12-8
「ボスが姿を表すのは滅多にない。重要な取引か、もしくは個人的な仕事の時だけに限られる。一番よくあっていたのは、おそらくあの女か俺くらいのもんだ」
車窓から煙を吐き出しながら、フィリップは外を見た
木立の間から、夜空が見える。
分厚い雲が空を覆っているせいで、星々は見えなかった。黒一色に統一された光景。面白いものは何一つない。
窓にフィリップの顔が映り込む。
相変わらず、彼の顔から脂汗があふれている。幾分顔色も悪い。
ヴィオラの一撃が効いているのかもしれない。白いジャケットには血が滲み、今では白よりも赤い方が目立っていた。
「ヴィオラは知らないようだったが」
「顔を合わせるからって、自分の居処を話すとは限らない。本当に信用しているか、何かしらの思惑がない限りは話すことはない。そう言う意味じゃ、あの女はそこまでだったんだろうさ」
「お前は違うと」
「運よくな」
窓から腕を伸ばすと、指に挟んだタバコの吸い口を叩く。灰が火花とともに落ちていった。
「で、見返りに何を用意してくれるんだ。ジム・フランコ。言っとくが、このネタは高くつくぞ」
タバコを口に加え、たっぷりと煙を吸い込む。フィリップの鼻から出た煙が、俺の顔をかすめた。
「金か、仕事。俺に用意できるのは、それくらいしかない」
「金なんかに興味はねぇ。俺がほしいのは、お前の腕だよ。ジム」
タバコを床に落とし、フィリップは靴底で踏み潰す。細い煙がチリと一緒に舞い上がる。
フィリップが靴をどかすと、潰れたシガレットから、茶色の煙草がはみ出していた。
「誰かを殺したいのか」
「殺したいじゃねぇ。殺さなくちゃならねぇんだ」
砂利でも噛んだように、フィリップの顔が不快感で歪んだ。
「俺の余生のためには、あいつは邪魔でしかねぇ」
「自分のためにか」
「どんなに言葉を取り繕おうが、所詮、人間は自分のためでしか動けないし、動かない。だろ?」
同意を求めるように、フィリップが首を傾げ、俺を見る。実際はその通りであるし、動物で有る限りは、自分本位の生き物に他ならない。
他人を労うのも、手を差し伸べるのも、自己悦にひたるためであり、名声と言葉はその隠れ蓑に他ならない。
それ自体責めるべきものではない。
どんな聖人、善人であれ、その快感を克服するのは難しい。
それを克服できたとすれば、それは人間を止めた何かなのかもしれない。
だが、改めて同意して見せることではない。可及的速やかに議論すべきは、そんなことではない。
「誰を殺してほしい」
「話が早くて助かるぜ」
フィリップの汗ばんだ顔に、笑みがこぼれた。
両膝を支えにして、両肘をつく。
両手を組み合わせ、体を前に倒してくる。
「ボスを殺してくれ」
「ブロクソスのか」
「そうだ。あいつが死ねば俺は自由になる。銀行家は廃業する他にないが、なくなっても困らないくらいには、蓄えがある。余生くらいは穏やかに過ごしてぇんだ。俺は」
「場所を教えろ」
「やってくれんのか」
「もとより、そのつもりだ」
「そいつは都合がいいや」
指を立てて、くいくいと折り曲げる。呼んでいるらしい。
顔を近づけると、フィリップの顔が俺の耳元に近づいてくる。
「森から北に行った場所に、古い城跡がある。知ってるか」
「大戦で崩れたって言う、あれか」
「そうだ。城の下に秘密の地下室がある。入り口は大広間の暖炉。そこが入り口だ。入り方は行けばわかるだろうさ」
「そうか」
「で、見返りの件、忘れるんじゃねぇよ」
「わかってる」
フィリップから顔を離し、座席の背もたれに寄りかかる。
「お前の身柄は、荷物と一緒に国外に移動させる。仕事が終わり次第、移送に取り掛かる」
「生身の人間を、ガラクタと一緒に運ぶってわけか」
「生きるためだ。そのくらいは我慢しろ」
「生きるってのは、難儀なこったな」
そう言って、フィリップは肩をすくめた。
「まったく、嫌に、なるな」
と、フィリップの顔が苦悶に歪んだ。腹部を抑え、彼の体が弓形に曲がる。
そして、吐血。
太腿の傷とは無縁の、なんらかの症状であることは明らかだ。
「おい」
心配にならないはずはなかった。彼への怒りと、ささやかな殺意は困惑に飲み込まれる。
俺はフィリップの肩を掴んで、彼の顔を覗き見た。唇を染める生々しい赤。唾液と血が混ざり合い、テラテラと光っている。
「今、何時だ」
「なに?」
「何時だって、聞いてんだ。時計くらい、持ってんだろ」
フィリップはどうにか体を起こす。
口から垂れる血が、彼のシャツをまた赤く染めた。
言われるがまま、俺は懐中時計を取り出し、蓋を開いてフィリップに見せる。時刻を確認した途端、彼は疲れた笑みを浮かべた。
「お前に言っておきたいことがある」
「まだ何かあるのか」
「ああ、あの貴族のお嬢ちゃん。カタリナ嬢のことだ」
俺は思わず目を見開いてしまった。どうして今になって、フィリップの口から彼女の名前が出てくる。
「彼女に何をした」
「いいや、何もしちゃいないさ。少なくとも俺が見ていた限りはな」
「彼女はどこにいる」
「俺が昔住んでたアパートだ。街の北側、途切れた水路の先にある。まだ生きているとは思うが、拾いにいくなら、急いだほうがいいだろうさ。何せ、彼女を見張ってるのは頭の悪い連中だからな」
「彼女に何かしてみろ。ただじゃおかない」
「俺に言ったところで仕方ねぇだろ。もっとも、こんな死に体の人間をどうこうしたところで、何が変わるわけでもねぇがな」
殺意が振り返してくるのを感じる。殴りつけたい衝動に駆られたが、もはや彼に感けている暇もなかった。
俺は急いで立ち上がり、ヴィオラに呼び戻そうと馬車の戸に手をかけた。
だが、その手をフィリップに止められた。
「じっとしててくれ」
「何を言っている」
「いいから、何。すぐに終わるさ」
フィリップはシャツのボタンを外し、はだけて見せる。ふざけているのか。焦りから、彼への苛立ちがますます募っていく。
今度こそ殴りつけてやろうかと思った時、彼の腹部が目に入った。
大きく、そして雑に縫い合わされた肌。その下に奇妙なふくらみが見て取れる。
かすかに聞こえてくる、時計の針のような音。得体の知らない何かに、そしてそれを体内に仕込んでいるフィリップに。いい知れない恐怖を感じた。
「時間稼ぎにしちゃつまらない話だったな。悪かったな、付き合わせちまって。運が良ければ、見返りの件。よろしく頼むぜ」
フィリップの言葉の後。彼の体内の時計が、かちりと音を立てた。
火薬の匂いと、眩い光。
そして、衝撃。
俺の目と体は光と衝撃に飲み込まれた。
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