ゆっくりと近づいてくる。
誰かが、階段を登ってくる。
現れたのは兵士、ではなかった。
血塗れの男だ。
動く死体。
歩く亡者!
倒れたのは兵士、勝ったのは忌まわしくも、ジム・フランコだった。
だが兵士たちは最低限の仕事をしたようだ。
よろよろとおぼつかない足。
体につけられたいくつもの傷跡。
流れ続ける血。
男は死に瀕している。
誰が見ても、きっとそう思うことだろう。
エリックはほくそ笑んだ。
彼のその有り様、脅威のかけらもないほどの脆弱ぶり。
エリックは兵士たちを褒め称えたい気持ちでいっぱいだった。
ジムがゆっくりとやってくる。
エリックは油断なくジムを睨みつけながら、握っている剣の存在を確かめた。
見てくれに騙されるな、何を隠しているのかしれなものではないんだぞ。
慢心しつつあった自分に、エリックを言い聞かせた。
たった一撃だ。それ以上は必要ない。確実に殺すのだ。
ジムが目の前にやってきた。
剣を握った腕はだらりとぶら下がったまま、動く気配はない。
ゆったりと上下に動く肩。疲れた吐息。
疲労を隠し切れていない。
しかし、その有り様とは不釣り合いにジムの目がギラギラと光っていた。
獲物に飛びかかろうとする獣のようだ。
2人の間に言葉はなかった。
必要がなかった。
どちらかが死体となり、どちらかがそれを見下ろす。
2人に必要なのは結果だった。
そして、それは間も無く訪れた。
エリックは動く。
剣を振り上げ、ジムの肩へ振り下ろす。
真っ直ぐな軌道。これ以上ないタイミングだった。
ジムは避けることができなかった。
いや、その動作すらしなかった。
それどころか、彼は一歩足を踏み出し、自分の肩をむざむざと剣の軌道上に晒してきたのだ。
エリックは目を見開いた。
しかし、振り下ろした剣は止まらない。
満身の力を込めた剣は、ジムの血だらけの体に吸い込まれた。
肩をえぐり、肋骨のあたりにまで到達する。
骨を砕く感触が、エリックの手に伝わる。
ジムの口から血がこぼれ、十分に赤くそめられた彼の口元に、真新しい鮮やかさが加わった。
ジムの目が白目を向いた。
一瞬の気絶、
そして元の鋭さを取り戻す。彼の表情が苦悶に歪む、しかし、彼の赤い口元は、笑っていた。
まるで何かから解放されることを、喜ぶかのようだ。
エリックの背筋を怖気がなぞった。
そして彼の腹部を、鋭い痛みが突き破った。
見下ろすと、ジムの腕が見えた。
彼の握る剣が、自分の腹を貫いていた。喉を登ってくる吐き気。
胃液の匂いと鉄の味が口の中に広がった。
エリックの表情が歪んだ。
それでもすべての力を振り絞り、剣をジムの体に食い込ませる。
激痛がジムを襲っているはずだった。
だが、彼の笑みが消えることはなかった。
エリックの腹を貫いた剣は、回転し、横一線に彼の腹を切り裂いた。
エリックの口が決壊し、口角から泡を立てて血が溢れた。
前のめりに倒れかかるエリックを、ジムはその胸で受け止めた。
膝が崩れ落ち、2人の男が硬い床の上に座り込む。
何かが腹からこぼれ出るのを、エリックは感じていた。
視線を向けたくはなかった。えぐられた生々しい傷も、そこから漏れ出た臓物も、自身の死を自覚させる一切のものを、彼は見たくはなかった。
自分が死ぬ? そんなもの認めてなるものか。
ジムの手がそっと、エリックの顔に触れる。
優しい手つきだった。
殺人者の手とは思えないほどに。
エリックは鼻息を荒くした。
抵抗の力は微塵もなかった。
首がひねられ、一瞬の中に彼の意識は虚空に消える。
エリックの体は、動くことをやめた。
「終わった、これでようやく、ようやく……」
乾いた笑い声が、ジムの喉を鳴らした。
力なく立ち上がると、ジムはエリックの死体に背を向け、元来た道を引き返していく。
ふらふらとおぼつかない、幽鬼の足取り。
彼を見送るものも、追うものもいなかった。
誰もいない玉座の間に、鮮やかな赤が広がり続ける。
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