13-5

 カタリナは目を覚ました。

 目の前には、黒い椅子が横たわっている。

 どこかの部屋らしい。天井からは小さなランタンがぶら下がり、彼女の足元と、彼女の周囲の狭い範囲を照らしている。


 あたりに目を向けると、うっすらとタイル張りの壁のようなものが見えた。

 劣化が激しく、所々タイルが剥がれ落ちている。

 タイルをつないでいた石膏が、白い破片になって床に散乱している。


 右手には錆びた扉があった。扉の上部には格子窓がある。

 外側から開く仕組みのようだが、今は仕切りがピシャリと、その口を閉じていた。

 動く気配はない。それどころか、近くに人の気配すらも感じなかった。


 冷たい何かが、頭に落ちてくる。

 その小さな衝撃は、衝撃以上の痛みをもたらした。

 消毒液を傷口に染み込ませたような。じんわりと広がる鋭い痛み。

 それがきっかけで、思い出したように口の中が痛んだ。


 唾を吐いてみると、唾液の中に血が混ざっていた。

 口の中を切ったらしい。歯もはまりが悪く、舌で触ってみれば、グラグラと揺れ動いた。


 頭の浮かび上がる、黒い靴底。そしてあのただれた男の顔を思い出した。

 自分をここに収容したのは、おそらくあの男たちに違いない。

 傷を確認しようと手を動かしたかったが、うまく動かせない。ここでようやく、自分の体の状態を理解した。


 縄でがっちりと両手、そして両足が縛られている。

 椅子に座らされていたが、立ち上がることを許さないように、太い縄によって背もたりに縛りつけられていた。


「なんなんだ、一体」

 

 監禁からまた監禁だ。

 逃げた先でまた捕まるなんて、なんて運がないんだろう。

 深くため息を吐いて、それから息を擦った。

 湿気と錆びた鉄の匂いが混じった、嫌な香りが彼女の肺を満たして行った。


 生きている、いや、生かされている。

 ただの窃盗、もしくは物取り目的ならば、拘束などという面倒な手段は取らないだろう。適当な場所で捨てるか、もしくは殺すか。どうにかして身軽にするはずだろう。


 その手っ取り早い手段を行使しないとなれば、何か他に目的があるということだ。


 火傷を負ったあの男は、カタリナを知っていた。

 一体どうやって、どうして自分を知っていたのか。

 カタリナには皆目、見当がつかない。

 つかないが、彼女を利用して何かをしようということだけは、カタリナにも理解できた。


 また頭の上に、水滴が落ちてきた。

 頭頂部から額へと流れ、擦り傷に染み入っていく。

 カタリナの顔が苦痛に歪んだ。

 水滴は彼女の意思を無視して、等間隔に降り落ちてくる。


 防ぐことも、避けることもできない。

 延々と落ち続ける水滴が、この闇の何より苦しみを与え、苛立ちを増幅させた。


 水滴だけでもどうにかならないか。

 試しに体を揺らしてみると、椅子がにわかに傾いた。

 そのおかげで水滴が頭部からずれた。

 その代わりに肩とこめかみが濡れる羽目になった。

 水滴を避けては見たが、結局苛立ちがついて回った。


 足音が、聞こえてきた。

 唐突に現れた人の気配に、カタリナは身を硬らせる。

 上から下へ。階段を踏み締めるように、足音が響く。

 扉のすぐ近くまでくると、足音がピタリと止まった。

 

 気配は、扉のすぐ向こう側にある。

 錆び付いた金具を無理やり動かすような、耳障りな摩擦音。

 それは扉の上部の、覗き窓を引き開ける音だった。

 窓の奥から覗く、2つの目玉。

 カンテラを片手に持ったその男の顔は、ひどい火傷を負っていた。

 あの男だ。カタリナはすぐに気づいた。


 男の瞳が格子窓の奥に消えた。

 そしてジャラジャラと軽い金属が擦り合うような音が聞こえてくる。

 鍵穴に何かが差し込まれ、錠が解かれた。

 耳障りな甲高い音を響かせて、それまで硬く閉ざされた鉄扉が、ゆっくりと開かれていく。


「お加減は、いかがですかな」


 黒い紳士服を着た男は、あの時と同じようにシルクハットを傾けた。

 片手にはカンテラを、もう片方の手には杖をかけている。

 カタリナは言葉の代わりに、訝しげな目を男に向けた。

 男は肩をすくめると扉を閉め、倒れた椅子を起こす。

 カンテラを椅子とカタリナの間に置くと、男は椅子に深く腰を下ろした。


「ビルボート家のお嬢様を縛り上げるのは、大変心苦しいのですが、暴れられてしまうと面倒でして。ご理解いただけるとありがたい」


「貴方は、何者なんですか」


「それは個人名という意味でしょうか。それとも私の職業的なものでしょうか」


「両方です」


 男の物言いに対して、カタリナの口は苛立ちを隠せなかった。

 水滴によって乱され、助長された彼女の鬱憤が、声に乗って表現される。

 男は態度こそ変えなかったが、そんな彼女の内心を察してか、哀れみの情を瞳に浮かべた。


「名は明かすことができません。こういうことをやっているからでしょうが、名前を明かすことで、無用なリスクを負いかねませんからね。ご理解いただけるかどうかはわかりかねますが、その辺の事情は察してくださいませ」


 聞き分けのない子供に言い聞かせるような口調だった。

 非力な女。彼の中にあるカテゴリーに、カタリナは自分が当てはめられていることを察した。


 当然だと思った。

 縄で縛り、武器をふるうこともできない女に対して、それ以外の感情の何があるだろうか。


 だが、カタリナは己の怒りを感じずにはいられなかった。

 男の思い通りの、非力な女でいたくはなかった。

 奥歯をクッと噛み締めて、男の鼻柱をぶち折ってやったら、どんな気持ちがいいか。


 慎まやかな妄想で、どうにか溜飲を抑えにかかる。

 だが、殺気までは器用に操ることができない。

 にじみ出る気迫が、男の目を見開かせる。

 恐れているのはない。ただ意外な何かをみるような、好奇心が彼の目を開かせているのだ。


「申し訳ありません。貴女の気分を害するつもりはなかったのですが」


「人を縛り付けておいて、何を言いますか」


「ごもっともで、返す言葉もありません」


 目を細め、男は頬を引きつらせる。

 わずかではあるが、ようやく彼の顔からわずかではあるが余裕を剥ぎ取ってやった。


 ささいな変化に過ぎず、カタリナは誇る気にもならなかったが。


「職業と呼べるかどうかはわかりませんが、俗にいう犯罪者のカテゴリーにいることは、私も自負しているところです。私自身が手を汚したことは少ないですが、まあ、教唆という一点に着目すれば、多くの犯罪を犯してきました。自慢することではありませんが」


 男がそう言った時、扉の向こうから何かが暴れるような音が聞こえてきた。

 壁に打ち当たり、ドラのようなこもった鉄板の音が聞こえてくる。

 カタリナは体をびくつかせたが、男は大した反応は見せなかった。

 いつものことだというように、彼は落ち着き払い、カタリナから視線を動かさない。


「お気になさらず、貴女様とは別件のことでして」


 男とは別の、悲痛な男の叫びが聞こえてきた。

 助けてくれ、助けてくれ。

 命乞いをする悲鳴そのものの叫びにも、男は顔はおろか、眉間すら動くことはない。


 その落ち着きぶりに、カタリナは男に対して初めて恐れを抱いた。


「少々お待ちいただいても、よろしいですか」


 うんざりするように、男は肩を落とした。

 カタリナが返答をする前に、腰を上げ、彼は彼女に背中を向けた。


「どこへ」


「うるさいようですね。注意をしに。すぐに戻りますとも」


 にこりと、ただれた顔にシワのような窪みを浮かべて、男は笑った。

 その顔に気味の悪さといったら。

 男は彼女を安心させようとしたのかもしれないが、カタリナの不安はより深い谷へと誘われただけだった。


 錆びた金具を軋ませて、男は扉を開いた。

 その背中に、カタリナは声をかける。


「どこかでお会いしませんでしたか」


 男の足が一歩踏み出される。部屋の外で足を止めると、肩越しに男はカタリナを見た。


「いいえ。お会いしたのは、これが初めてです」


 そんなバカなことはない。私は確かにお前に会っている。

 心に浮かび上がった恐怖を、ささやかな勇気で押しつぶす。

 カタリナが睨んでやると、男は肩をすくめ、


「思い当たるとすれば」


 と、人差し指をピンと立てた。


「私の知り合いだと思いますよ。彼は、私とよく似ていますから」


 男の頬がまた釣り上がった。肉の間から黄ばんだ歯が覗く。


「少々お待ちくださいませ」


 男が部屋を出て、扉をしめた。

 隔絶を突きつけるように、硬い開閉音が部屋中に響きわたる。

 あの悲痛な悲鳴は、男が部屋を出て行ってからすぐ、聞こえなくなった。


 静寂が何を意味しているのか、カタリナにはわからない。

 けれどこの静寂に、カタリナは知らぬうちに身を震わせた。

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