12-5
暗がりに響く誰かの声。
かすかなその音に誘われるように、カタリナの意識が暗闇のそこから引き戻された。
まぶたを震わせ、目を開く。
うすぼんやりとした黒は、やがて埃まみれの床へと変わっていく。
湿った隙間風が彼女の頬を撫で、つんとカビの匂いが鼻をついた。
どこかの部屋。
目につくものが何一つない寂しい空間の中に、彼女は倒れていた。
咳き込みながら、どうにか体を起こそうとする。
と、体が不自由になっていることに気づいた。
見ると、両腕と胴体を縄で縛り付けられていた。
また両足にも、同じ縄が巻きついている。
あの男たちがやったのだろうか。
顔をしかめたと同時に、後頭部に鋭い痛みが走る。
殴られた場所が、今になって痛み始めた。
顔をしかめながら、壁を支えにしながら体を起こす。
遠くから男の声が聞こえた。
さっきも聞いた声だ。
だんだんと声が近くなり、声につられて靴音も聞こえてくる。
ぎしぎしと床が軋み、足音がドアの前で止まった。
ドアがゆっくりと開かれる。
顔を出したのはフィリップだった。
彼はカタリナを見るや目を見開き、眉間にシワをよせる。
厳しい顔つきで背後を見ると、続いてきた2人の男に睨みをきかせた。
「馬鹿野郎だよ。本当に。テメェらは迷惑しかかけられねぇのか」
今にも殴りかかりそうな、不穏な気配がフィリップの体から漂っている。
男たちは恐縮し、うつむき、首をすぼめる。
握り締めた拳をそのままに、フィリップは顔をカタリナに向けて、ズカズカと部屋に入ってきた。
ポケットに手を突っ込むと、取り出したのは一振りのナイフ。
カタリナは身構える。
フィリップは彼女の緊張が理解できたのだろう。
柔らかく頬をゆるませ、
「心配することはないですよ。お嬢さん」
と優しげな声色で言った。
彼のナイフは言葉の通り、カタリナを傷つけることはなかった。
逆手にナイフを握ると、カタリナを縛る紐に刃を当てる。
そして上下に動かしながら、縄を少しずつ切っていく。
キツかった縄は次第に緩み、ナイフに切り裂かれ、彼女の太腿にはらりと落ちた。
「申し訳ないね。こんなことに巻き込んでしまって」
ナイフを鞘に入れて、ポケットに入れる。
フィリップは眉根を下げて、彼女を見た。
申し訳なさそうにしている。
しかし、カタリナが聴きたかったのは、謝罪の文句ではなかった。
「貴方は何者なんですか、フィリップさん」
フィリップは肩をすくめた。
そして背後に目をやり、男たちに目配せをする。
男たちは頭を下げて、ドアをしめた。
金具の擦れる嫌な音。
パタンと開閉音が聞こえると、男たちの足音が遠ざかっていった。
「俺は俺ですよ、カタリナ譲。それ以外の何者でもありませんや」
「そういう意味ではなくて……」
「そういう意味にしておいてくださいよ。これ以上、あんたを巻き込むにゃ忍びないんですから」
フィリップから微かに、ちりりと鋭い気配が漂う。
殺気。ジムから発せられた気配と同じものが、カタリナの背筋を冷たくなぞった。
「俺とカタリナ嬢は、こんなところでは出会わなかった。そういうことにしますから、どうかこの件はご内密にしちゃもらえませんか」
「内密にって」
「無理ってことはないでしょ。ちょっとばかりぼうっとして、変な路地に迷い込んじまった。そういうことにしときゃいいだけです。ビルゲート家ほどの立派な貴族様だ。嘘の一つや二つ、簡単につけるでしょうや」
フィリップは当然のように、偏見を披露してみせる。
ビルゲートの人間を、詐欺師か何かだと思っているのだろうか。
カタリナはわずかにムッとしたが、頭の中でジョナサンの顔がチラついた。
父の態度といい言動と良いを思い返し、強く否定することができなかった。
ぐっと言葉を飲み込み、困惑したまま、フィリップの顔を覗く。
「言うことを聞かなかったら、私をどうするんです」
「それがちと面倒くさいんですがね」
フィリップは頬をかき、その顔に苦笑を浮かべる。
「脅して欲しいってんなら、そうさせてもらいますがね。女子供を脅すってのは、俺の主義に反するんでさ。ましてや男が二人がかりで、女をふんじばるのなんてのはもってのほかでね」
ぎろりとフィリップはドアを睨みつける。
「必要に駆られない限り、やらないことにしてるんでさ」
必要に駆られたから、私をふんじばったのではないか。
カタリナは内心毒づいたが、けして言葉にはしなかった。
数秒ドアを睨みつけた後、フィリップの視線が彼女に戻った。
「それにだ。ジョナサン・ビルゲートに目の敵にされるほど、肝っ玉が据わってるわけでもありませんからね。こちとらただの小悪党。泥水すすりながら、日陰をうろちょろしちるうちが幸せってもんですから」
「法に触れるようなことを、なされているんですか」
「でなきゃ、あの連中とつるむわきゃないでしょう」
フィリップは肩をすくめ、また苦笑した。
「まあ、あの連中はガタイが良いだけの、ただの馬鹿ですが。……そうだ、お怪我の方はどんな具合です。ちょっと、失礼」
肩膝立ちになって、フィリップの手がカタリナの髪を撫でる。
ふっくらと膨らんだたんこぶ。
それが髪をかき分けると、はっきりと現れた。
「あちゃあ、こりゃひどいや。血は出てませんが、1日2日は腫れるでしょうな。すみませんね、あいつら馬鹿みたいに殴ったみたいで」
「い、いえ」
恐縮した様子で頭を下げるものだから、カタリナは少し面食らってしまった。
どたどたと聞こえてくる足音。
乱暴にドアが叩かれ、返答するまもなく開かれる。
現れたのは、先程の男二人組。カタリナをジロリと眺め、それからフィリップを見た。
「時間だ」
フィリップはため息をついた。
カタリナを見ると、申し訳なさげに首をすくめた。
「ひとまずご一緒してください。移動している最中にでも、答えを聞かせてくだされば良いですから」
「どこかに向かうんですか」
「ええ。ちょっとばかり仕事が入ってましてね。彼女を連れて行ってくれ」
フィリップは男たちに目配せをする。男たちは面倒臭そうに部屋に入ってきて、カタリナを挟むようにたった。彼女の両手を抱えて立ち上がらせる。
「くれぐれも抵抗はされないように。こいつら手だけは早いですから」
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