8-4
カビの匂い。水の匂い。地下の冷えた匂い。
おぼろげな五感の中で、その匂いが嗅覚を刺激した。
「ここは私に任せてくれ。損はさせない」
遠くから、男の声が聞こえた。ドミニクの声だった。
彼は誰かと話をしている。
「大丈夫なのか」
低く、ざらついた声。聞き覚えのない声だ。
「心配するな、うまくやる」
靴音が遠ざかる。硬いドアが開く音。
薄目を開けると、ドミニクが外から入ってくるのが見えた。
「起きているかね」
「ええ、起きてます」
俺が言うと、ドミニクの体がびくりとはねた。
「本当に、起きていたのか」
「貴方が聞いたんでしょう」
顔を上げると、背筋にひどい痛みが走った。
両手と胴を縄で結ばれ、おまけに両足には鎖が巻かれている。
「厳重に、縛りあげましたね」
「他ならぬ君だからな。慎重に慎重を重ねても余りあるくらいには、君は危険だ」
「起こしてもらっても、よろしいですか」
「ああ。構わないとも」
ドミニクは両手で俺の体を持ち上げる。
そして壁に背中を向けて、俺は座らせた。
「気分はどうだい」
「いいように見えますか」
「いいや、最悪に見える」
部屋の隅に椅子がある。
その椅子を手に取ると、ドミニクは俺の前に持ってきた。
「さて、何から話そうか」
椅子に腰を下ろすと、ドミニクは言った。
「まずは、貴方のことを教えてください」
「……そうだろうな」
ドミニクは肩を落とし、息を吐く。
数秒俯いた後、彼はおもむろに語り始めた。
「私はとある組織と通じていた。ブロクソス。その名前の方が、君には馴染みがあるかもしれない」
「いつからです」
「あの学校が作り上げられてから。もう長い付き合いになる。その頃はブロクソスなどと言う名前はなかった。ただ5人の男が集まり、社会の未来や個人の将来。望まれる理想を語り合う。そう言う集まりだった。それがいつの頃か、君の知るところのブロクソスになってしまった」
「ジョナサンは、このことは」
「知らないはずだ。無論、知っていて私と付き合ってくれていたかもしれないが」
ドミニクはポケットからスキットルを取り出す。
鉄の蓋と開けて、唇をつける。
中に入った酒を喉に流し込む。
十分に喉を潤し、咳き込んだ後。ドミニクは潤んだ瞳が俺を見た。
「彼らの正体については、いつ知ったのです」
「……正体、と言うよりは変化と言った方が早いかもしれない」
「変化?」
「穏健な哲学者が、過激なテロリズムに染まったような。急激な変化だ」
彼はそこで言葉を切り、酒を飲む。
「彼らに関して、どの程度ご存知なんですか」
「何も。関係があったとはいえ、私は部外者に過ぎないからな。組織の構成から、あの五人が今どこで何をしているのかさえ、何一つ知らない」
「では、どうしてこんな真似を」
「君を護るためだよ」
「護る?」
その時、ドアをノックされた。
「どこまで聞き出せた」
あの男の声だ。
「まだ始まったばかりだ。そんなに焦らないでくれ」
「……早くするんだぞ」
そう言って、男は早足でその場を去っていった。
「あの男は」
「ブロクソスの人間だ。もっとも、私の知る彼らの部下とは、到底思えないがな」
ドミニクは肩をすくめる。
そして、俺に顔を向ける。先ほどよりも声を小さくして言った。
「君が私の家を訪ねることは、事前に聞かされていた。彼らの仲間がやってきて。私に通達してきたんだ」
「自分の行動は読まれていた。そういうことですか」
「君が逃げた場所から、私の自宅は近かったそうだからな。彼らも危惧したんだろう」
「奥様も、ご存知だったのですか」
「いや、君が去ってから初めて明かした。詳細な説明は差し引いたし、多少の嘘も交えたがな」
また足音が通った。遠ざかるのを待ってから、ドミニクは話を続ける。
「逆らうこともできたのでは」
「正義感に燃えるほど、私は若くないよ。逆らった場合の満足より、逆らわない場合の平穏の方が何よりも尊い。それに、私の無責任で子供たちを危険に晒すわけにはいかない」
「確かに、そうかもしれませんね」
ドアが叩かれる。
「今やっている」
苛立たしげに、ドミニクはドアを睨みつける。
「短気な男のようですね」
「若さが余りあるのも考えものだよ。まったく」
ドミニクはため息をこぼす。
「これから、自分をどうするのですか」
「予定で行けば、君は殺されるだろう。だが、私はそれを望まない。だからこそ、こんな面倒な手段を踏むことにしたんだ」
「貴方を信用しろと」
「君を殺すつもりなら、睡眠薬でなく毒薬を君に注射していた」
ドミニクは俺の足元にしゃがむと、鎖についた錠前の鍵を外してくれた。
「私にできるのはこれくらいだ。あとは君の努力に頼る他にない。頑張ってくれ」
俺を励ますように、ドミニクは微笑を浮かべる。
「ブロクソスの銀行家というのを、ご存知ですか」
ドアノブに手をかけたドミニクに、俺は尋ねた。
「聞いたことはある。だが、彼に会ったことはない。街の中に住んでいるということは聞いたが、それ以上のことは何も知らない」
「そうですか。……それと、もう一つ」
「何かね」
「ヴィオラは、今どこにいます」
「……そうか。彼女とも知り合いだったか」
ドミニクはため息をつく。
そして俺に振り返った。
彼の顔には、深い悲しみが浮かんでいる。
「彼女は、生きている。おそらくここのどこかにいるはずだ。だが、きっと死んだ方がいいと思える扱いを受けていると、思う。なんと言ったって、彼女は裏切り者だから」
「ここは、どこです」
「街にある廃倉庫の地下。ブロクソスが買取、新しく作った場所だ」
「彼女は、ここのどこかにいるんですね」
ドミニクはうなずいた。
「ありがとうございます」
「無闇に荷物を抱えないほうがいい。見捨てるときは、きれいさっぱりに忘れることだ」
「……ご心配、痛み入ります。ですが、俺がここで息をしていられるのも。もとはといえば、あいつのおかげなんです」
「恩を返す、か」
「そんな高尚なものじゃありませんよ」
鎖をほどき、俺は重い腰を上げる。
「ただの、腐れ縁です」
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