12-7
寂れた廃屋を出てから、どれくらい時間が経っただろう。
揺れる馬車の中で、カタリナは耳をそば立てて、あたりの状況を確かめようとしていた。今のところ努力が結ばれた実感はない。
目隠しで視界を奪われ、フィリップと男たちの会話のせいで、ろくに音も聞こえなかった。
彼らの会話というのもヒントになるようなものはなく、娼館の女だの、うまい仕事の話だの。どれだけ金を稼いだだの。見栄と自慢、感想が交互に行き交うだけの、空虚な内容だった。
わずかに聞こえてきた馬の足音から、おそらく大通りに出たことはわかった。
裏通りは土道が多く、蹄鉄は鈍い音を響かせる。
しかし今は、心地のいい快活な音に変わっている。
石畳を蹄鉄で蹴る、あの音だ。
これから向かうのは大通り沿いの、あるいは通りを抜けた街の外にあるのかもしれない。
「ここで止めてくれ」
フィリップが指示を出すと、馬車を緩やかに止まった。
前に倒れかけるカタリナを、誰かの手が支えてくれる。
フィリップであることを願うが、それ以外だとしても、武器がない以上抵抗の使用がなかった。
フィリップに体を許したわけではない。
ただ、見知らぬ男たちに触られるよりかは、フィリップに触れられた方がまだマシだと思ったからだ。
「待っていてくれよ。すぐ戻るから」
フィリップの声が聞こえた。
そしてすぐ、目の前を誰かの気配が通っていく。
足音が馬車を離れる。どこかへ向かっているようだ。
目で確認することはできない。
彼女は耳を頼りに顔を傾け、あるはずの背中を見送った。
男たちはヒソヒソと声をひそめ、何かを話し合っている。
耳を傾けてみたが、内容を知ることはできなかった。
彼らの話ぶりから、何かの相談をしているのだとは思った。
10分ほどが経っただろうか。
正確な時間は彼女にもわからない。
だが、きっとそのくらいは経ったと思う。
その時、馬車がわずかに揺れ動いた。
何かがぶつかった。男のどちらかが動き、外に出ていく。
慌てた声が聞こえてきた。
重い足取りで荷台に乗り込み、何かをカタリナの横の席に置いた。
「出してくれ」
フィリップの声だった。
だが、先ほどの様子が違う。
痛みを堪えているように聞こえた。
息が荒く、息の合間にくぐもった呻き声が混じっている。
「何か、あったんですか」
カタリナは問いかける。
けれど、フィリップからの返答はなかった。
「急いでくれ」
ただ、フィリップの必死さだけは伝わってきた。
「驚いただろ」
フィリップのにやけた面を、こんなにも腹立たしく思ったことはない。
彼と同居していた時も、苛立つことはあった。
だが、殺意が湧いたことはなかった。
「ずっと監視していたのか。俺のことを」
「なんだ、もっと驚いてくれてもいいだろ。会いたがってたんだろ、俺に」
不服と言いたげに、フィリップは顔をしかめた。
思ったよりも、反応が少なかったのだろう。
苛立ちがますます募る。だが、俺より先に手を出したのは、ヴィオラだった。
彼女の体が弾かれたように動いた。
腕でフィリップの首を壁にたたきつけ、そのまま彼の喉を締め上げる。
「よくもまあ、人を馬鹿にしてくれたものね。あの時から、私のこと知ってたんでしょ。あんた」
ナイフを素早く抜くと、彼女は躊躇なく、フィリップの太腿に刺した。
フィリップの額から、脂汗が流れ落ちる。
ヴィオラは悪趣味な笑みを浮かべている。
嗜虐心と怒りとをないまぜにした、おどろおどろしい笑みだ。
「馬鹿にしてたわけじゃないさ。むしろ、安心したんだ。あんたは、間違いなく、俺を知らないんだってね」
フィリップも負けじと笑って見せたが、痛みをかき消すほどではない。
ヴィオラはナイフをえぐり、傷口を広げていく。
言葉にならない嗚咽が、唾液と共に彼の口から漏れ出た。
「よせ」
俺がいうと、ヴィオラは目だけを動かして睨んできた。
なぜそんなことをしなくちゃならない。
彼女の目はそう言っていた。
「どうして」
補足するように、ヴィオラの口が動いた。
「殺すな」
「そうだぞ。せっかくの手がかりが、水の泡になっちまう」
茶化すようにフィリップがいう。
ヴィオラは俺とフィリップを交互に見た。
彼女はフィリップへの殺意を、同じように俺にも向けてきている。
俺は身構えたが、彼女のナイフがふるわれることはなかった。
もう一度フィリップの傷をえぐると、ナイフを引き抜き、血を払った。
返り血が、フィリップのスーツを赤く汚した。
「あ〜あ。一丁羅が台無しだ」
フィリップはジャケットを脱ぐ。
ジャケットの袖を太ももに結びつけ圧迫。
簡易的ではあるが、止血を施した。
「俺のことも、知っていたのか」
「お前の
「それ以外に何がある」
「怒るなよ。短気は損気だって言うぞ。まあ、青筋立てたい気持ちはわかるがな」
フィリップは肩をすくめる。
彼の態度。彼の口調。
学園の部屋にいるような、奇妙な気分にさせられる。
もっともここは学園の部屋ではない。
今さら同僚の関係に戻ることもできない。
「……話はまた後だ」
手綱を振り、馬を走らせる。
倉庫付近を離れて、街を離れる。
街の郊外にある森の中で、馬車を止める。
追手はなかった。
御者台から降りて、俺は馬車に乗り込んだ。
フィリップはまだ生きていた。
ヴィオラは不服そうに顔をしかめている。
ナイフを握ったまま、自分の太腿を叩いていた。
「さっきの質問だがな」
フィリップが口を開いた。
いつものように軽口を叩くような、気軽な口調だった。
「俺がお前を知ったのは、お前が酒場で仕事をしてからだ。お嬢さんが来た時点では、お前のことはただの同僚としか、思ってなかったよ」
「ドミニク殺しか」
「いい腕だったそうじゃないか。なあ、お嬢さん」
フィリップがヴィオラに声をかける。
が、彼女はフィリップを睨むだけで、返答はしなかった。
「よっぽど恨まれてるらしいな」
フィリップはため息をつきながら、苦笑まじりに俺を見る。
「お前に聞きたいことがある」
「ボスの居場所。だろ」
フィリップは肩をすくめる。
「わかっているなら、話せ」
「見返りはなんだ」
「なに?」
「俺は損をするのが嫌いなんだ。見返りもなしに話すんじゃ、面白くないだろ」
「生かしておいてやる。それではダメか」
フィリップは首を振った。
「そんなのは当然だろ。それにもう一個、上乗せしてくれねぇと」
「あんまり調子に乗るんじゃないわよ」
ヴィオラのナイフが、フィリップの喉に向けられる。
「殺したけりゃ殺せばいい。その代わりボスにはたどり着けない。ボスの神出鬼没具合は、あんたもよくわかってるはずだろ」
ヴィオラは苦虫を噛み潰したような、渋い顔をした。奥歯を噛みしめながら、首を傾げる。ようやく踏ん切りがつくと、ナイフを彼の喉元から離した。
「頭、冷やしてくる」
ヴィオラは深々とため息を溢すと、馬車を降りていった。
彼女の背中を見送りながら、俺は再びフィリップに視線を向けた。
「血の気が多いな、お前の女は」
「俺のじゃない」
「そうムキになるなよ。お似合いだと思うぞ、俺は。……タバコ、いいか」
「好きにしろ」
「悪いな」
スラックスのポケットから、シガレットケースを取り出す。
蓋を開く。12本のシガレットとマッチが、整然と並べられている。
フィリップはそこから一本を取り出して、口に加えた。
マッチを一本取り出し、馬車の壁で先端を擦る。
火が灯ると、シガレットの先端をあぶった。
「お前もどうだ」
フィリップがケースを差し出してくる。
普段はタバコは吸わない。
だが、今日ばかりは付き合ってもいい気がした。
ケースからマッチとシガレットを取り、同じように火をつける。
深い一服。シガレットの灰が徐々に伸びていく。
フィリップは紫煙を鼻から吐き出す。俺も、口から吐き出す。
タバコの匂いが、沈黙を埋めていく。
「悪いな、ジム」
なぜフィリップが謝ったのか、俺にはわからなかった。
ただ、その一言を皮切りに、フィリップは話を始めた。
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