12-3

 シモンのアパートの正面に、カタリナは馬車を待たせていた。

 御者は彼女を見つけると、猫のように曲げていた背筋を伸ばし、腕に巻きつけた手綱をしっかりと握りしめた。


「おかえりですか」


 営業的な、形ばかりの笑みを浮かべ、御者がカタリナに言う。


「いえ、まだ行きたいところがあります」


「そうですか、さっ、どうぞお乗りください」


 カタリナはうなずき、タラップを踏んだ。

 彼女が座席に座ったのを見ると、御者は手綱を振るい馬車を進める。

 馬の蹄鉄が石畳を闊歩し、小気味のいい音を鳴らしてゆく。

 カタリナはその音に耳を傾けながら、遠ざかるシモンのアパートを眺めた。


 馬車は進路を北に取り、人通りの多い大通りを進んでいった。

 歩道には子供を連れた男女の姿が多かった。

 休日らしい長閑な光景だ。

 彼らは雑貨屋に立ち寄ったり、書店や的屋、あるいは出店の前に立ち止まったりして、楽しげに買い物をしている。


 子供たちの笑い声。かけていく小さな足音。

 その姿をどこか困り顔で、そして微笑ましく見つめる親たち。

 午後の束の間のひと時。町には活気と、暖かい穏やかさに満ちていた。


 通りを抜けていくと、賑やかさも次第に遠ざかっていく。

 現れ出すのは、緊張感にも似た静けさ。

 見かける人間も制服を着た軍人や勤め人が多くなる。

 街の中心部にひっそりとたたずむ三角ビル。その前に馬車を止める。

 馬車を降りた彼女は慣れた足取りで、表情を硬らせながらビルの中へと入っていった。


 受付の女性に話を通し、カタリナは最上階を目指して階段を登った。

 何度も折れる螺旋階段。もっと楽に上る手段はないものか。

 じんわりと額には汗が浮かぶ。手の甲でそれを拭い取りながら、ようやく最上階の床を踏んだ。


 だが、肝心のジョナサンが不在だった。

 秘書の女性が親切にも飲み物をくれ、彼女は一息をついた。

 10分が経ってもジョナサンは帰ってくる気配はなかった。

 すっかり空になったコップを、秘書に返して、カタリナはビルを出ることにした。


 彼女に取っては大事な用事だったが、ここで粘っておくほどのものではない。

 また日を改めて伺います。と言って、彼女は長い階段を降りる。

 玄関を抜けていくと、馬車はまだそこにあった。

 御者は退屈そうに人通りを眺めていたが、カタリナに気がつくと、また背筋を伸ばした。


「おかえりですか」


「ええ。そうします」


「そうですか。どうぞ、お乗りください」


 御者は手綱を握り、椅子に座り直す。

 カタリナはそれを見てから、馬車のタラップを踏んだ。


「学校の寮にお願いします」


「かしこまりました」


 前方の車窓から御者が会釈をする。

 手綱を振って、馬車はきた道を引き返した。

 再びの街の喧騒。静かだった通りに活気が戻ってきた。


 横断する親子連れをやり過ごすため、一時の停車。

 何とはなく、カタリナは通りの人混みを眺めていた。


 ふと、人混みの中に見知った顔を見つけた。

 生徒ではない。

 生徒よりもずっと大きく、歳上の男だ。


 名前ははっきりと思い出せなかったが、その顔はよく覚えていた。

 その男が庭師であること。それにジムの相部屋の、フィリップという名前だということを、ようやく突き止めた。


 フィリップは人混みに紛れ、どこかへと歩いていく。

 ただの散歩。のようではない。緊張した横顔。まるで周りを気にするように左右を見るその態度に、カタリナはふとした興味を持った。


「ちょっと、すみません」


 カタリナは御者にいいながら、馬車を降りた。


「どこへ」


「ちょっと顔見知りの方がいたので。すぐ戻りますから、待っててください」


 声を張り上げたつもりだったが、喧騒にかき消された気がしなくもない。

 御者に通じていると信じつつ、フィリップの後を追った。

 ジムと相部屋なのだから、もしかすれば何かを聞いているかもしれない。

 聞いていなくとも、彼の口から何かが漏れたのを、たまたま聞いてしまったかもしれない。


 ある種の身勝手な期待と、彼の態度への純粋な興味。

 感情の推進力で人混みを抜けて、フィリップの背中をしっかりと捉えていた。


 フィリップはちらりと周囲を見ながら、通りから逸れる小径に入った。

 彼から少し遅れてから、カタリナは物陰から小径を覗く。

 建物の影になった、雨と靴跡で黒ずんだ土の道が奥へと伸びている。

 小径の奥に、フィリップの背中があった。

 だいぶ急いでいるらしい。彼の残した足跡は深く、さらに乱れた形をしていた。


 小径を出たフィリップは、丁字路を右に曲がった。

 彼女もまた彼を追って、小径をかける。

 丁字路の前までくると、物陰から顔を出して右手に伸びる路地を見た。


 フィリップは左右を気にしながら、怪しげな建物へと入っていった。

 古びた木造平家。壁にはツタが生い茂り、窓ガラスの至る所にヒビが入っている。

 長らく放置された廃屋。

 そんなところに一体何のようなのだろう。

 カタリナの興味はさらにますばかりだ。


 だが、それと同様に湧き上がってくる不安。

 これ以上踏み込んではならない。

 直感的な警鐘が、彼女の足を止め、引き返すように進めてくる。


 きっと込み入った事情でもあるんだろう。

 彼女は警鐘に従って、引き返そうと決めた。

 どうせ学園でも会うことになるんだ。

 無理むり彼の時間に割りいる必要はない。


 そう思って彼女は背後へ一歩、足をやった途端だ。

 彼女の頭部を、突然の鈍痛が襲った。

 目の前がチカチカと、火花が飛び散ったように点滅する。

 背後からの一撃だ。受け身をとる間も無く、彼女は柔らかな地面に倒れ伏せた。


「誰だ、このガキ


 野蛮な男の声が聞こえた。

 4つの革靴がカタリナの両脇を挟み、4つの手が彼女の体を持ち上げる。

 両脇の下に入る手。

 その違和感が痛みで消される。

 彼女は乱暴に、力任せに引きずられていった。

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