13-3

 カタリナは途方に暮れていた。

 道に迷ったのだ。

 右往左往。大通りを目指して走ったはいいものの、一向に見知った通りにたどり着けない。


 カタリナは困り果てていた。

 けれど足は止めなかった。

 気絶させた男とその仲間が追ってくるのではないか。

 不安による妄想。強迫観念が彼女の足を急かし続けていた。

 

 街は広い。その事実をついつい忘れてしまう。

 見知った店、見慣れた通り。行き交う人々の空気。

 それが全てなくなると、同じ街なのに、まるで違う国に迷い込んだ気持ちになる。


 道を聞こうにも、時刻は夜中を過ぎている。

 人とすれ違う音もなければ、店もすっかり閉まっている。

 道を教えるために、わざわざ寝床から起きてくる人間などいるわけがない。

 

 だが、そんな人間がいてくれないかと、カタリナはわずかに願った。

 そして足を動かし、その幻想を自らで踏み潰して行った。


 通りを進んでいくと、広場に行き当たった。

 中央に枯れた噴水があり、傍に放置された荷車が置いてある。

 よく見ると荷車の下に、生き物の目が潜んでいた。

 

 カタリナの気配に目が動き、俊敏な影が荷車の下から飛び出てきた。

 猫だ。黒い体毛が闇に紛れ、瞬く間にどこかへと走り去っていった。


 噴水を背にして置かれた、無人のベンチ。

 一息つこうと、カタリナはそこへと向かい、腰を下ろした。

 ベンチの座面は腐食が進んでいたが、壊れることはなかった。


 不安と疲れをため息に乗せて。

 深く、深く吐き出した。

 何度かそうしているうちに、気分が落ち着いてきた。


 ひとまず、落ち着ける場所を探した方がいいだろう。

 これ以上進んでも、迷い続けるだけでキリがない。

 明るくなれば人も出てくるだろうし、その時の方が早く道を進めるはずだ。


 問題なのはその場所。

 追手に見つからず、一晩を無事に空かせる場所。

 そんな理想的な場所があればいいのだが。


 この際汚いだの、屋根がないだのと言ってはいられない。

 とにかく、探さなければ。

 

 膝に手を置いて、重い腰を上げる。

 息を一つついてから歩き出そうとした、その矢先。


「こんばんは」


 突然の声かけに、カタリナは肩をびくりとさせた。

 恐る恐ると顔を向けてみると、そこに身なりのいい男が立っていた。

 顔は、シルクハットと闇のせいでよく見えなかった。

 両手には白い手袋をはめ、腕にはステッキをひっかけている。

 貴族風の男。こんなくたびれた街には、似つかわしくない。


「こんな夜更に女性が1人で。どうされましたか」

 

 男は優しい声色を使って声をかけてくるが、どうにも怪しい。

 念願の人間に出会えたが、カタリナは緊張を解くことはできなかった。


「いえ、何でもありません。お気になさらず」


 カタリナは通りを見た。

 怪しげな紳士以外に、人影は見当たらない。

 背後にも気をつけたが、広がる闇の中に人の気配は感じなかった。


 もしかすれば、本当に親切に声をかけてくれただけなのだろうか。

 それなら、カタリナは失礼な態度をとっていることになる。


 だが、彼女はそうは思えなかった。

 じりじりと背後へ下がる。


「夜ふけに見知らぬ男に声をかけられたんだ。警戒されて当然でしょう」


 男はその場を動かなかった。

 声色を変えることもなく、態度を変えることもない。

 余裕さえ感じる彼のたたずまいに、カタリナはどう反応したものか。

 判断に困った。

 ただ、ここを離れるべきだとは思った。

 それも、今すぐに。


「そう怖がらないでくださいませ」


 男はハットの縁を指でつまむと、ゆっくりと持ち上げた。

 雲間から月が顔を出した。

 青白い光が空から降り注ぎ、あたりの闇を淡い青の光で照らしてくれる。


 カタリナはハッとした。

 その顔に見覚えがあった。

 赤くただれた顔。

 人を人と思っていないような、氷のように冷めた目つき。

 ジョナサンのビルで偶然出くわした、あの男だったのだ。


「何も、あなたに手を出そうなどと思っていないのですから。カタリナ・ビルゲートさん」


 カタリナはもう迷わなかった。

 踵を返して、一目散に駆け出した。

 あの男は追ってこなかった。

 その場に留まり、くすりともせずに彼女の背中を見送っている。


 追いかけられなかったわけではない。

 追いかける必要がなかったのだ。


 闇から生えてきたように、突如として物陰から足がぬっと現れる。 

 カタリナはその足につまずき、前のめりに倒れた。

 腹に胸。それに鼻をぶつけ、彼女の目に涙がたまる。

 顔を上げると、大きな革靴が見えた。

 恐々とした顔で、靴から足首。そして足へと見上げていく。


 見覚えのある顔があった。

 それはカタリナをあのアパートに連れてきた男だった。

 残念だったのは、彼は連絡をしに行った男ではなかった。

 彼女は首を絞め、昏倒させた方の男だった。


 案の定、男はイラついた目で彼女を見下ろしていた。

 手は居心地が悪そうに、首の中をさすっている。

 よく見れば、シーツの後が生々しく残っていた。


 男が靴を振り上げた。

 男の靴裏が視界を覆った時、強烈な衝撃が後頭部を駆け抜ける。

 嫌な衝撃音が、頭の中に響いた。

 そして、彼女の意識は暗闇へと吸い込まれた。

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