11-5

 廃屋の1階。草の生え散らかした土間の奥に、地下へと続く階段がある。

 その昔、地下には立派なワインセラーが用意されていた。

 赤、白のワイン。シャンメリー、シャンパン、ジュース。

 各種の飲み物が、そこで保存されていた。

 地上に比べ、地下は温度を一定に保ちやすい。

 その特性を生かして、地下には酒や飲み物の保管庫として使われていたのだ。


 だが、今はその痕跡はわずかに残ったワインボトルの破片だけである。

 棚も酒も全て撤去され、がらんとした空間が広がっている。


 階段を降りて真っ直ぐに行ったところに、ドミニクは縛り付けられていた。

 かさぶたと青痣だらけの顔。

 骨折の目立つ腕、足。

 そんな彼に止めを刺すように、腕と両足はきつく縄が巻かれている。


 ドミニクには息があった。

 だが、それが彼にとっての幸運だったかどうかはわからない。

 わずかに身体を動かせば、激痛が彼を襲うため、彼の表情は常に苦悶に満ちていた。


 意識を失いかけると、目の前から水が浴びせかけられる。

 それが彼を捉えている、男たちの役目だからだ。

 ドミニクが意識を失わないように。また死なないように。

 痛みと冷気よって、彼の意識をつなぎとめている。

 咳き込む気力もなく、ドミニクは全身を伝う水滴を、他人事のように眺めていた。


「生きてるか、おい」


 小馬鹿にするような男の声。ドミニクの見張りだ。

 彼を含め、地下には3名の男が控えている。

 階段の降り口に1人。

 そのすぐ近くの椅子に1人。

 ドミニクの目の前に1人。

 目の前にいる男はバケツを手放すと、ドミニクの髪を掴み、顎を上にむかせる。


「死んじゃいねぇな」


 切れ長の鋭い目が、ドミニクの顔を覗き込む。

 ドミニクは返事をしなかった。

 それに腹を立てたのか。男は唾を吐き捨て、拳で彼の頬を打ち据える。

 鈍い痛みが迸る。

 歯が砕け、口の中に破片が散らばった。


「よせよ。殺すなって言われてんだろ」


 椅子に座った男が、つまらなそうに言った。


「くそが」


 男はドミニクの顔面に唾を吐き付ける。

 どろりとした液体が鼻梁を伝い、鼻の下、さらに唇をなぞっていく。

 鼻の穴に入り、なんとも言えない生臭い匂いがする。

 彼が呼吸をするたびに、その匂いが鼻腔を侵し、ドミニクの体内へと侵入してくる。


 だが、ドミニクにはそれを拒絶するほどの余裕はなかった。

 希望が一つも見当たらない闇の中。

 彼はただ平穏を願い、この悪夢から脱することができれば。

 目の前の脅威が闇か光かに飲み込まれてくれればと、祈り続けた。



 地下へと続く階段。その入り口の前には2人の男が立っている。

 彼らは左右を警戒しては、手に持ったランタンを闇に掲げ、見えざる敵を探している。


「おかしいな」


 緊張した声で背の高い男が言う。

 見張りの交代時間はとっくに過ぎている。

 にもかかわらず、男たちの仲間はやってこない。

 それだけではない。

 巡回しているはずの仲間の足音も、ピタリと止まってしまった。

 何かあったのではないか。そう思わずにはいられない。


「中の連中を、呼んできた方がいいんじゃねぇか」


 小太りの男が、か細い声で言った。

 背の高い男は判断を迫られた時、何かが視界の端を過ぎったような気がした。


 男は剣をしっかりと握りながら、視線を動かす。

 そこに広がっているのは、黒い闇。

 篝火の明かりを受けて、暖色に彩られてはいるが、闇が晴れることはない。


 2人の男がじっと、闇を睨みつける。

 すると、闇の中で何かが動いた。

 篝火の前を、小さな物体が通り過ぎる。

 それは男たちの前に落下し、鈍い音を立てて転がった。


 男たちは、それを見た。

 そして血の気が失せる感覚を覚えた。


 転がったそれは仲間の顔。

 胴体が消失し、首だけになった仲間が、そこに転がっていた。


「どういう、ことだ」


 背の高い男は呆然とした。

 小太りの男は口を押さえ、こみ上げる吐き気と格闘する。

 が、数秒と立たずに彼の我慢は決壊した。

 音を立てて吐き出される吐瀉物。

 背の高い男はその悪臭で、ようやく我に帰った。


「下の連中に伝えてこい。襲撃だ」


 背の高い男は震える声で、嘔吐する男に声をかけた。

 背中を丸めた小太りの男は、涙目になって男を見上げる。

 そして視線をわずかに外らせた時、小太りの男は身震いした。

 寒気ではない。明らかに何かに恐怖した震えだった。


 闇の中からわずかに聞こえたのは、微かな足音。


 男たちは悟った。

 転がる首は、囮だったのだと。


 背の高い男の死角。そこから鋭い刃が伸び、首に突き立った。

 首が割れ、潜血があたりに撒き散らされる。

 小太りの男は悲鳴を上げることなく、その場で腰を抜かしてしまった。


「お、お前は……」 


 闇から現れたその男。

 屋敷から逃げ、仲間のアジトを襲った男。

 ジム・フランコだ。


 ジムは背の高い男からナイフを抜く。

 仲間は血を吹き出しながら、膝から崩れ、小太りの男の足元に倒れていく。


「た、助けてくれ」


 その言葉が、この男にとって何の意味もないことは知っていた。

 だが、言わずには入れなかった。

 万が一にも助かる見込みがあれば、すがりつかないではいられないのが人間だ。


 だが、ジムからの返答はなかった。

 返り血に塗れた顔に浮かぶ無。冷たい瞳が、男を見下ろすばかりである。

 股間が熱くなるのを感じた。

 血の中に何か別の液体が混ざっていく。


 そして、ナイフはふるわれた。何の前触れもなく、突然に。

 小太りの男の頭部に突き刺さる刃。

 カエルが潰れるような奇妙な悲鳴とともに、小太りの男は白目を向く。

 意識が途絶えるわずかな瞬間。首が傾く感触と、何かが折れる音を感じた。

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