13-8
「ああ、こちらはうまくやっているよ」
あの男の声が聞こえた。
かれこれ数時間。あるいは数日だろうか。
どれほどの時間が経過したのか、代わり映えのしない暗闇の中で正確な時間を把握することはできなかった。
カタリナは、まだ生かされていた。
身体を縛られてはいたが、食事もちゃんと提供され、体もある程度は清潔さを保てている。
あの男がという女が、彼女の身の回りの世話をしている。
40ばかり歳をとった女で、赤茶けた髪の中に白髪が浮いている。
寄れたシャツに埃臭いスカートを、毎日変わらず履き続けていた。
服装から顔から貧乏が服を着たような女だった。
その女が席を立ってから、数分たった時に、あの男の声が聞こえてきた。
階段を降りてくる複数の足音。
男の他に、あの女もいるのだろうか。
カタリナはふと女のことを思ったが、ドアが開かれるとその思いはつゆと消えた。
あの男は、片手に水晶のようなものを持っていた。
少し前に、シモンが似たようなものを持っていたことを思い出した。
あれは連絡に使うもので、彼女は上司とそれで連絡をとっていた。
シモンの部屋の前で聞いたあの口論は、あの水晶が原因であったと、カタリナは後で知った。
水晶自体に種類があるのかどうか、カタリナの知ったところではない。
ただ、それが何に使われているのかは、彼女にも理解はできた。
「こっちは任せてくれ。ああ、うまくやっておく。それじゃ」
男は水晶に話しかけていた。
水晶からも、「それじゃ」という別の男のガサついた声が聞こえた。
男は水晶をポケットにしまうと、彼女の対面に座席へと腰を下ろした。
男のすぐ後に、あの女がやってきた。
カタリナに視線を合わせると、軽く会釈をして、静かにドアを閉める。
だが、どれだけ気をつけても、錆び付いた喧しい開閉音は、治ることはなかった。
耳障りな音を響かせて、ドアが閉まる。
それを待ってから、男は口を開いた。
「調子はどうだい」
まるで医師が病状を確かめるように。
男は前屈みになって、カタリナの顔を覗いてきた。
彼の目には自分がどう見ているのだろう。
椅子に縛りつけられたままのカタリナが、いったいどうして調子が良さそうだと言えるだろうか。
彼女は閉口したまま男を見た。
その当然の反応に対して、男はうすら笑みを浮かべた。
「元気なようでなりよりだ」
彼女のその反応こそ、どうやら男の望んでいたもののようだった。
彼は肩をすくめると、膝に腕を下ろす。
そして、重要なことだと言わんばかりに、意味ありげに深いため息を漏らした。
「ここを出なくちゃならない」
カタリナのためを思って、さも同情的に男は言った。
カタリナからすれば、一刻も早くここを立ち去りたい。
どんな手段であれ、ここを出られるのであれば、これ以上ない喜びだった。
だが、男のそれは彼女の思う
男は彼女を手放すつもりはない。
そしてどこへ向かうかも、話すつもりはない。
彼の口はまだ、その可能性を潰したわけではない。
しかし、わざわざ教える義理は彼にはないのは間違いない。
「どこへ」
だが、聞いた。
わずかばかりに、吹けば飛んでしまうような可能性にすがって。
男は頬を歪めた。
しかし、彼女の希望をかなえる言葉は生まれなかった。
「君を移動させるために、少し荒っぽい運び方をしてしまうかもしれない。なるべく丁寧にやろうと思うんだが、もし辛い思いをしてしまったら、許してくれ」
無視。
彼女の想像通りの拒絶であり、彼女の想定以上のはっきりとした意思表示だった。
男はおもむろに手を伸ばすと、カタリナの首筋にそっと触れた。
そして女の方をむき、何やら目で合図をする。
女は会釈をして、カタリナのもとにやってくる。
その太い指の間には、小ぶりの注射器が挟まっていた。
押し子に親指の腹を当てて軽く押し込めば、針の先から正体不明の液体が、滴をたらした。
「体に害はない。少しの間、眠るだけだ」
害がなければ、何をしてもいいということにはならないだろう。
カタリナは男を睨んでみたが、男は肩をすくめるだけ。
カタリナは体を揺すって抵抗をしてみるが、思ったよりも体に力が入らなかった。
ひどく付き纏う疲れ。
食事を与えられているとはいえ、それは最低限度の量でしかない。
彼女の体力を養うには、あまりに少なかった。
骨が軋む音が、鼓膜に響く。
歯を食いしばってなおも体を揺らしてみた。
が、彼女の体は男のたった2つの手によって、簡単におさえつけられた。
「抵抗はしない方がいい。違うところに刺さりでもしたら、いくら害はないとはいえ、体をおかしくしてしまうかもしれない」
聞き分けのない子供をあやすように。
男は優しい声色を使って言った。
カタリナは負けじと睨み返したが、心中は泣きたくて仕方がなかった。
睨んだとて、男が怯むことはない。
それがわかりながら、睨むことしかできない自分が、ひどくちっぽけに思えた。
女は注射針をカタリナの首筋に向ける。
実に慣れた手つきだ。
指で首筋をわずかに圧迫して、血管を浮かび上がらせる。
細い針が肉を貫き、体内を侵していく感覚。
異物感に顔をしかめていると、唐突に意識の混濁がやってきた。
「ゆっくりお休み。気づいた時には、違う場所にいるよ」
暗闇のさらに深淵へと落ちる中で。
男の忌々しい声が、彼女の旅立ちを見送った。
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